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The another stories ―新撰組―  作者: 中村 かなた
2/4

桜の遺言

 どうして……


 あの夜、俺も一緒に殺されてしまわなかったのだろう。


 建司はため息をついた。



 往来に面した窓の障子をそっと開けると、格子の向こうには、いつもと変わらない風景が広がっている。

 

新年を迎える支度に忙しい人々の声が、路地の隙間から小さく聞こえ、清々しく光る屋根瓦の上には、青空がどこまでも続いていた。


建司に残された僅かな時間が、やがて費えた後も、きっと空は青いままであり続けるのだろう。


「会いに行けなくなるな」


 建司はつぶやいた。





 先の非番の日に、ふらりと北野の遊里まで足を延ばした。そこで建司は、雪乃という名の遊女と出会った。


月夜に浮かぶ桜の淡い花色を思わせる女だった。


女と情を交えることに、あまり執着しない質だった。けれどこの日、建司は雪乃の体から立ち上る、湿った甘い匂いに胸がざわついた。


 無口な女だった。建司も饒舌なほうではなかった。互いにどれほどの言葉も交さなかった。


 雪乃が火を付けて寄越した煙草を、建司がひと口吸う。吐き出された煙が、座敷の空気の流れにそって、やんわりと広がる。煙菅を返すと、雪乃はそれを煙草盆に向けてぽんと叩く。丸い灰が灰吹きに転がり落ちた。


 雪乃が建司の肩にしなだれかかる。言葉はなくても、仕草で喋る。


雪乃の衿の弛い打ち合わせから、建司はその手を忍ばせた。暖かい乳房が手のひらに触れた。


 割床の衝立のあちら側で、別の遊女と客の交わりが始まっている。微かな衣ずれの音に、女のあえかな吐息が重なって聞こえてくる。


「冷とおす」


 ふふっと笑った雪乃の細い腰を引き寄せ、そのまま情交する。


雪乃を抱きながら、建司は姉の事を思い出していた。


 桜の散る頃になると、姉はその花びらの美しいところを丹念に針で掬い、首飾りにしつらえた。


「ほら建司、いい匂い」


「やめなよ、姉さん。もうそんなことして遊ばないって決めたんだ」


 口を尖らせ嫌がる建司の首に、むりやり花の輪をかけると「なんだ、つまらない」と、姉はいたずらっぽく笑って逃げて行った。建司の鼻先を ふわりと桜の花の香りがよぎる。


 ああ、この匂いだ。雪乃さんは、桜の花びらの匂いがする。


 姉は祝言の日取りが決まったというのに麻疹に罹り、あっという間に逝ってしまった。十七だった。目を閉じた雪乃の顔と姉のそれが重なる。


 姉が逝ってひどく哀しかった。それでも飯を食い、友人と笑い合っている自分が、建司には腹立たしかった。


 その頃、建司の伯父は、尊穣激派の幹部として名を馳せていた。在郷の有士らと郷校に集結していた伯父を頼り、建司は突き動かされるようにして、家を出た。


元服前の少年を 厳しい時代の渦に巻き込む事は出来ない。諫める伯父を前に建司は激昂した。


「前髪が取れてから、出直して来い 」


 その時建司は、ひとりの男に怒鳴りつけられた。伯父の心中を察しての事だ。


「家を出て来たからには、俺にも覚悟があります 」


「子供じみた、つまらん覚悟などいらんわ。とっとと帰れ」


 男が建司の左の衿を力任せに掴んで揺さぶった。引きずり倒されそうになるのを建司は必死で堪えた。


「ならんと言われるなら、前髪など今直ぐにここで落とします」


 建司は男を睨み付け 、そう言った。


「学問も剣術もまだ中途ではないか」


 伯父が困った顔で建司を諭す。


「なんと言われましょうとも、ここを動きません」

 堅くなな建司の態度に男の手元が弛んだ。


「このまま返したら、どこぞで自刀しかねませんよ、野口さん。しかたない。俺が面倒を見ましょう」


「そうしてくれると、ありがたい」


「これでお前も同志だ。誠忠を尽くせよ」


 そう言って男は頬を崩した。まだ入牢前の芹沢鴨の精悍な姿だった。


 だが、その芹沢も既にこの世にはいない。


 雪乃から体を離した建司は、仰向いたまま天井の木目の節を数えた。


 大切な人は皆、俺の腕の中をすり抜け、遠くへ逝ってしまった。


 いつの間にか涙が頬を伝い、こぼれれ落ちた。


「いや、泣いたはるわ」


 白粉を塗った頬をすりよせ、雪乃はその涙を舌でなぞった。その唇が自然に建司の唇と重なりあう。


こういう生業の女は、客に体を開いても唇は許さないものだと聞いている。


「ぬしさんだけどす」


 雪乃は柔らかい体を建司の上から重ね合わせた。弛い曲線を描いて結い上げられた鬢が、ほつれるのもいとわなかった。


 あの日の前髪の少年は全てを無くし、その魂は京の坊條を彷徨っている。そして心優しい遊女が、その魂を偶然指先でとらえたのだ。


 約束はしなかった。ただ、別れ際に指を絡ませ、儚い時間を愛しんだ。





 そして建司は、屯所の一室に幽閉されているのだった。


 今朝方の事だ。局長に呼び出され、数名の平隊士に周囲を取り囲まれた。土方の目配せで、やにわに羽交い締めにされ、鼻面が畳に擦れんばかりに、首の根元を押さえつけられた。土方が甲高い声で建司を詰問する。


