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「若い令嬢」を選んで、婚約者を捨てた代償

作者: 風谷 華
掲載日:2026/03/05

こちらは投稿当時のままの未改稿版です。現在、改稿してクオリティを上げた連載版も出しています。よろしければ、あわせてご覧いただけると嬉しいです。

 王都の夜は、いつも残酷なほど美しい。


 月光が大理石の床に白く溶け込み、シャンデリアの光が令嬢たちのドレスをきらきらと彩る。笑い声が幾重にも重なり、グラスが軽やかに触れ合う音が会場中を満たしている。花の香りをまとったレースのスカートが回り、男性たちの燕尾服が翻る。


 舞踏会。


 それは社交界という名の、美しい戦場だ。


 ミーナ・ヴェルダン公爵令嬢は、ひっそりと壁際に立っていた。


 白いドレス。


 かつて「白薔薇」と称えられたその姿は、今も端正だった。鼻筋の通った横顔、滑らかな肌、静かで知的な瞳。けれど十二年前にそう呼ばれた声は、今夜はどこからも聞こえてこない。


 三十歳。


 社交界においては、それはもう「枯れ花」の年齢だった。


 誰も面と向かってそう言いはしない。でも空気でわかる。かつて話しかけてきた男性たちの視線が、ミーナを素通りして若い令嬢たちに向かう。扇の陰で囁かれる言葉を、完全に防ぐことはできない。


「もうお年でしょう、ヴェルダン令嬢は」


「結婚はまだなさっていないのかしら」


「ガルシア様も、お気の毒に」


 最後の言葉は、特に刺さった。


 アルベルトへの同情。つまりミーナとの婚約を、不幸として語る言葉。ダンスを申し込む声が絶えなかった。贈り物が毎日のように届いた。「令嬢の中で一番美しい」という声を、何度も聞いた。


 それが今はない。


 ミーナは自分に気づかないわけではない。ただ、かつてと違う。かつては熱い視線を感じた。今は涼しい空気の中にいるような感覚だ。若い令嬢たちが会場の中心で輝いている。自分はその周縁にいる。


 それが、三十歳という年齢の現実だった。


「ミーナ」


 低い声が背後から聞こえた。


 振り返ると、アルベルト・ガルシア公爵家嫡男が立っていた。黒い燕尾服に金の勲章。戦場から帰ってきた男の体つきは、十二年前より随分と逞しくなっている。顎のラインが角張り、目の周りに微かな皺が刻まれていた。それでも整った顔立ちは変わっていない。


 けれどその目の中に、かつてあった温かさはもうなかった。


 ミーナはそれに気づいていた。気づいていたが、目を逸らしていた。


「アルベルト様」


 ミーナは丁寧に礼をした。十年越しの婚約者への礼儀を、彼女は崩さなかった。


「話がある」


 アルベルトは周囲を見回した。近くには人がいない。彼はそれを確認してから、静かに言った。


「婚約を、解消したいと思っている」


 ミーナは息を呑んだ。


 いや、正確には、息を呑みそうになって、それを堪えた。


 予感はあった。


 戦争から戻ってきてから二ヶ月、アルベルトは一度もミーナに会いに来なかった。手紙も途絶えた。共通の知人を通じて、彼が王都にいることは確かめていた。それでも来なかった。社交界では彼が若い令嬢たちと踊る姿が目撃され始めていた。


 それでも。


 それでも、ミーナはまだ信じていたかった。


 十二年間の婚約。十二年間の手紙。十二年間の祈り。


 それが無駄だったとは思いたくなかった。


「理由を、聞いてもよいですか」


 声は震えなかった。自分でも驚くほど、澄んでいた。


 アルベルトは少し眉を上げた。怒るかと思っていたのかもしれない。あるいは泣くかと思っていたのか。ミーナが落ち着いて問い返したことに、彼はわずかに戸惑ったように見えた。


