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あれ  作者: 鈴音めぐり


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1/1

「あれ」あるいは調子のおかしな音色の話

あるところ。

静かな森のふもとに、小さな村がありました。

村は森に抱かれるようにして建っており、朝には霧が立ち込め、夕方には陽が森の木々の間から細く差し込みます。


家々は古びた木と石でできていて、どれも同じような形をしていました。

特別に裕福な家も、特別に貧しい家もありませんでした。

ただ、静かに、穏やかに、人が生きているというだけの場所でした。


ここ数ヶ月、森の向こうから届く話は、どれも良いものではありませんでした。

森の向こうの村が、いくつも廃村になった。家は残っているのに、人っ子一人いない。

けれどこの村では、そうした話があっても、騒ぎ立てることはありませんでした。

そうした悪いことが訪れない場所なので、ここを選んだからです。

みな、「遠いところの話だ」と、静かに受け流していました。

朝が来ると、パン屋の煙突から白い煙が細く立ち上ります。

子どもたちはその煙を見てから遊びに出かけ、母親たちは井戸で水を汲み、父親たちは畑や森に出て仕事をするのです。


広場で遊ぶ子供の一人が、ふと口笛を吹こうとしました。

すると、近くにいた母親がその子のもとに歩み寄り、そっと口を塞ぎます。

「やめなさい」

子どもは不満そうに母親を見上げますが、母親は首を横に振りました。

「いやなものが寄ってきたら困るでしょう?」


夕方になれば、誰かの家から煮炊きをする匂いが漂い、夜には一軒、また一軒と灯りがともります。

村の人々は、特別なことが起こらない日々を、当たり前のこととして過ごしていました。


ある朝、村の高い場所から見ると、森の向こうで細い煙が上がっているのが見えました。

その日の夕方、誰かがふと立ち止まって耳を澄ませました。

遠くから、微かな音が聞こえてきたのです。

子供が吹いているような、どこか音が外れた、調子のおかしなフルートの音でした。

誰かが「気のせいだな」と呟き、誰かが「関係ないさ」と答えました。

それ以上、誰もその音について話しませんでした。


次の日の朝、その村に「あれ」が来ました。

最初に選ばれたのは、村はずれに一人で暮らしていた老婆でした。

彼女はニワトリ小屋の前で、地面に餌を撒いていました。

古い腰を曲げ、皺だらけの手でニワトリの餌を丁寧にばら撒く様子は、いつもの朝と変わりありませんでした。

ニワトリたちが集まってくる音だけが、森の端で小さく響いていました。

森の奥から、小さく、フルートの音が鳴りました。

老婆は、わずかに動きを止めました。

しかし、振り返りはしません。

ただ、無言で餌を撒き続けました。

音は次第に村のほうに近づいてきます。

耳のすぐそばで、調子の狂った、歪んだ音が鳴りました。

「あれ」は老婆の背後に立っていました。

影もなく、ただそこにいました。


老婆が体を起こした瞬間、「あれ」はその首にそっと手を添えました。

指先が皮膚に触れた瞬間、老婆は小さく息を吐きました。

「あれ」は指をゆっくりと動かしました。

まるで古い布を丁寧に引き裂くように、首の皮膚が縦に割れていきます。

気管が白く露わになり、わずかに血がにじみ出ました。

老婆は「まあ」と小さな声を出したきり、動かなくなりました。

「あれ」は胸の部分を丁寧に開き、硬い部分を折りました。

まだ小さく脈打っているものを奥から取り出すと、掌にのせ、しばらく眺めていましたが、やがて、それを地面に置きました。

取り出したものは土の上で、なおも小さく収縮を繰り返していました。

「あれ」はそれを踏みつぶす前に、穏やかな声で言いました。

「おはようございます」


老婆の亡骸は、その日の午前中に村の人々によって発見されました。

誰かが小さなため息をつき、誰かが「可哀想に」と呟きました。

数人の男が土を掘り、老婆を埋めました。

血の染みた地面は、朝露と土ですぐに覆われ、痕跡は残りませんでした。

