「あれ」あるいは調子のおかしな音色の話
あるところ。
静かな森のふもとに、小さな村がありました。
村は森に抱かれるようにして建っており、朝には霧が立ち込め、夕方には陽が森の木々の間から細く差し込みます。
家々は古びた木と石でできていて、どれも同じような形をしていました。
特別に裕福な家も、特別に貧しい家もありませんでした。
ただ、静かに、穏やかに、人が生きているというだけの場所でした。
ここ数ヶ月、森の向こうから届く話は、どれも良いものではありませんでした。
森の向こうの村が、いくつも廃村になった。家は残っているのに、人っ子一人いない。
けれどこの村では、そうした話があっても、騒ぎ立てることはありませんでした。
そうした悪いことが訪れない場所なので、ここを選んだからです。
みな、「遠いところの話だ」と、静かに受け流していました。
朝が来ると、パン屋の煙突から白い煙が細く立ち上ります。
子どもたちはその煙を見てから遊びに出かけ、母親たちは井戸で水を汲み、父親たちは畑や森に出て仕事をするのです。
広場で遊ぶ子供の一人が、ふと口笛を吹こうとしました。
すると、近くにいた母親がその子のもとに歩み寄り、そっと口を塞ぎます。
「やめなさい」
子どもは不満そうに母親を見上げますが、母親は首を横に振りました。
「いやなものが寄ってきたら困るでしょう?」
夕方になれば、誰かの家から煮炊きをする匂いが漂い、夜には一軒、また一軒と灯りがともります。
村の人々は、特別なことが起こらない日々を、当たり前のこととして過ごしていました。
ある朝、村の高い場所から見ると、森の向こうで細い煙が上がっているのが見えました。
その日の夕方、誰かがふと立ち止まって耳を澄ませました。
遠くから、微かな音が聞こえてきたのです。
子供が吹いているような、どこか音が外れた、調子のおかしなフルートの音でした。
誰かが「気のせいだな」と呟き、誰かが「関係ないさ」と答えました。
それ以上、誰もその音について話しませんでした。
次の日の朝、その村に「あれ」が来ました。
最初に選ばれたのは、村はずれに一人で暮らしていた老婆でした。
彼女はニワトリ小屋の前で、地面に餌を撒いていました。
古い腰を曲げ、皺だらけの手でニワトリの餌を丁寧にばら撒く様子は、いつもの朝と変わりありませんでした。
ニワトリたちが集まってくる音だけが、森の端で小さく響いていました。
森の奥から、小さく、フルートの音が鳴りました。
老婆は、わずかに動きを止めました。
しかし、振り返りはしません。
ただ、無言で餌を撒き続けました。
音は次第に村のほうに近づいてきます。
耳のすぐそばで、調子の狂った、歪んだ音が鳴りました。
「あれ」は老婆の背後に立っていました。
影もなく、ただそこにいました。
老婆が体を起こした瞬間、「あれ」はその首にそっと手を添えました。
指先が皮膚に触れた瞬間、老婆は小さく息を吐きました。
「あれ」は指をゆっくりと動かしました。
まるで古い布を丁寧に引き裂くように、首の皮膚が縦に割れていきます。
気管が白く露わになり、わずかに血がにじみ出ました。
老婆は「まあ」と小さな声を出したきり、動かなくなりました。
「あれ」は胸の部分を丁寧に開き、硬い部分を折りました。
まだ小さく脈打っているものを奥から取り出すと、掌にのせ、しばらく眺めていましたが、やがて、それを地面に置きました。
取り出したものは土の上で、なおも小さく収縮を繰り返していました。
「あれ」はそれを踏みつぶす前に、穏やかな声で言いました。
「おはようございます」
老婆の亡骸は、その日の午前中に村の人々によって発見されました。
誰かが小さなため息をつき、誰かが「可哀想に」と呟きました。
数人の男が土を掘り、老婆を埋めました。
血の染みた地面は、朝露と土ですぐに覆われ、痕跡は残りませんでした。