 それから、きっぱりと言った。


「君は、もう三十歳だ」


「……はい」


「女性の魔力は若いほど強い。それは常識だ。そして社交界において、女性の価値は魔力と若さにある」


 ミーナは黙って聞いていた。


「私は公爵家の跡を継ぐ。それにふさわしい妻が必要だ。若く、魔力に満ちた、社交界で輝ける女性が」


「私では、もはやその条件を満たせないと」


「……率直に言えば、そうだ」


 ミーナはゆっくりと一度、目を閉じた。


 舞踏会の音楽が遠く聞こえた。誰かが笑っている。グラスが触れ合う音がする。世界は何事もなく回っている。この会話の重さなど、世界は何も知らない。


「一つだけ、教えていただけますか」


 目を開けて、ミーナはアルベルトを見た。


「戦争中、私が送り続けた手紙は、届いていましたか」


 アルベルトは一瞬、口を閉じた。


「……届いていた」


「前線に届いていましたか。それとも後方に残っていましたか」


「前線に届いていた。毎月、届いていた」


「そうですか」


 ミーナは少し頷いた。


「負傷兵の支援に関わりながら、毎月書きました。あなたが無事でいるよう、祈りながら書きました」


「それは……ありがたかった」


「孤児院でも働きました。補給管理も手伝いました。あなたが戦っている間、私にできることをしようと思って、できる限りのことをしていました」


「……知っている」


「それらは全部、あなたへの気持ちからしたことでした。あなたが帰ってくる国を守りたかったから。あなたの帰る場所が、少しでも良くあってほしかったから」


 アルベルトは黙っていた。


「でも、今あなたが見ているのは、私ではなく私の年齢なのですね」


 沈黙があった。


 長い沈黙だった。


「……そうだ」


 アルベルトはようやく言った。重い声だった。「そういうことに、なる」


「わかりました」


 ミーナは静かに頭を下げた。「婚約解消、承知いたしました」


 そして立ち上がり、音楽の流れる舞踏会の真ん中を、背筋を伸ばして歩いていった。


 誰にも泣き顔を見せないまま。


 アルベルトが後ろで何か言いかけた気がしたが、ミーナは振り返らなかった。


 廊下に出たところで、ようやく壁に手をついた。


 足が震えていた。


 膝が、ぐらついている。壁がなければ崩れ落ちていたかもしれない。手のひらに冷たい大理石の感触があった。それだけが今、現実だった。


 胸の奥に、何か熱いものが詰まっていた。涙、ではない。もっと重くて、暗くて、出口のないもの。


 舞踏会の音楽は続いていた。


 世界は何も変わっていない。誰もミーナのことなど知らない。内側でどれだけ崩れていても、廊下の外では笑い声が続いている。


 それが今は、残酷に感じた。


 いや、残酷なのは世界ではない。世界はただそこにある。残酷なのは、ミーナ自身の気持ちだ。


 傷ついた。


 認めた。傷ついた。


(若さに、向けられていたのね)


 ミーナは思った。


(十二年間。あの人の優しさも、気遣いも。最初に贈ってくれた花も、珍しい本も。全部、若かった私に向けられていたもの)