ニワトリ小屋の前には、撒き散らされた餌がまだ残っていました。


その夜から、フルートの音が、村のどこかから、微かに聞こえるようになりました。

遠くなったり、近くなったり。

まるで村をのんびりと散歩しているように。

しかし、誰もそのことについて深くは語りませんでした。


次の朝、若い母親が、まだ小さな赤ん坊を抱き、井戸端にかがんでいました。

赤ん坊は母親の胸に顔を埋めるように眠っており、彼女は片手でその背中を支えながら、もう片方の手で洗濯をしていました。


母親は、赤ん坊の小さな寝息を聞きながら、昨夜のことを思い浮かべていました。

珍しく、この子が夜泣きした。

老婆が死んでいたらしいが、夫は何も教えてくれない。

森の向こうの話は、もう関係ない。

ここに辿り着くまでに、多くの街が消え、大切な人たちのほとんども犠牲になった。

ようやく森の中にたどり着いたとき、生き残った皆が、口を揃えて同じことを言った。

「ここだけは大丈夫だ」

——ここは、みんなで目指した安全な場所。

赤ん坊の体温が、母親の腕に優しく、重く感じられました。


朝の光が井戸の水面に反射し、静かな水音が響いています。

ふいに、背後から、でたらめな音色が聞こえました。

母親が洗濯物を持ち上げた瞬間、「あれ」はその背中を縦に、ゆっくりと裂きました。

皮膚が左右に割れ、背に通ったものが白く露わになります。

母親の体がわずかに傾きました。

それでも彼女は、赤ん坊を落とさないよう必死に腕に力を込めていました。

「あれ」は母親の背中に口を寄せました。

吸う音は小さく、しかし長い間続きました。

母親の体が少しずつ力を失っていくのを感じながら、「あれ」は静かに、愛おしそうに中身を味わいました。


母親は、薄れゆく意識の中で、ただ一つだけを考えていました。

——この子を、落としてはいけない。

夫が帰ってくるまで、守らなければ。

その思いだけが、命の火が尽きるまで残っていました。


赤ん坊は母親の腕の中で一度だけ小さく動きましたが、すぐにまた眠るように静かになりました。

母親の体は、井戸の中に静かに落とされました。

水が淡く赤く染まり、波紋がゆっくりと広がっていきました。

赤ん坊は井戸の縁に置かれたまま、目を閉じて動かなくなっていました。


村の人々は、その日の午前中に母親と赤ん坊が死んでいる事に気づきました。

「困ったな」と誰かが言い、「井戸の水はもう使えないな」と誰かが答えました。

数人の男が別の場所から水を運ぶことに決め、母親と赤ん坊の亡骸は、森の端に埋められました。

彼女の夫を含め、誰一人として、大きな声で泣く者はいませんでした。

ただ、ため息と小さな言葉、そしてどこからか聞こえるフルートの音が、朝の村に漂っていました。


三日目は、鍛冶屋の男でした。

彼は小さな鍛冶小屋で、朝から鉄を打っていました。

火の粉が舞い、汗が額を伝う中、「あれ」は静かに入ってきました。

男が鉄を火の中から取り出した瞬間、「あれ」はその熱した鉄を、男の口にゆっくりと流し込みました。

男は目を見開きました。

しかし、声は出ませんでした。

熱した鉄が喉を通り、胃まで流れていきます。

「あれ」は男の腹を丁寧に開き、さまざまな中身を一つずつ作業台の上に並べていきました。

どれもまだ温かく、湯気を立てていました。

「あれ」はそれらを順番に眺めながら、静かに言いました。

「よく働きましたね」


村は、少しずつ人数を減らしていきました。

若い男が皮膚を一枚ずつ剥がされながら、自分の肉を食べさせられました。

若い女が四肢を一本ずつ関節から外され、胴体だけになったところで頭をゆっくりと潰されました。

二人の死体は、翌朝、村の広場に並べて置かれていました。

誰が並べたのか、誰にも分かりません。

ただ、朝の光が二つの亡骸を明るく照らしていました。


まだ十代の少女も選ばれました。

彼女は家の縁側で、朝の光を浴びながら座っていました。

風が森から吹いてきて、彼女の髪を少しだけ揺らした時、「あれ」はその横に、まるで座るようにして現れました。

少女の目は、のんびりと取り除かれました。

耳も、丁寧に。