 先の非番の日、水戸浪士の名を騙り乱暴狼藉を働いたという者が二名、新撰組隊士の手で捕縛され、所司代に引き渡されたという。


「それと、俺にどういう関係があるというんです」


「それがな、野口。奴らの口から、おめえの名前が上がったんだよ」


「そんなはずはありません。そいつらの名を教えて下さい。申し開きはどのようにでも」


「残念だが、申し開きには及ばんねえよ。おめえが本国寺に出入りしているのは、とうに調べがついてらあ」


 土方が声を荒げた。近藤は建司の顔を見ようともしない。


 あ……。


 なにもかも濡衣だ。建司は言葉をつまらせた。そして静かに諦めた。これが建司に用意されていた結末だった。


「副長に知れたらまずいです」


「構わん、会わせろ」


 見張りの隊士と押し問答の末、座敷に入って来たのは永倉新八だった。


「すまん。庇ってやれなかった」


 永倉が畳に額をすりつけた。芹沢らが殺され、独り残った建司を永倉が影で支えていた。死に急ぐなと。


「頭を上げて下さい、永倉さん。いいんです。このままでは済まないと思っていましたから」


「しかし、あまりにも卑劣な」やり方ではないかと、永倉は拳を震わせた。


「どうにかして逃してやりたい」


「止めて下さい。そんなことをしてもすぐに捕らえられます。永倉さんだって、ただでは済まない。それより永倉さんは生き延びて、俺達の信じた事が間違っていなかったかどうか見届けて下さい。約束ですよ」


「建司……」


 永倉は建司の覚悟に絶句した。


「それより永倉さん。頼まれてくれないかなあ」


 建司の声が急に和らいだ。


建司の身の回りのものを収めた行李の中に、小さな箱包みが入っている。それを北野上七軒にある妓楼松葉屋に抱えられている、雪乃という名の遊女のもとへ届けて欲しいと言うのだ。


「約束でも交しているのか」


「そんなんじゃ、ありません。ただの心尽くしです」


 建司が最期に託したのは、遊女へ贈る小さな箱包みひとつの想いだった。





「野口建司。本日ここに切腹申し付ける」


 切腹は作法に則り行われた。刄を握り、仰向けに倒れないよう三宝を尻に敷く。刄で十字に腹を引き裂く。


 声を洩らさぬよう、建司は痛みを忍従する。そしてゆっくり首を差し出した。


 介錯人は安藤早太郎。安藤は刀を振り上げたまま、これが武士というものの最期かと、建司の澱みない所作に見入ってしまっていた。


このままでは、痛みに気を失ってしまう。前につっ伏してしまったら、まともな介錯は得られない。我が意に反して、体は苦痛にのたうち回るだろう。せめて最期は気高く逝きたい。


「早くっ」


 建司は絞り出すように叫んだ。その刹那の声に、安藤ははっと気を取り戻した。振り上げた刀を建司の首筋めがけ、振り下ろす。白く光る刃が、建司の項に吸い込まれ、頚堆を断ち切る音がパンと鳴った。


 見事な介錯だった。地面に転がった建司の首が、ゆっくり微笑んだ。


 師走。二十七日。野口建司逝く。享年二十歳。遺体は光縁寺に埋葬された。文久三年は、こうして暮れていった。

 

 志高くして三条大橋を渡った早春。あれは幻であったかのように、月日はかくもむごたらしく流れていくものだ。


 そんな思いに苛まれながら、永倉新八が上七軒の松葉屋に雪乃を訪ねたのは、年が明けてしばらくしてからの事だった。


箱包みの中には、鼈甲細工の櫛が入っていた。


 死んだなんて言っちゃ嫌ですよ。そうだ、急ぎ国許へ帰ったと伝えて下さい。


 永倉はそれをやっとの思いで雪乃に伝えた。雪乃はしばらく永倉をみつめていたが、櫛をすげ替えると「そうどすか」と、はんなり微笑んだ。


雪乃の後ろで、建司が満足そうに笑って立っているようで、永倉は泣きそうになった。


 帰り際、雪乃が永倉の手に握らせた匂い袋は、仄かに桜の花の香りがした。


「御守りどす。死なへんようにて」


 雪乃はきっとこれを建司に持たせたかったはず。


 建司よ、これは俺が貰っておこう。俺は死なない。


 永倉はそれを大切に懐にしまった。



 桜がほころび、花びらが風に舞い散る。


妓楼の張り見世で、雪乃は煙菅をくわえ客待ちをしていた。


格子の隙間から舞い込んできた桜の花びらが、着物の裾の紅い蹴出しにとまった。誰かが、それを指先でつまもうと手を伸ばす。


「そのままにしときよし」


 雪乃はうっとり目を閉じ、初めて唇を重ねた男の、遠い囁きに耳を澄ませた。





 雪乃さんは、桜の花びらの匂いがする。





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