 廊下の窓の外、夜空に月が浮かんでいた。満月に近い、大きな月だった。


 三十年、生きてきた。


 でも今夜、ミーナは初めて、自分に値段がついていたことを知った。


 そしてその値段が、今夜、大幅に値下がりしたことも。


 ゆっくりと、ミーナは背筋を伸ばした。


 壁から手を離した。


 まだ震えていたが、立てた。


 今夜はここで崩れない。


 崩れるのは、家に帰ってから、一人でいる時にする。


 今夜は、まだここで立っていなければならない。



 翌朝、社交界はすでにざわめいていた。


 「ガルシア公爵家嫡男が、ヴェルダン公爵令嬢との婚約を解消」


 「新しい婚約者は、フィル・オルトン子爵令嬢、十八歳だそうよ」


 「十二年の婚約が、一夜で解消? それは気の毒に」


 「いいえ、仕方ないわ。三十歳ですもの。公爵家の妻にするには、もう遅すぎるでしょう」


 「ヴェルダン令嬢は優秀な方らしいけれど、優秀なだけでは社交界では足りないのよ」


 噂は鳥のように飛び交い、ミーナの耳にも届いた。


 知らない女性が囁くのを聞いた。「あら、あれがヴェルダン令嬢? 確かにもう若くないわね」と。


 ミーナはその言葉を、正面から受け止めた。


 怒りは、あまりなかった。


 ただ、冷たい水の中に沈んでいくような感覚があった。


 実家に戻ったミーナに、父であるヴェルダン公爵は何も言わなかった。母も、何も言わなかった。ただ、どこか落ち着かない目でミーナを見ていた。謝るでもなく、慰めるでもなく、ただ見ていた。


 二人の目が言っていた。「どうするつもりなのか」と。


「気にしなくていい」と、ミーナ自身が言った。「私は大丈夫です」


 大丈夫、というのは半分嘘だった。


 でも、半分は本当だった。


 泣くつもりはなかった。壊れるつもりも、腐るつもりもなかった。ただ、次に何をすればいいか、全くわからなかった。


 それが今の正直なところだった。




 三日後、ミーナはヴェルダン家の書斎に一人でいた。


 棚に並んだ本を、ぼんやりと眺めていた。


 十八歳の時に読んだ本がある。二十歳の時に書き込みを入れた辞典がある。戦争中、一人で読みふけった魔法書がある。補給管理の参考にした数学書がある。孤児院の子どもたちのために読み込んだ教育論がある。


 この書斎に並んだ本の数だけ、自分は何かをしてきたはずだ。


 なのに今は、全部が空虚に見えた。


 ミーナは一冊を抜き出した。


 魔法論概論。古い本だ。背表紙がすり切れている。大学の研究者が書いた真面目な学術書で、十七歳の時に父の書斎から持ち出して読んだ。


 ページをめくると、当時の自分の字で書き込みがあった。


「魔力は若いほど強い。これが社交界の常識」


 そこに、少し後の字で付け足されていた。


「本当に? 根拠は何?」


 ミーナは苦笑した。


 若い頃の自分は、疑問を持っていたのだ。賢い子だった、と少し思った。でも誰かに聞いたところ、「それが当たり前」と言われ、そのまま忘れてしまった。


 当たり前、という言葉は怖い。


 それは問いを封じる言葉だから。


 窓の外、庭に薔薇が咲いていた。


 白い薔薇。


 かつてアルベルトが「君の名前みたいだ」と言って好んで庭に植えた花。今は誰も手入れをしていないので、少し乱れていたが、それでもしっかりと咲いていた。


(十二年間、私は何をしていたのだろう)


 ミーナは考えた。


 戦争支援。孤児院の仕事。補給管理の補佐。手紙。


 それは全部、アルベルトを待ちながらしたことだった。


 いや、正確には違う。ミーナは自分に正直に向き合った。孤児院の子どもたちは可愛かった。補給管理の仕事はやりがいがあった。負傷兵を助ける仕事は辛かったが、誰かの役に立っている実感があった。


 アルベルトのためだけではなかった。


 でも、根っこのどこかに、「彼が帰ってきたとき、自分を誇れるようにいたい」という気持ちがあったことも確かだ。


(彼は帰ってきた)


 ミーナは思った。


(そして言った。三十歳の女性には価値がない、と)


 静かな痛みが走った。


(彼は私を、好きだったのかしら)


 今になって、そんな疑問が浮かんだ。


 十八歳の時、初めて婚約した時、アルベルトは確かに優しかった。ミーナの話を聞いてくれた。花を贈ってくれた。書物が好きなミーナのために、珍しい本を探してくれたこともあった。会えば笑顔を向けてくれた。


 でも。


 でもあれは、自分に向けられていたものだったのか?


