夢の続きー総司と常親ー
総司は微熱を抱えたままだった。
池田屋襲撃以降、それとは気づかないわずかな疎外感が、総司を倦ませた。
剣術の稽古にも身が入らず、それでもこなさなければならない隊務がわずらわしい。
やがて倦怠感が総司を襲い、外へ出ると冷や汗やめまいに悩まされた。
こんなことではいけないと思うのだが、床を離れられない日が数日続いた。
夜半にひとしきり降った激しい雨が、夏の名残をを引きずる暑気を運び去った。
入れ替わるように、艶やかな初秋の香をたずさえた風が簾の裾を押し、総司の床へ手を伸ばした。
昨夜はよく眠れたようだ。
その激しい雨音は、近く遠く鳴る潮騒のように心地良く、総司の意識を溜まる雨水の深い水底へとを誘った。
風の匂いにふと目覚めた。
季節は知らないうちに移り変わり、体だけがそれを感じて大人びてゆくのだと総司は思う。
心はまだ赤児のようで、あやふやなものに惑わされてばかりだというのに。
「近藤さんは京へ来てから変わったな。あの人がいなくなってからはとくに」
近藤の以前を知る者は口々に言った。
芹沢粛清以後、ひとつの思想を頼りに集結していた隊士達は、方向性が揺らぎ始め、隊士への締め付けだけが厳しくなった隊を次々に脱した。
「ふぬけた奴らだ」
日ごとに増す脱走者を土方が侮蔑した。
自分も不抜けのひとりに数えられるのかどうか、面と向かって土方に聞いてみたいものだと総司は思う。
「今日は気分が良いのか」
近藤に声を掛けられた。総司は気づかない振りをし、屯所を離れた。
池田屋襲撃で名をあげ、懐も潤った隊は、徐々に勢いを盛り返していた。
朝から聞こえるわずかばかりの喧騒が、総司にはわずらわしい。
たまらなく独りになりたかった。
浸潤した雨に、往来を形成する土が匂いたつ。
雨の匂いはそれ本来のものではなく、沁みていくものの匂いを際立たせる。
たとえば土埃の、あるいは草いきれの、香しい花芯の、そして若い娘の袂にただよう焚き物の……。
ひとときの間にその匂いは移ろっていくのだ。
八木の家の前を過ぎようとして、総司の足が止まった。
門扉に続く板塀にもたれかかっている若い男と目が合った。
濃い藍に白い蚊絣の木綿の単衣。細い縞の袴を足高にまとい、手甲脚半と旅装束のままだ。
ほんの今し方、三条の橋を渡って来たという風情で、物憂げなのは疲れのせいでもあるかのようだ。
無防備に腕を組んでいた男は、背筋を伸ばし居ずまいをただすと、総司に軽く会釈をした。
入隊でも希望する若者だろうと一瞥し、総司は過ぎようとした。
男は再び塀に寄りかかり、雨に清められた空を仰いだ。
おもむろに爪を噛むそのしぐさを視野の隅にとらえた総司は、はっとして思わず振り向いた。
総司よりはいくぶん若いのだろう、頬のふくらみに幼さが見える。
透けるように白い肌に淡い鳶色の瞳。高い上背を持て余すようにしなう体。
そして、爪を噛む子供のように無心な仕草が、あの男に似ている。
若い男が携えている腰の物に、総司は見覚えがあった。
柄袋の中は紫紺の紐を長巻きにした柄が収まっているはずだ。二尺七寸の長刀。まさしく芹沢鴨の遺した刀だ。
鴨の長刀は、葬儀に参列した芹沢家の親族が形見にと持ち帰ったはずだ。そのあたりの縁者だろうか。総司は確かめずにいられなかった。
「失礼ですが、芹沢先生に御縁のあるお方でしょうか」
男は爪を噛むのを止めると、首をかしげ唇を開いた。
「人に氏素姓を尋ねる時は、まず自ら名乗られるのが筋ではありませんか」
丁寧だが、口調が厳しい。男は総司の方へ向き直った。切れ長のすずやかな目と華奢な体つき。
よく見ると芹沢とそれほど似ているわけではなかった。
似ていると思ったのは、自分がそれを求めているからではないか。総司は自分自身を疑った。
「これは、申し訳ない。私は白河藩脱藩浪人沖田総司といいます」
芹沢の縁者の前で、彼の殺害に直接手を下した総司は、新選組を名乗ることをはばかった。
やはり後ろめたい。
「私は常陸国松岡領松井村神官、下村常親と申します。芹沢鴨にゆかりある者に相違ありません」
言葉の最後が総司の肺の中の空洞に響き、金属がこすれ合うような音をたてた。
「その刀は……」
音の余韻に声が震えた。
「これは芹沢の本家の伯父が私にと拵え直してくれた物です。私が持っているのがよかろうと。二尺七寸もある長刀です。上背がなければ持てません。だからあの人と背丈の似通った私の元へ、自然とまわってきたのでしょう」
常親と名乗った男は、その左手で袋に収まっている刀の柄をなでた。
常親の指先に、湧き上がるような愛着を総司は感じた。
常親は名乗らない。
芹沢が自分の父である事を……。
芹沢が捨てて来たというひとり息子は、すでにこの世の者ではない父親に真っ直ぐな愛情を注いでいた。
血の繋がりというものはこうも揺るぎないものなのだろうか。
「そうでしたか。ところでいくつになられます」
総司の問いに常親は、そんなことまで訊くのかと怪訝そうな表情をみせた。
「十九になります」
常親は答えた。
総司も芹沢も、お互いが無いものを求めあっていた。それは始めから分かっていたはずだ。
泣くのはみっともない。しかし、こらえようとすればするほど涙があふれ、景色が歪んだ。
そんな総司の様子を見て、常親は戸惑っているようだった。
「あの人のために泣いてくれているわけではないのでしょう?」