ニワトリ小屋の前には、撒き散らされた餌がまだ残っていました。
その夜から、フルートの音が、村のどこかから、微かに聞こえるようになりました。
遠くなったり、近くなったり。
まるで村をのんびりと散歩しているように。
しかし、誰もそのことについて深くは語りませんでした。
次の朝、若い母親が、まだ小さな赤ん坊を抱き、井戸端にかがんでいました。
赤ん坊は母親の胸に顔を埋めるように眠っており、彼女は片手でその背中を支えながら、もう片方の手で洗濯をしていました。
母親は、赤ん坊の小さな寝息を聞きながら、昨夜のことを思い浮かべていました。
珍しく、この子が夜泣きした。
老婆が死んでいたらしいが、夫は何も教えてくれない。
森の向こうの話は、もう関係ない。
ここに辿り着くまでに、多くの街が消え、大切な人たちのほとんども犠牲になった。
ようやく森の中にたどり着いたとき、生き残った皆が、口を揃えて同じことを言った。
「ここだけは大丈夫だ」
——ここは、みんなで目指した安全な場所。
赤ん坊の体温が、母親の腕に優しく、重く感じられました。
朝の光が井戸の水面に反射し、静かな水音が響いています。
ふいに、背後から、でたらめな音色が聞こえました。
母親が洗濯物を持ち上げた瞬間、「あれ」はその背中を縦に、ゆっくりと裂きました。
皮膚が左右に割れ、背に通ったものが白く露わになります。
母親の体がわずかに傾きました。
それでも彼女は、赤ん坊を落とさないよう必死に腕に力を込めていました。
「あれ」は母親の背中に口を寄せました。
吸う音は小さく、しかし長い間続きました。
母親の体が少しずつ力を失っていくのを感じながら、「あれ」は静かに、愛おしそうに中身を味わいました。
母親は、薄れゆく意識の中で、ただ一つだけを考えていました。
——この子を、落としてはいけない。
夫が帰ってくるまで、守らなければ。
その思いだけが、命の火が尽きるまで残っていました。
赤ん坊は母親の腕の中で一度だけ小さく動きましたが、すぐにまた眠るように静かになりました。
母親の体は、井戸の中に静かに落とされました。
水が淡く赤く染まり、波紋がゆっくりと広がっていきました。
赤ん坊は井戸の縁に置かれたまま、目を閉じて動かなくなっていました。
村の人々は、その日の午前中に母親と赤ん坊が死んでいる事に気づきました。
「困ったな」と誰かが言い、「井戸の水はもう使えないな」と誰かが答えました。
数人の男が別の場所から水を運ぶことに決め、母親と赤ん坊の亡骸は、森の端に埋められました。
彼女の夫を含め、誰一人として、大きな声で泣く者はいませんでした。
ただ、ため息と小さな言葉、そしてどこからか聞こえるフルートの音が、朝の村に漂っていました。
三日目は、鍛冶屋の男でした。
彼は小さな鍛冶小屋で、朝から鉄を打っていました。
火の粉が舞い、汗が額を伝う中、「あれ」は静かに入ってきました。
男が鉄を火の中から取り出した瞬間、「あれ」はその熱した鉄を、男の口にゆっくりと流し込みました。
男は目を見開きました。
しかし、声は出ませんでした。
熱した鉄が喉を通り、胃まで流れていきます。
「あれ」は男の腹を丁寧に開き、さまざまな中身を一つずつ作業台の上に並べていきました。
どれもまだ温かく、湯気を立てていました。
「あれ」はそれらを順番に眺めながら、静かに言いました。
「よく働きましたね」
村は、少しずつ人数を減らしていきました。
若い男が皮膚を一枚ずつ剥がされながら、自分の肉を食べさせられました。
若い女が四肢を一本ずつ関節から外され、胴体だけになったところで頭をゆっくりと潰されました。
二人の死体は、翌朝、村の広場に並べて置かれていました。
誰が並べたのか、誰にも分かりません。
ただ、朝の光が二つの亡骸を明るく照らしていました。
まだ十代の少女も選ばれました。
彼女は家の縁側で、朝の光を浴びながら座っていました。