 社交界で「白薔薇」と呼ばれていた、若く美しい自分。その、若さと美しさに向けられた感情だったのではないか。


 若いミーナが特別なのではなく、「若い女性」という属性が特別だった。


 そのポジションに、たまたまミーナがいた。


「……そうか」


 ミーナは小声で言った。


「私ではなく、若さが好かれていたのか」


 それは今更な気づきのようで、しかし胸の奥に鈍く、深く刺さった。


 若い頃、どれほどちやほやされたか。男性たちが競ってグラスを運んでくれた。ダンスを申し込まれ続けた。「令嬢の中で一番美しい」と言われた。父親の年齢の男性まで、婚約を申し込んできた。


 あれは全部、自分への言葉だと思っていた。


 自分というものを見て、好きになってくれたのだと思っていた。


 でも違ったのかもしれない。


 あれは「若く美しい女性」への言葉だった。


 ミーナはその「若く美しい女性」というラベルを、十八から三十の間、体に貼り付けていた。


 そのラベルが剥がれた。


 残ったのは、ただのミーナだ。


 書物が好きで、真面目で、孤児たちの世話が得意で、補給管理の計算が得意で、負傷兵の傷の手当てを少し覚えた、三十歳の女。


(この私に、価値はあるのかしら)


 問いを立てた瞬間、ミーナは自分がどれほど怖いかを知った。


 答えが「ない」だったら、どうすればいいのか。


 わからなかった。


 答えを探す気力も、まだなかった。


 だから今日は、ただここに座っていることにした。


 古い本を持って、薔薇の見える窓際で、ただここにいることにした。


 それだけが、今日のミーナにできることだった。


 夕方、母が書斎に入ってきた。


「ミーナ、少し顔色が悪いわ。食事をしていないの?」


「ちゃんと食べています」


「そう」


 母はしばらくミーナの傍に立っていた。何か言いたそうで、でも言えないでいた。


「……辛かったわね」


 ようやく、そう言った。


「平気です」


「平気なわけはないでしょう」


 母は椅子を引いて、ミーナの斜め向かいに座った。


「私もね、若い頃に似たようなことを言われたことがある」


「え?」


「あなたのお父様ではないの。別の方に。若い頃の話よ。婚約が始まる前に、ある貴族に言われたわ。『あなたは美しいが、もう少し若ければ』と」


 ミーナは母を見た。


「その時は、ひどく傷ついた。まだ二十三歳だったのに。でも今思えば」


 母は少し苦笑いをした。


「あの方がそれを言えたのは、私を本当に見ていなかったからよ。見ているのは年齢だった。だから平気で言えた。本当に人を見ている人は、そんな言葉は使わないから」


 ミーナは黙って聞いた。


「アルベルト様は……あなたを見ていなかったのね、ずっと」


「……そうかもしれません」


「だとすれば、あの人と一緒にならなかったのは、悲しいことではあるけれど、良かったことでもあるわ」


 ミーナは少し考えた。


「今はまだ、そう思えないところもあります」


「すぐに思えなくていい。時間をかけていいのよ」


 母は立ち上がった。扉の前で振り返った。


「でも一つだけ、お母様から言わせてほしいことがある」


「何でしょう」


「あなたは私の子どもの中で、一番自分に厳しい子よ。自分を守ることを、もう少し覚えて。価値があるかないかを、あなた自身が一番先に認めてあげないといけないわ」


 そう言って、母は書斎を出ていった。


 ミーナは少しの間、その言葉を胸の中で転がした。


 自分を守る。


 自分の価値を、自分が認める。


 簡単そうで、一番難しいことだった。


 でも。


 いつかは、できるかもしれない。


 ミーナは窓の外の薔薇を見た。


 今日もそこにあった。


 誰も手入れをしていないのに、咲いていた。





 一週間後、ヴェルダン公爵家に客が来た。


 レオナルド・カーゼル辺境伯。


 三十に満たない若い辺境伯は、戦争の英雄として今や名が広く知られていた。北方戦線で三度の奇跡的な勝利を収め、最終局面では自ら敵陣に切り込んで敵将を討ったという。そのため「氷の獅子」と呼ばれていると聞いた。