常親の両手が、総司の右手を包み込んだ。こぼれ落ちた総司の涙が、常親の親指ににじんで溶けた。
不覚だった。悔しくて切なくてこぼれた涙だった。
芹沢に父親を見ていたなど、認めたくなかった。そして自分が常親の変わりにはなれなかったと……。
そんなことは、とても言えない。
「どうか泣かないでください。あの人はようやく私の元へ戻って来てました。きっと安らかなはずです。あの人を苛むものは、もう何もないのですから」
そして刀を見つめたまま、十七年待ちましたと常親はつぶやいた。
父が暗殺されたと聞いても、常親は驚かなかった。いつかそんな日が来るのだと、父が下村の家を出た時から幼心におぼろげにわかっていた。
上洛すると決まったあと、父は別れを告げようとしたのか、それとなく常親の元を訪れた。
ありきたりの会話を交わし、酒杯でささやかな宴をひらいた。
その夜は同じ座敷に床をとった。夜着に包まれ、父の寝息を確かめる。常親は眠れない。ひとつでも余分に父の寝息を感じていたい。
「父上、覚えていますか。あなたが下村の家を出る時、私をその腕に抱き締め、頬擦りしたのを…。その感触はまだ私の頬に残っています。私はたったの二歳でした」
父の寝息に、常親はつい恨み言をつぶやいてしまった。
「ん」
夜着の中から声が聞こえた。常親には「すまん」と聞こえた。
夜が明け、ほかに気のきいた言葉を交わすこともなく、常親は父の大きな背中を見送った。
その向こうに、ふいに見覚えのない景色が透けて見えた。気のせいかと何度か瞬いた。
そして常親は確信した。父と会うことは、もう二度とあるまいと。
そして父の背に映ったあの景色は、まさしくこの京の町並みだった。
年号が元治に変わり、水戸藩政は迷走を始めた。
三月には藤田小四郎が筑波山に挙兵。八月には反勢力が水戸城を占拠。
くすぶっていた内紛の火種が、一気に燃え上がった。
常親は浮き足立った。
父のやろうとしていたことを今確かめておかなければ、それはあっというまに土くれとなり砂となる。砂は風に運ばれ舞い上がり、絹雲が描く軌跡の向こうへ逝ってしまう。
仕方ないものと無理に納得させ、押し込めていた感情が、勢いよく溢れてきた。これをどうにかしなければ、いっぽも先へは進めない。
伯父の成幹にその思いを伝えた。
鴨の年老いた父親は、可愛がっていた末子の死を受け入れる事が出来ず、心労で寝込んだまま、息を引き取った。
変わろうとする時代に犠牲は必要なのだと思う。しかし、殺されなければならなかった者の思いを知らなければ、残された者は生ける屍だ。
間違っているだろうか。そこから始まる何かがあるはずだ。
そう心に決め、伯父の成幹と中山道を歩いて来た。
しかし、三条の橋の袂で足が止まった。
「こんなことをして何になるのでしょうか」
唇が微かに震えた。
父のやろうとしていたことの痕跡など、何も見つからないかもしれない。
父が京の町の土を踏み締め実現しようとした希望。
それをやみくもに知ろうなんて事が、思い上がりなのだ。常親は愕然としていた。
耳を澄ませ。俺の残した息づかいが、お前には聞こえるはずだ。
父の声が風の中から聞こえてきたようなきがした。
意味など求めてはいけないのかもしれない。結果を恐れてもいけない。
「常親、お前の父は怯まなかった。お前に同じになれとは言わない。しかし、その死は乗り越えていかねばならない。だから京まで来た。そうではないか」
伯父の問いかけに常親は答えられない。その代わり、涙がこぽれた。
もの心つかないうちに母に死なれ、父とも別れて暮らすようになった。
以来、心の底にずっと寂しさを隠して生きてきた。
泣けば周りの者が不憫がる。気をつかわせてはいけない。だから泣かずにきた。
父の死とも折り合いを付けなければと、訃報を聞いても涙ひとつこぼさなかった。
「伯父貴、泣いてはいけませんか」
成幹は何も言わない。常親の涙が涸れるのを待ってくれていた。
そのまま通りを泣きながら歩いて来た。
そして沖田という青年に出会った。
父に刃を振るった青年を目の当たりにし、彼を憤れない自分がいた。
「沖田殿、会えて良かった。あの人は確かにここにいたのですね」
総司は顔をあげ、わが目を疑った。常親の後ろで芹沢が頬笑んでいるのだ。
唇を噛んでうつむくな。泣き顔を上げて前を見ろ。お前には何ができる。失った標をとりもどせ。
芹沢に生き写しの成幹の姿をみながら、総司は芹沢の幻を見ていた。
「伯父上が父上にあまりに似てるので、驚いておいでですよ」
「そうだな。八木家のご新造にも、驚かれてしまったよ」
成幹が苦笑した。
「墓に手を合わせてこよう」
ふたりは壬生寺へと消えて行った。
芹沢が意図ある残映を総司に見せているかのようだ。
はたして残映なのか。微熱が見せる夢ではないのだろうか。夢ならばもう少し続きを見ていたいと総司は思う。
総司はふたりを追いかけ、壬生寺へと向かった。そして柔らかい夢の中へと踏み込んで行った。
芹沢の傍らで見たかった、夢の続きを見ていよう。
翌日、八月十五日。蛤御門の変勃発。
京の町並みは火に呑まれた。
総司の夢はそこで途絶えた。
やがて総司は病を患い、早い死を迎えた。
常親は神官として、医者として働き、下村の家を守った。
維新を迎えはしたが三十八歳で早折する。常親には子が無く、芹沢鴨の血はここで絶えた。