風が森から吹いてきて、彼女の髪を少しだけ揺らした時、「あれ」はその横に、まるで座るようにして現れました。
少女の目は、のんびりと取り除かれました。
耳も、丁寧に。
舌も、慈しむように。
「あれ」は表情のなくなった少女を抱きしめながら、穏やかな声で言いました。
「きれいですね」
少女は、その最後の瞬間、母親が今日作ってくれるはずだったスープの味を、ぼんやりと思い浮かべていました。
村の空気は、以前と変わりました。
日を追うごとに、笑い声が聞こえなくなり、夕方になっても灯りのつかない家が目立つようになりました。
村の人々は、毎朝誰かが欠けていくのを、避けられない事として受け入れていきました。
「また一人減ったな」と呟き、「今日は誰だろう」と言い、そして「仕方ない」と納得しながら、その日を過ごしました。
子どもが減り、老人が減り、若い夫婦が減っていきました。
それでも、誰一人として村を出ようとはしません。
もう他に残されている場所がない事は、みんなが知っていたのです。
村人たちは調子のはずれた音を無視しながら、できるだけ平穏に、生活を続けました。
朝になれば、残った人々は井戸で顔を洗い、畑に出ます。
パン屋は、いつもの時間に煙をあげます。
子どもが三人しか残っていなくても、誰かが「外で遊ぶといい」と声をかけます。
子どもの一人が口笛を吹きましたが、もう誰も、それをやめさせようとしませんでした。
母親たちは、少ない布で洗濯をし、夕方には誰かの家に集まって煮炊きをしました。
「今日はこれで終わりだな」と、村長が言うと、残った人たちは無言で頷き、次の朝が来るのを待つのでした。
時間が流れていきました。
陽が沈み、夜の帳が下り、朝が来て、また夜が訪れました。
最後に村に残ったのは、村長でした。
彼は広場に跪いていました。
周囲には、もう誰の姿もありません。
家々の戸は開いたままになり、畑は放置され、井戸の水は淀んでいました。
朝の光だけが、いつもと変わらず、村を照らしていました。
村長は、最初の噂が届いたとき、「ここだけは」と自分に言い聞かせました。
一人、また一人と人が消えていくのを見ながら、それでも何もできませんでした。
今、広場に跪いているのは、みんなを守れなかったことへの罰のようにも思えました。
風が吹きました。
遠くで、誰かの家の戸が、ゆっくりと閉まる音がしました。
もう、誰もいないのに。
広場に、子どもがでたらめに吹いているような、おかしな音色が満ちました。
「あれ」が近づくと、村長は顔を上げました。
彼は静かに、しかしはっきりと尋ねました。
「なぜ、私たちなのですか?」
「あれ」は微笑みました。
その微笑みは、どこか童話の語り手のような、穏やかで優しいものでした。
「だって、皆さんがここにいたからですよ」
村長の屠殺は、甲高いフルートの音が響く中、朝から夕暮れまでかかりました。
「あれ」は一本一本の骨を、折るのではなく、優しく曲げて外していきました。
村長は最後まで声を上げませんでした。
ただ、時折小さく息を吐くだけでした。
最後に、彼は小さく囁きました。
「……そうですか」
音が、途絶えました。
「あれ」は、頷きました。
そして、村に残っていた灯りを、一つずつ、丁寧に消していきました。
今、その村は静かです。
森のふもとに、誰も住まなくなった家々が並んでいます。
時折、風が森から吹いてくると、どこかから肉の焼ける、香ばしい匂いが漂ってきます。それは、まるで誰かが夕飯の支度をしているかのように、穏やかで、日常的でした。
もう誰も、その匂いの出所を確かめようとする人はいません。
最後に残っていた小さな村は、穏やかに、消えていきました。
ホラー小説が好きで、自分でも書いてみたくなり
今回、執筆させていただきました。
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