 ヴェルダン公爵家は父の代から辺境伯家と縁があった。今回の訪問は、戦後処理に関する政治的な協議のためだという。


 ミーナは最初、客間に出る気がなかった。


 婚約破棄から一週間。実家に閉じこもっていた。食事はとっていたし、泣き続けているわけでもなかった。友人からの手紙にも返事を書いた。外見は普通だった。


 でも気力というものが、どこかに落ちていってしまったような感覚があった。心に穴が空いているのに、その穴が何なのかよくわからない。悲しいとも違う。怒りとも違う。ただ、空っぽな感じがした。


 父に頼まれた。「茶を出してほしい。もてなしを頼む」と。


 仕方なくミーナは書物を閉じ、客間に向かった。


 扉を開けると、部屋の中に一人の男がいた。


 茶色の髪。灰色の目。軍人の体躯だが、無駄がない。座っているのに、どこか空気が締まっている感じがした。ミーナが入っても、急に立ち上がって見せたりしなかった。ただ自然に視線だけ向けた。


 父はまだ来ていなかった。


「失礼いたします。お茶をお持ちしました」


 ミーナはそつなく挨拶した。


「ありがとう」


 男は短く答えた。そして、ミーナが茶を注ぐ間、ただ静かに座っていた。


 社交界の男性のように、すぐに話しかけてくることもなかった。「令嬢は美しい」とも言わなかった。「どこかでお会いしましたか」というような社交辞令もなかった。ただ、静かな目でミーナを見ていた。


 値踏みするような目ではなかった。


 ただ、見ていた。


「ヴェルダン公爵令嬢でいらっしゃいますか」


 不意に聞かれた。


「はい。ミーナ・ヴェルダンです」


「カーゼルです。レオナルド・カーゼルと申します。戦場ではお父上に大変お世話になりました」


「存じております。父からよくお話を伺いました」


 短い沈黙。


「あなたが負傷兵支援をされていたのは、存じています」


 ミーナは手を止めた。


「……ご存知なのですか」


「前線の兵たちの間では、知られていますよ。定期的に薬と包帯と食料が届いていた。補給が滞っても、ヴェルダン家からの物資は途切れなかった。おかげで助かった兵が多かった。感謝している者がたくさんいます」


 ミーナは何と答えたらいいかわからなかった。


 社交界に戻るたびに、人々は言った。「ご苦労でしたね」「よく続けられましたね」。でも、それはどこか他人事のような温度だった。


 この男の声には、そういう他人事感がなかった。


「……やれることをしていただけです」


「それで十分です」


 レオナルドは静かに言った。


「価値のある行動というのは、派手である必要はない。続けることが、何より難しい」


 ミーナはレオナルドを見た。


 灰色の目が、静かにこちらを見ていた。


 値踏みするような目ではなかった。品定めをするような目でもなかった。


 ただ、見ていた。


 ミーナは少し、不思議な気持ちになった。



 それから、ヴェルダン家とカーゼル家の間で、何度か交流があった。


 戦後処理の話し合いが長引いたためだ。


 レオナルドは毎回、無口だった。社交的ではなかった。必要なことは話したが、それ以上は話さなかった。愛想笑いをしなかった。ほめ言葉を並べなかった。


 社交界の男性とは全然違う人だ、とミーナは思った。


 社交界の男性は基本的によく喋る。笑う。持ち上げる。その中にどれだけ本気があるかはわからないが、とにかく表面を滑らかに整えようとする。


 この男はそれをしなかった。


 社交界の女性が得意ではないのだと、ある日父から聞いた。


「若さと美貌のことしか言わない女性が多いから、話すことがないと言っていた」と父は苦笑いしながら話した。「ミーナはそういう話をしないから、話しやすいそうだ。帰り際に少し言っていた」


