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The another stories ―新撰組―  作者: 中村 かなた
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総司―微熱抄―

 微熱にまどろんで口走る、戯言と思って聞いてほしい。逃れられない運命というものは、やはりあるのだと思う。


 江戸を離れ上洛すれば吹く風の方向も変わる。風は心の片隅に積もる埃をきれいに運び去ってくれる。俺の心はそんな期待にあふれていた。


 しかし、身の置き所を変えるということは、江戸を離れるという物理的な事象だけでは、どうしようもないのだと気付くのに、たいして時間はかからなかった。


かえって辛くなった。


 誰かのせいにしてはならない。選択を間違えたのは俺だ。脳裏に浮ぶ怨み言を何度も打ち消し、俺はいつも笑っていた。


強張った笑みは、面のように俺の顔に貼り付き、取れなくなった。


 幼い頃から思っていた。俺は長い夢を見ているのだと。ここにある醜悪な現実は幻で、本当の姿は別の次元に息づいている。そして、慈しみに満ちた時を育んでいるのだと。


やがて朝がくれば目覚める。この現実はうたかたで、目が覚めてしまえば跡形もない。もうひとつの現実が俺にはあるのだ。そうやって自分を騙しながら暮らしてきた。

 

俺の心の内にひそむ、いびつな願望は、時に激しいうねりとなり感情を突き動かす。


自分の意識とは別の者が心を支配し、俺は周囲の者をどれほど傷付けてきたかわからない。


 どうして目覚めない!


俺は声も出さずに嘆く。気づくと、朽ち果ててしまった希望が、荒れ野にさらされ乾いた風に揺らいでいた。


 人はみな、あやうい。おぼろげな輪郭しかない物を、瞳の裏に確かな映像として結び、海馬の混沌に刷り込んでゆく。


東の空の山の端の、低く雲たなびくあたり。わずかにそれて白い真昼の月が、くっきり浮かんでいる。それでも背景の空の青が透けて見え、今ここにある確かな自分の存在が、ちっともそうではないのだと、俺を見下ろしている。夜になれば、妖しく輝き、人の営みの律動を陰へと誘おうというのに。


俺はまるで、その白い月の陰りに吸い寄せられる悪鬼のようだ。


 三年前に麻疹を患った。それ以来、微熱が続いている。微熱が連れてくるまどろむような心地よさは、現実と幻の境界を曖昧にした。


そうやって微熱に惑わされているすきに、邪悪な気配が俺の神経を蝕んでいった。体も心もすでに自分の物ではないようだ。


 あの男に初太刀を浴びせたのは俺だった。生暖かい返り血が俺の頬に散る。点は面となり、鮮やかな記憶からあの男の温もりを俺の背中に呼び戻す。


 男は俺を背中から抱き締めこう言った。


「お前の欲しいものは、全てわかっている」


「だったらどうして俺にそれをくれない」


「それは自分で手に入れるもんだ」


「じゃあ、どうして俺の背中を抱いてくれるのです」


「俺がしてやれるのは、こんなことぐらいだ。後の事は自分でもぎ取れ」


 朝起き抜けに、酒をあおるのが男の常だった。昼を過ぎても酒の匂いが消えない。日々を重ねて、微かに甘い酒の香りが身にまとう太物の染めの匂いや、にじみ出る体液の匂いとあいまって、この男独特の体臭となっていた。