舌も、慈しむように。

「あれ」は表情のなくなった少女を抱きしめながら、穏やかな声で言いました。

「きれいですね」

少女は、その最後の瞬間、母親が今日作ってくれるはずだったスープの味を、ぼんやりと思い浮かべていました。


村の空気は、以前と変わりました。

日を追うごとに、笑い声が聞こえなくなり、夕方になっても灯りのつかない家が目立つようになりました。

村の人々は、毎朝誰かが欠けていくのを、避けられない事として受け入れていきました。

「また一人減ったな」と呟き、「今日は誰だろう」と言い、そして「仕方ない」と納得しながら、その日を過ごしました。

子どもが減り、老人が減り、若い夫婦が減っていきました。

それでも、誰一人として村を出ようとはしません。

もう他に残されている場所がない事は、みんなが知っていたのです。


村人たちは調子のはずれた音を無視しながら、できるだけ平穏に、生活を続けました。

朝になれば、残った人々は井戸で顔を洗い、畑に出ます。

パン屋は、いつもの時間に煙をあげます。

子どもが三人しか残っていなくても、誰かが「外で遊ぶといい」と声をかけます。

子どもの一人が口笛を吹きましたが、もう誰も、それをやめさせようとしませんでした。

母親たちは、少ない布で洗濯をし、夕方には誰かの家に集まって煮炊きをしました。

「今日はこれで終わりだな」と、村長が言うと、残った人たちは無言で頷き、次の朝が来るのを待つのでした。


時間が流れていきました。

陽が沈み、夜の帳が下り、朝が来て、また夜が訪れました。

最後に村に残ったのは、村長でした。

彼は広場に跪いていました。

周囲には、もう誰の姿もありません。

家々の戸は開いたままになり、畑は放置され、井戸の水は淀んでいました。

朝の光だけが、いつもと変わらず、村を照らしていました。


村長は、最初の噂が届いたとき、「ここだけは」と自分に言い聞かせました。

一人、また一人と人が消えていくのを見ながら、それでも何もできませんでした。

今、広場に跪いているのは、みんなを守れなかったことへの罰のようにも思えました。


風が吹きました。

遠くで、誰かの家の戸が、ゆっくりと閉まる音がしました。

もう、誰もいないのに。

広場に、子どもがでたらめに吹いているような、おかしな音色が満ちました。


「あれ」が近づくと、村長は顔を上げました。

彼は静かに、しかしはっきりと尋ねました。

「なぜ、私たちなのですか?」

「あれ」は微笑みました。

その微笑みは、どこか童話の語り手のような、穏やかで優しいものでした。

「だって、皆さんがここにいたからですよ」


村長の屠殺は、甲高いフルートの音が響く中、朝から夕暮れまでかかりました。

「あれ」は一本一本の骨を、折るのではなく、優しく曲げて外していきました。

村長は最後まで声を上げませんでした。

ただ、時折小さく息を吐くだけでした。

最後に、彼は小さく囁きました。

「……そうですか」

音が、途絶えました。

「あれ」は、頷きました。

そして、村に残っていた灯りを、一つずつ、丁寧に消していきました。


今、その村は静かです。

森のふもとに、誰も住まなくなった家々が並んでいます。

時折、風が森から吹いてくると、どこかから肉の焼ける、香ばしい匂いが漂ってきます。それは、まるで誰かが夕飯の支度をしているかのように、穏やかで、日常的でした。

もう誰も、その匂いの出所を確かめようとする人はいません。

最後に残っていた小さな村は、穏やかに、消えていきました。



ホラー小説が好きで、自分でも書いてみたくなり

今回、執筆させていただきました。

コメントや評価などいただけると、とても嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
【あれ】がどんな見た目をしているのか最後までとても気になる作品でした。 人が消される描写からも【あれ】はおそらく人の形をしている生き物なのではないかと想像は出来るが定かではない。 人が瞬時に静かに解体…
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