 ミーナは苦笑いをした。


 そうか、と思った。


 若さのことを語らないのは、もう語る若さが自分にないからだ。でも彼には、それが逆に話しやすく映るらしい。


 世界は、不思議だ。


 ある日、二人で書斎に並んで座り、魔法論について話し合う機会があった。


 話のきっかけは、ミーナが開きっぱなしにしていた古い魔法書だった。


「面白そうな本だ」とレオナルドが言い、ミーナが「古代魔法に関する本なのです」と答え、そこから会話が始まった。


「古代魔法では、三十歳以降に魔力が覚醒する女性がいると書かれています」とミーナは言った。「でも今では、その知識は忘れられています。女性の魔力は若いほど強いという常識だけが残って、古いことは捨てられてしまった」


「その常識は正しいと思いますか?」


「わかりません。でも、少し疑っています」


「なぜ?」


「若い頃の私は、魔力がさほど強くなかった。むしろ同年代の中でも弱い方でした。でも最近、何か変わった感覚があります。指先が熱い。魔法を使う時に、以前より力が入る気がして。まだ試していないので、気のせいかもしれませんが」


 レオナルドは少し身を乗り出した。


「どんな感覚です、もう少し詳しく」


「……うまく言えないのですが、体の奥に、何かが眠っているような感じ。呼べば応えてくれそうな。でも、まだその呼び方がわからない感じです」


「魔力計測を、してみましたか?」


「いいえ。婚約が解消されたことと重なって、そこまで気が回らなかった、というか」


 言いながらミーナは少し苦笑した。弱い理由だと思った。


 レオナルドはしばらく黙っていた。


「魔力計測を、してみることをお勧めします」


「なぜですか?」


「理由は、うまく説明できません。ただ、あなたが語る感覚は、実際の変化を伴っている可能性があると思います」


「辺境伯は、そういうことに詳しいのですか?」


「北方の民に、三十を過ぎてから魔力が変わったという老人がいました。その人から話を聞いたことがあります。若い時には持っていなかった力が、年を重ねてから現れたと言っていた。当時は半信半疑でしたが、あなたの話を聞いて思い出しました」


 レオナルドは少し遠くを見るような目をした。


「年齢と魔力の関係は、まだ解明されていない部分が多い。社交界の常識が、必ずしも全ての真実ではないかもしれない」


 ミーナは静かに、それを聞いていた。


(社交界の常識が、必ずしも真実ではないかもしれない)