俺はこの匂いに酔っていた。ああ、あるはずのない幼児の記憶が、まるで俺のもののように甦ってくる。


はるか幼い頃に、男が覚えた無条件の愛を、その温もりで俺に伝えてくるのだ。そして男が棄てた息子に与えたかった温もり。


俺はその懐にある体温に溶けてしまいたかった。他には何もいらない。


 しかし俺は、その傍らに寄り添うことは出来なかった。あの男の懐をいくらまさぐっても、俺の居場所などはありはしない。


 なぜ背中を抱いた。その気紛れに、途方に暮れてしまうじゃないか。


 ひとつの影がふたつに別れ、その片方が俺でもう一方が芹沢なのを土方が見咎めた。


「何故あの男なんだ」


 土方や近藤でないことを憤る。


 あんたには俺が欲しいものがわかるか。自分のことで頭がいっぱいで、考えてみた事もないだろう。


「馬鹿なことを言うな。お前幾つになった。自分の事は自分で始末しろ。甘えるな」


 土方が、俺のすがる眼差しを煩しがる。あいつが必要なのは生身の俺ではなく、この剣術の腕だけだ。


ほんとうの俺は、あんたの見ようとしないところにいる。あんたに見えているのは、総司という名の幻影だ。


 芹沢の刃の切っ先が、俺の鼻の下をかすめた。どうせならこの首筋の頸動脈を掻き斬ってくれれば良かった。血に塗れて俺もあんたと一緒に死ねた。


 芹沢の体に覆い被さる唐紙の上から、何度も太刀を浴びせ、俺は泣き叫んでいた。


 もう生きる道標など見失っていた。


「お前は、何か標を持たなければいけない。そんなことでは、ただの人斬りだ」


「だったら、あんたが標になってくれ。見失わないようについて行くから」


「お前についてこれるかな。そのためには、しがらみを捨てなければならんよ。出来るか」


 芹沢は暗に、近藤や土方との訣別を仄めかした。


 俺には出来なかった。その代わり芹沢を殺した。ひとつの生をもぎ取る事で、成就する想いもあるということを芹沢は知らない。


 しかし侮るな。あの男の暖かい温もりは、俺の背中から消えようとはしない。



*



 元治元年六月五日。盆地の底を、湿った夏の空気が覆う。じっとりと生暖かい汗が、白い鉢巻の筋金の裏にたまる。


俺は抜き身の刀をぶらさげたまま、戸板に張り付く。替えの草鞋が腰のあたりで所在なげに揺れたた。


 風すらおきない河原町三条。東に鴨川のせせらぎが聞こえる。


近藤をはじめとする六人で池田屋を囲む。表に一人、裏手に一人。出口を固める。踏み込むのは四人。


 確かな情報は何もなかった。軒を数え、一件づつ虱潰しに踏み込んでゆく。


その度に息を凝らす。首筋から肩へ、緊張が走る。抜き身を握る腕の血管が隆起し、毛穴がそばだつ。


数を重ねるうちに、だんだんと息が整わなくなってくる。唇で覚える息の数と、肺まで到達する深い吸気が比例しない。いくら息を吸っても充足感がないのだ。


 苦しい……。


 思わず着込みの襟元をゆさぶると、湿った空気が胸郭の皮膚を舐めるように入り込み、みぞおちのあたりで溜まる。


「御用改めでござる」


 近藤が第一声を放った。池田屋の主は顔色も変えず応対する。


京では商人までもが、国事の方翼を担おうという気骨に満ちていた。


 しかし、人の持つ強い思念は思わぬ波長を放つ。たぎるエナジーが階段を伝い落ち、入口の土間で青い焔となりとぐろをまいているのが、俺には見えた。


 ここだ。


俺達は直感する。


おそらく目指す相手は階上で密談の真最中だろう。


「中を改めさせてもらおう」


 言うが早く、近藤が台所をすり抜け、狭い廊下を足早にゆく。京の町屋は鰻の寝床だ。間口は狭く、奥行きがある。階下は近藤に任せ、俺は階段を一気に駆け上がった。


 階下をおぼろに照らしていた行灯の火が、主の息で吹き消され、階下は漆黒の闇の中に沈んだ。


 遅れて来た者があるのかと、何も知らず男が出てきて、暗いなと呟いた。


俺は手にした抜き身を下から斜めに振り上げる。そのまま段を上がりながら男の懐へ潜り込むようにして胴を払った。体を斜めにかわすと、男は刀を抜く間もなく階段を崩れるように落ちていった。


 近藤は裏階段から階上へ上がったらしい。


「新選組だっ!」


 声が上がる。開け放たれた座敷から廊下へ広がる淡い光がたちまちかき消え、天井低く闇が垂れこめた。


 奪われた視界は、容易には戻らない。


眼を凝らすより先に、神経を尖らせろ!同志打ちなど笑い草にもならない。俺は奥歯を噛み締めた。


 鼻から吸う息が肺まで届かない。届かないうちに吐き出す。


気配を感じようとするが、耳の奥で響く呼吸の音がそれを邪魔した。


 女の悲鳴が短く聞こえた。どこかで聞いた声だ。いきなり俺をデジャヴが襲う。


 あの夜と同じだ。


烏の濡れ羽の闇の色。喘ぎともつかぬ女の声。耳の奥を仕配する気管の雑音。


 俺が追いかけているのは誰でもない。ただ芹沢の姿だけだ。


 切っ先に確かな手応えがあった。それは深く骨を断ち切る感触。パシりと鳴ったのは誰の骨が断たれた音だ?


 俺はいつの間にか、裏庭に出ていた。降り注ぐ月の光が、狂おしく俺を陰へと誘う。正眼に構えた男の裸足がじりと動いた。そして笑む。


「俺を切り捨てろ。そして再び恍惚となれ。それよりほかに、お前に残された道があるか」


「いまさら、俺のことは構うなッ!」


「ひとつを手に入れたければ、ひとつを捨てねばならん。お前はその選択を謝った」


「そんなことは、分かっている」


「死ぬまで苛め。己自身を」


 芹沢はそう言って消えた。


 芹沢めがけて夢中で太刀を振ったのは覚えている。あとは曖昧で、気付くと俺は路則に横たわっていた。


「沖田が気を取戻したようですよ。大丈夫ですかね」


 誰かが憐れむように小声で言った。


 芹沢に見えたのは長州の吉田稔麿だった。俺は吉田を討ち果し、そのまま昏倒したらしい。


「芹沢の亡霊を見た」


 心配して覗き込む近藤に、俺は洩らした。


「夢をみたんだよ」


いや、あれは夢ではない。自分自身の体に巣くう、邪のあらわれだ。俺は知っている。全ては自らの成せる業だと。


 仰向けのまま星月夜を見る。恒星が瞬き、光年の彼方から光を投げかけてくる。


 ほら、星が降るようだ。


流線を描き、時期はずれに星が流れた。


 こうしていると、地上にいる人は、あまねく独りだと痛感する。独りで生まれ独りで死んでゆく。標など持たなくても、たどり着く普遍の終焉だ。


 俺はようやく起き上がり、土方を見た。土方の顔は大事を成した後の自信に満ちあふれ、上気していた。


 あんたに迷いは無いのか。憂いは無いのか。その築いてきたものは、折り重なる屍体を踏み台にし、夥しく流された真紅の血に塗れているじゃないか。


いつまで続ける?終わりはあるのか?


 祇園会所から、壬生屯所ヘ。星屑の降りそそぐ往来の土を踏み締め、蒼褪めた修羅が列を成して歩く。


 見ろ!


 足元で粉々に砕け散って輝いているのは星屑ではない。俺達の磨り減った魂の破片だ。


 無口な隊列は見えない明日へ向かって進む。魂の破片を踏む音が、やがて壬生村に流れる西高瀬川のせせらぎに重なり、朱雀の竹林へ吸い込まれて消えていった。


 皆はもう気付いていた。俺達は道に迷ってしまったことを……。




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