桜の遺言
どうして……
あの夜、俺も一緒に殺されてしまわなかったのだろう。
建司はため息をついた。
往来に面した窓の障子をそっと開けると、格子の向こうには、いつもと変わらない風景が広がっている。
新年を迎える支度に忙しい人々の声が、路地の隙間から小さく聞こえ、清々しく光る屋根瓦の上には、青空がどこまでも続いていた。
建司に残された僅かな時間が、やがて費えた後も、きっと空は青いままであり続けるのだろう。
「会いに行けなくなるな」
建司はつぶやいた。
先の非番の日に、ふらりと北野の遊里まで足を延ばした。そこで建司は、雪乃という名の遊女と出会った。
月夜に浮かぶ桜の淡い花色を思わせる女だった。
女と情を交えることに、あまり執着しない質だった。けれどこの日、建司は雪乃の体から立ち上る、湿った甘い匂いに胸がざわついた。
無口な女だった。建司も饒舌なほうではなかった。互いにどれほどの言葉も交さなかった。
雪乃が火を付けて寄越した煙草を、建司がひと口吸う。吐き出された煙が、座敷の空気の流れにそって、やんわりと広がる。煙菅を返すと、雪乃はそれを煙草盆に向けてぽんと叩く。丸い灰が灰吹きに転がり落ちた。
雪乃が建司の肩にしなだれかかる。言葉はなくても、仕草で喋る。
雪乃の衿の弛い打ち合わせから、建司はその手を忍ばせた。暖かい乳房が手のひらに触れた。
割床の衝立のあちら側で、別の遊女と客の交わりが始まっている。微かな衣ずれの音に、女のあえかな吐息が重なって聞こえてくる。
「冷とおす」
ふふっと笑った雪乃の細い腰を引き寄せ、そのまま情交する。
雪乃を抱きながら、建司は姉の事を思い出していた。
桜の散る頃になると、姉はその花びらの美しいところを丹念に針で掬い、首飾りにしつらえた。
「ほら建司、いい匂い」
「やめなよ、姉さん。もうそんなことして遊ばないって決めたんだ」
口を尖らせ嫌がる建司の首に、むりやり花の輪をかけると「なんだ、つまらない」と、姉はいたずらっぽく笑って逃げて行った。建司の鼻先を ふわりと桜の花の香りがよぎる。
ああ、この匂いだ。雪乃さんは、桜の花びらの匂いがする。
姉は祝言の日取りが決まったというのに麻疹に罹り、あっという間に逝ってしまった。十七だった。目を閉じた雪乃の顔と姉のそれが重なる。
姉が逝ってひどく哀しかった。それでも飯を食い、友人と笑い合っている自分が、建司には腹立たしかった。
その頃、建司の伯父は、尊穣激派の幹部として名を馳せていた。在郷の有士らと郷校に集結していた伯父を頼り、建司は突き動かされるようにして、家を出た。
元服前の少年を 厳しい時代の渦に巻き込む事は出来ない。諫める伯父を前に建司は激昂した。
「前髪が取れてから、出直して来い 」
その時建司は、ひとりの男に怒鳴りつけられた。伯父の心中を察しての事だ。
「家を出て来たからには、俺にも覚悟があります 」
「子供じみた、つまらん覚悟などいらんわ。とっとと帰れ」
男が建司の左の衿を力任せに掴んで揺さぶった。引きずり倒されそうになるのを建司は必死で堪えた。
「ならんと言われるなら、前髪など今直ぐにここで落とします」
建司は男を睨み付け 、そう言った。
「学問も剣術もまだ中途ではないか」
伯父が困った顔で建司を諭す。
「なんと言われましょうとも、ここを動きません」
堅くなな建司の態度に男の手元が弛んだ。
「このまま返したら、どこぞで自刀しかねませんよ、野口さん。しかたない。俺が面倒を見ましょう」
「そうしてくれると、ありがたい」
「これでお前も同志だ。誠忠を尽くせよ」
そう言って男は頬を崩した。まだ入牢前の芹沢鴨の精悍な姿だった。
だが、その芹沢も既にこの世にはいない。
雪乃から体を離した建司は、仰向いたまま天井の木目の節を数えた。
大切な人は皆、俺の腕の中をすり抜け、遠くへ逝ってしまった。
いつの間にか涙が頬を伝い、こぼれれ落ちた。
「いや、泣いたはるわ」
白粉を塗った頬をすりよせ、雪乃はその涙を舌でなぞった。その唇が自然に建司の唇と重なりあう。
こういう生業の女は、客に体を開いても唇は許さないものだと聞いている。
「ぬしさんだけどす」
雪乃は柔らかい体を建司の上から重ね合わせた。弛い曲線を描いて結い上げられた鬢が、ほつれるのもいとわなかった。
あの日の前髪の少年は全てを無くし、その魂は京の坊條を彷徨っている。そして心優しい遊女が、その魂を偶然指先でとらえたのだ。
約束はしなかった。ただ、別れ際に指を絡ませ、儚い時間を愛しんだ。
そして建司は、屯所の一室に幽閉されているのだった。