 胸の奥で、その言葉がゆっくりと溶けていく気がした。


 魔力だけではなく、もっと広い意味で、その言葉が胸に響いた。


 女性の価値は若さにある、というのも、社交界の常識だ。


 それも、必ずしも真実ではないかもしれない。


 そう思うことは、今のミーナには少し、呼吸をするのを楽にしてくれた。




 魔力計測は、王立魔法研究院で行われた。


 重い石造りの建物で、廊下には複数の石像が並んでいた。古い魔法師たちの像だろう。その中にいくつか、女性の像もあった。ミーナは歩きながら、それをじっと見た。


 受付の若い魔法師が少し戸惑ったような顔をした。


「計測は通常、十五歳から二十歳の間に行います。三十歳での計測は……珍しいですね。何かお感じになることがあって?」


「知人に勧められまして」とミーナは答えた。「最近、魔力に変化があるような感覚があるので、確かめたかった」


「そうですか。では、どうぞ」


 計測室は広かった。中央に大きな水晶球が置かれ、壁に複数の計測器が設置されている。白衣の研究員が三人、ノートを持って立っていた。


「手をかざしてください」と研究員の一人が言った。


 ミーナは水晶球に手をかざした。


 最初は何も起きなかった。


 一呼吸。


 二呼吸。


 次の瞬間、水晶球が輝いた。


 白ではなかった。


 金だった。


 深みのある、琥珀色の金だった。光は強く、安定していて、どこか重みがあった。若い魔法師の白い光のような派手な輝きではなかったが、静かに、しかし確実に、強かった。


 研究員たちがざわめいた。計測器の針が大きく振れ、一人が「これは……」と呟いた。もう一人が急いで別の計測器を確認し始めた。


「何か問題がありますか?」とミーナは尋ねた。


 最年長の研究員が歩み寄ってきた。白髪で、眼鏡をかけた老人だった。彼はミーナの顔を見て、それから水晶球を見て、それからミーナの顔をまた見た。


「問題は、ありません」


 老研究員は静かに言った。「問題どころか……これは、驚異的だ」


「……どういう意味ですか」


「令嬢、あなたの魔力は」


 老研究員は少し間を置いた。


「現在の王国の魔法師の中で、おそらく最上位に入ります。いや、そう言って正確かどうか確認が必要ですが、少なくとも、私がこの研究院で計測してきた中で、これほどの質の魔力を見たことがない」


 ミーナは言葉を失った。


「そんな、馬鹿な」


「馬鹿ではありません」老研究員は興奮を抑えた声で言った。「この種の魔力は、古い文献に記録があります。三十歳前後に覚醒する、古代魔法と呼ばれる力です。若い魔法師の持つ魔力とは質が違う。表面的な輝きよりも、安定性と持続力と、何より深さが違う」


「古代魔法……」


「数百年前まではよく知られていたのです」老研究員は少し遠くを見るような目になった。「しかし、社交界において女性が若さを競うようになり、年齢を重ねることが否定的に語られるようになってから、この知識は少しずつ忘れられていきました」


 老研究員はミーナを見た。目の中に、静かな怒りのようなものが見えた気がした。


「女性の魔力は若いほど強い、という常識は、嘘ではありません。若い魔力は確かに輝いて見える。ですが、表面的な輝きと実際の力の深さは、別のものです」


「では、私の魔力は」


「あなたの魔力は、開花したばかりです。まだ制御できていない部分もある。でも、これからです。伸びる。確実に伸びる。私が保証します」


 ミーナは水晶球の琥珀色の光を見つめた。


 自分の中に、こんなものが眠っていたのか。


 三十年間、気づかなかった。


 社交界の常識の中にいて、「女性の魔力は若いほど強い」という言葉を信じていたから、自分の中の変化に気づいても、疑わなかった。


 眠っていたのではない、という気がした。


 熟成していた、という気がした。


 ワインのように。土の中で時間をかけて育つ根のように。


 老研究員が続けた。


「制御の鍛錬をお勧めします。力があっても、使い方を知らなければ宝の持ち腐れです。信頼できる指導者を紹介しましょう」


「……よろしいのですか?」


「よろしいも何も」老研究員は少し目を細めた。「あなたのような人が、この研究院に来てくれることは、我々にとっても意味があります。古代魔法は生きた研究です。文献を調べるだけでは限界がある。使い手が必要なのです」


