暗殺者のセオリー
俺は暗殺者ではない。そう思われてしまうことに、戸惑いを感じずにはいられない。
もし俺が暗殺者として定義付られるとしたら、あの一件だけの事だと思いたい。
芹沢鴨ら水戸派の粛静。粛静とは、異分子を抹殺する事。たった一晩で、彼らは忽然とこの世から姿を消した。これを暗殺と言わずに、なんと言おう。
文久三年八月十八日、クーデターが起こった。会津と手を組んで、孝明天皇に取り入ったのは、薩摩だった。
長州はしくじった。
この日を境に、長州は朝敵となり、この日を境に、長州となんらかの関わりを持ち続けていた芹沢らは、新選組が会津藩の庇護の下にある中、まさしく異分子となってしまったのだ。
尽忠報国でいう国とはなんだ。国のためとはなんだ。会津も薩摩も、そして長州も。全ては我が藩のため。そうではなかったか。
このクーデターで、実権を掌握したのが、もし長州であったとしても、体制は変わらなかっただろう。
どちらも同じだ。我が藩の利益のため。
それならば、藩という概念に捕らわれず、真っ直ぐに誠忠を唱え、突き進もうとしていた芹沢らの方が、純粋だったのだろうか。
運命は偶然に弄ばれた。長州が都から締め出された後、取り残された芹沢らは、羅針盤を持たない船に乗り彷徨う孤軍となってしまったのだ。
そして俺達は、芹沢が積極的に容認してきた新選組内部の長州色を 払拭しなければならなくなった。
会津藩主松平容保から芹沢鴨捕縛の命令が降ったのは、クーデターから間もなくの事だった。
政変後、俺達にはただちに長州藩残党狩りの任務が与えられた。が、芹沢は長州藩残党をことごとく見逃した。それがつぶさに京都守護職である容保の耳へと届いた。芹沢の背後に潜む水戸藩過激派本国寺党は、身動きが取れないでいる。もう何処へも遠慮は要らなくなった。
俺は容保のやつれた顔に向け、言い放った。
「捕縛などとは、いささか手緩いのでは。」
「ならば、なんとする。」
容保の左頬の皮膚が、神経の疲労のせいで、小刻みに震えている。
「一網打尽。殺るしかないでしょう。」
そう言って、俺は冷たいものが背筋を逆さになぞってゆくのを感じ、身震いした。
―ほんとうに、それでいいのか…。
生臭い息が耳元に降り懸かる。驚いて振り向いたが、誰もいない。
容保の前で面目を失った近藤が顔を赤くして口ごもった。煮え切らない奴には黙っておいてもらおう。イニシアチブは俺がとる。
「期待してよいのだな。」
容保が念を押した。彼にとって俺達はまだ得体の知れない雑魚にしか過ぎない。
「まあ、内部のことはお前達の判断に任せよう。好きにすればよい。」
容保は逃げた。内々で始末せよ。そういうことだ。俺にはその方が都合がいい。
屯所への道すがら、近藤がぽつりと呟いた。
「歳。ほんとうに殺るのか。」
殺るのかではなく、殺れるのか。近藤はそう問い質したいはずだ。俺の剣術の腕を見越せる彼にとって、当然の疑問符だ。
対等に立ち向かえば、敵う相手ではない。内密に罠を仕掛ける。じわりと包囲し、油断させておいて、一気に殺る。
使うのは腕ではない頭だ。
暗殺に失敗は許されない。刃を降るうのは沖田総司、原田佐之助そして俺。あとひとり。山南敬介、あんただ。
山南は、一言も発せられずにいた。この男は賢い。なぜ芹沢らが暗殺されなければならないか、理屈は解っている。
もしこのまま芹沢派に固執するなら、どういう立場に立つことになるかも解らない男ではない。
もう少し狡猾になれ。芹沢のために命は捨てられないだろう。そこまで傾倒はしていないのが正直なところではないか。
山南は保身に入る。俺はそう見た。
「何故、俺なんだ。」
永倉新八だっているじゃないか。
山南は言った。
「あんたじゃなきゃならんのだよ。」
何故か解るか。それはあんたの弱い心根が、その奥底で一番知っていることだ。
永倉は、いけない。この計画を微塵も知られてはならない。
彼は律義で邪心のない男だ。命を賭けてでも、芹沢に注進するだろう。剣術の同門であるというよしみだけではない。思想など超えたところで、二人は互いを認め合っている。
芹沢は気性は荒いが、嘘のない男だ。平隊士達にも彼を慕う者は多い。どこか破綻したものを心に抱えている人間。それが凡人にはひどく魅力的に映る。芹沢のそれは、天性のものようだ。
やり方はともかく、カリスマ性がある。
クーデターのおりの出動。芹沢の何をも畏れぬ雄姿を見たか。今だに語り草になっている。