今朝方の事だ。局長に呼び出され、数名の平隊士に周囲を取り囲まれた。土方の目配せで、やにわに羽交い締めにされ、鼻面が畳に擦れんばかりに、首の根元を押さえつけられた。土方が甲高い声で建司を詰問する。
先の非番の日、水戸浪士の名を騙り乱暴狼藉を働いたという者が二名、新撰組隊士の手で捕縛され、所司代に引き渡されたという。
「それと、俺にどういう関係があるというんです」
「それがな、野口。奴らの口から、おめえの名前が上がったんだよ」
「そんなはずはありません。そいつらの名を教えて下さい。申し開きはどのようにでも」
「残念だが、申し開きには及ばんねえよ。おめえが本国寺に出入りしているのは、とうに調べがついてらあ」
土方が声を荒げた。近藤は建司の顔を見ようともしない。
あ……。
なにもかも濡衣だ。建司は言葉をつまらせた。そして静かに諦めた。これが建司に用意されていた結末だった。
「副長に知れたらまずいです」
「構わん、会わせろ」
見張りの隊士と押し問答の末、座敷に入って来たのは永倉新八だった。
「すまん。庇ってやれなかった」
永倉が畳に額をすりつけた。芹沢らが殺され、独り残った建司を永倉が影で支えていた。死に急ぐなと。
「頭を上げて下さい、永倉さん。いいんです。このままでは済まないと思っていましたから」
「しかし、あまりにも卑劣な」やり方ではないかと、永倉は拳を震わせた。
「どうにかして逃してやりたい」
「止めて下さい。そんなことをしてもすぐに捕らえられます。永倉さんだって、ただでは済まない。それより永倉さんは生き延びて、俺達の信じた事が間違っていなかったかどうか見届けて下さい。約束ですよ」
「建司……」
永倉は建司の覚悟に絶句した。
「それより永倉さん。頼まれてくれないかなあ」
建司の声が急に和らいだ。
建司の身の回りのものを収めた行李の中に、小さな箱包みが入っている。それを北野上七軒にある妓楼松葉屋に抱えられている、雪乃という名の遊女のもとへ届けて欲しいと言うのだ。
「約束でも交しているのか」
「そんなんじゃ、ありません。ただの心尽くしです」
建司が最期に託したのは、遊女へ贈る小さな箱包みひとつの想いだった。
「野口建司。本日ここに切腹申し付ける」
切腹は作法に則り行われた。刄を握り、仰向けに倒れないよう三宝を尻に敷く。刄で十字に腹を引き裂く。
声を洩らさぬよう、建司は痛みを忍従する。そしてゆっくり首を差し出した。
介錯人は安藤早太郎。安藤は刀を振り上げたまま、これが武士というものの最期かと、建司の澱みない所作に見入ってしまっていた。
このままでは、痛みに気を失ってしまう。前につっ伏してしまったら、まともな介錯は得られない。我が意に反して、体は苦痛にのたうち回るだろう。せめて最期は気高く逝きたい。
「早くっ」
建司は絞り出すように叫んだ。その刹那の声に、安藤ははっと気を取り戻した。振り上げた刀を建司の首筋めがけ、振り下ろす。白く光る刃が、建司の項に吸い込まれ、頚堆を断ち切る音がパンと鳴った。
見事な介錯だった。地面に転がった建司の首が、ゆっくり微笑んだ。
師走。二十七日。野口建司逝く。享年二十歳。遺体は光縁寺に埋葬された。文久三年は、こうして暮れていった。
志高くして三条大橋を渡った早春。あれは幻であったかのように、月日はかくもむごたらしく流れていくものだ。
そんな思いに苛まれながら、永倉新八が上七軒の松葉屋に雪乃を訪ねたのは、年が明けてしばらくしてからの事だった。
箱包みの中には、鼈甲細工の櫛が入っていた。
死んだなんて言っちゃ嫌ですよ。そうだ、急ぎ国許へ帰ったと伝えて下さい。
永倉はそれをやっとの思いで雪乃に伝えた。雪乃はしばらく永倉をみつめていたが、櫛をすげ替えると「そうどすか」と、はんなり微笑んだ。
雪乃の後ろで、建司が満足そうに笑って立っているようで、永倉は泣きそうになった。
帰り際、雪乃が永倉の手に握らせた匂い袋は、仄かに桜の花の香りがした。
「御守りどす。死なへんようにて」
雪乃はきっとこれを建司に持たせたかったはず。
建司よ、これは俺が貰っておこう。俺は死なない。
永倉はそれを大切に懐にしまった。
桜がほころび、花びらが風に舞い散る。
妓楼の張り見世で、雪乃は煙菅をくわえ客待ちをしていた。
格子の隙間から舞い込んできた桜の花びらが、着物の裾の紅い蹴出しにとまった。誰かが、それを指先でつまもうと手を伸ばす。
「そのままにしときよし」
雪乃はうっとり目を閉じ、初めて唇を重ねた男の、遠い囁きに耳を澄ませた。
雪乃さんは、桜の花びらの匂いがする。