初めての正式な出動命令におじけづいている隊士達の精神を鼓舞する方法をこの男は一番良く知っていた。
「さすがは、芹沢先生。」
そんな声が、あちこちから揚がった。
先頭に立つ者が怯んではならない。あれが本来大将たる姿。近藤勇何処へやらだ。
この時だ。俺が危機感を抱いたのは。このままでは、奴等に呑み込まれてしまう。
解っただろう、山南。容保の命令云々ではない。これは、俺の意志だ。
山南は押し黙ったまま身じろぎもしない。頭の中で、暗殺者となるための正当な理由を模索しているようだ。
だがな山南。俺達は、抹殺される者への純粋な言い訳など、これっぽっちも持ち合わせてはいないんだ。
あんたの信念が、芹沢の信念に比べてどれほども清廉潔白でないのと同じように。
そんなものは、俺が鼻息で吹き飛ばしてやろう。
「山南さんよ。近藤さんへの義を取れ。」
試衛館でさんざん近藤に取り入ってきたんだ。近藤への義を取らないでどうする。
俺は、腕組みをしたまま目を閉じた。座敷の空気が澱んだまま、そよりとも動かない。
「じれったいなあ。どう足掻いたって逃れられやしないんだよ。」
総司が苛つきながら、返答を促した。
「京へ来てからずっと、俺達にまとわりついて離れない運命なんだ。」
運命か。総司はうまいことを言う。殺るか殺られるか、ふたつにひとつ。二分の一の運命だ。
思想も信念も、理想や希望も、俺にはすべて色褪せて見えた。
倒幕も左幕も、尊皇攘夷もすべて右へ習えだ。誰もが口を開けば、同じことを言う。
あんたも同じ穴のムジナだ。山南、自分の言葉で喋ってみろ。それなら俺も、あんたの言葉に耳を傾けてやろう。
山南が俺を見据えている。恨むなら己の節操の無さを恨め。
さあ、どうする。山南。嫌なら今その左手にある差料を掴み、俺の額を割ろうというだけの気概はないのか。あんたの方が腕があるんだ。その気があればできるはずだ。
沈黙は何の結論も導かない。時間だけがむやみに重く、肩にのしかかってくる。
「よし、決まった。」
安心しろ。答えは俺が出してやる。後の事はあんたの責任ではない。あんたは思う存分その腕を振るい、暗殺者としての責務を全うしてくれればそれでいい。
山南の背中から、力が四方へ拡散してゆく。
「総司はそれでいいな。」
迷いがないのはお前だけか。清々しい顔をしている。
「山南さん。殺ってしまえば良かったのに。」
「誰を。」
「土方さんを。できなくはなかった。あんたは優しすぎる。だから足許を掬われるんだ。」
高瀬川沿いに植わった柳が、川風になびく。風が思ったより冷たい。
「俺なら殺ったね。そして芹沢先生といっしょに組を牛耳って、尊皇攘夷とやらにこの身を捧げるんだ。俺ならそうする。」
「じゃあ、お前がそれをやればいい。なぜそうしない。」
「あんたがしないのと同じだよ。」
総司が柳の葉先を指先で引きちぎった。
罠は仕掛けた。芹沢の片腕である新見錦を追い込む。この男が、長州と通じているのは、明白な事実だ。
長州と芹沢への忠義を貫いた新見は、あっさりと自ら果ててくれた。
山南よ。これが士道だ。なんと高潔な行為だ。くだらない。
俺は、しどろもどろしているあんたの心根の方が好きだ。それがほんとうの人間臭さというものだろう。
島原。角屋。華やかな宴が始まる。
芹沢が酒を飲み干し、愉快そうに笑っている。そうだ、人生の全てをひと時の間に飲み干してしまえ。
俺は満面の笑みを湛え、その杯に酒を注ごう。美味し酒よ腑に沁み込むがいい。そしてしたたかにに酔え。
芹沢はその淡い色の瞳で、俺の心の臓のあたりを見つめている。
―俺が、知らんと思うか。
―いや、あんたに分かる訳がないんだ。俺のことなど。
見透かされまいと、俺は眼を逸らす。でないとその瞳に吸い寄せられ、全てを洗い晒しにしてしまいかねない。危ういところだ。この期に及んで、俺がぐらついている。
天空に月が白く輝く。紛れる闇はよりいっそう濃い影を造る。
芹沢の二の腕のたるみに、女の吐息がこぼれ、生きとし生けるものの気配は、深いまどろみの中に封じ込められている。
草鞋の紐をきつく絞めろ。
息を凝らして刀を抜け。
俺達は互いの呼吸を数え、眼差しで合図する。
怯むな!
踏み込めっ!
修羅となれ…!
俺が、暗殺者と呼ばれるなら、この一件の事に限るだろう。
良かったのか、悪かったのか。誰にも解らない。ただひとつ言えること。
俺はこうして、俺達の確固たる居場所を掴んだ。