 ミーナはしばらく、それを考えた。


「……魔法の、研究者になれますか。三十歳でも」


「なれます」と老研究員は即答した。「むしろ、あなたの年齢と経験は、研究者として強みになる。若い研究者にない視点を持っている。私が保証しましょう」


 ミーナは立ち上がった。


 水晶球の光はもう消えていたが、指先の温かさは続いていた。


「よろしくお願いします」


 深く頭を下げた。


 老研究員も頷いた。


「こちらこそ」



 その報告をレオナルドにしたのは、翌日のことだった。


 ミーナが書斎に入ると、レオナルドはすでに本を読んでいた。父との会議の合間に書斎を使わせてもらっていた。


「計測に行ってきました」


 ミーナが言うと、レオナルドは顔を上げた。


「結果は?」


「……驚くべき結果でした」


 ミーナは話した。古代魔法のこと。覚醒したばかりであること。今後伸びる可能性があること。老研究員の言葉を、できる限り正確に伝えた。


 レオナルドは黙って聞いていた。割り込まなかった。頷きだけを返しながら、全部聞いた。


「それで、あなたはどう思いましたか?」


 話が終わると、彼はそう聞いた。


「どう、と言いますと」


「うれしいですか? それとも、複雑ですか?」


 ミーナは少し考えた。


「……わかりません。でも、怖くはなかった。こんなものが自分の中にあったのかと思うと、むしろ……少し、明るい気持ちになりました」


「明るい?」


「以前より少し、先が見える気がした。何かができる気がした、と言うか。うまく言えないのですが」


 レオナルドは静かに頷いた。


「それでいい」


「でも」とミーナは言った。「これがあるからといって、私の価値が上がるわけではないと思っています」


「どういう意味ですか?」


「魔力が強いから、価値がある。若いから、価値がある。それと同じ発想です。外側の何かに価値の根拠を置くことを、私はもうやめたいと思っています」


 レオナルドはゆっくりと目を細めた。


「賢い考え方ですね」


「でも、何が私の本当の価値なのかは、まだわかっていません。答えはまだ出ていない」


「そうですか」


 レオナルドはしばらく窓の外を見た。秋の庭に、葉が揺れていた。


「私も長い間、それを考えていました。戦功があるから価値がある。強いから価値がある。英雄だから価値がある。でも、もしその全てが剥がれたら?」


「あなたにも、そういう時があったのですか?」


「戦争が終わった直後。英雄と呼ばれても、何も感じなかった。戦場では、生きることに必死で、自分が何者かなど考えていなかった。でも戦場が終わって都に戻ると、自分がどこにいるのかわからなくなった」


 ミーナはレオナルドを見た。


 この男も、何かを探しているのだと思った。


 強さや功績を持ちながら、それとは別の場所に自分の根っこを求めている人なのかもしれない。


「……答えは、見つかりましたか?」


「まだ探し中です」


 レオナルドは少し苦笑した。珍しく、柔らかい表情だった。


「でも」と彼は言った。「今は以前より、探し方がわかってきた気がします」


 ミーナはそれを聞いて、少し頷いた。


「探し方がわかる、というのは、どういうことですか?」


「……以前は、外側に答えを求めていた。戦功があるから価値がある、と。でも今は、もう少し内側を見るようになりました。自分が何を大切にしているか。何のために動いているか。それが、少しずつわかってきた」


「具体的には?」


 ミーナは率直に聞いた。社交界式の遠回しな問い方ではなく、本当に知りたいから聞いた。


 レオナルドは少し間を置いた。


「北方の民が好きです。辺境の人たちが。都の人間には、合理性だけで語れない生き方をしている人が多い。魚の群れの動きを見て天気を読む老人がいる。土の匂いで季節を知る農夫がいる。都の言葉では捉えられないものを知っている人がいる。そういう人たちの傍にいることが、私には合っていると思っています」


「辺境伯として、ではなく?」


「それもありますが、人として、という意味で」


 ミーナは静かに、それを聞いていた。


 社交界で聞くような言葉ではなかった。でも、誠実な言葉だと思った。


「あなたは」とレオナルドが言った。「孤児院の話をされていましたね。続けているのはなぜですか?」


「……子どもたちが好きだから、というのが一番です。ただ、最初は違いました。最初は義務感でした」


「義務感?」


「貴族令嬢として、慈善活動をすることが求められていた。だから始めました。でも行き始めると、子どもたちが面白くて。自分の話を聞いてくれて。賢い子、元気な子、恥ずかしがり屋な子、色々いて。気づいたら十年以上続けていました」


「義務から始まって、好きになった」


「そうです。なので、純粋に好きで始めたことよりも、もしかしたら大切にできているかもしれません。選んで続けてきたから」


 レオナルドはしばらく、それを聞いていた。


「……面白い考え方ですね」


「ありがとうございます」


「私も、辺境に赴任した最初は、義務感でした。辺境伯として、守るべき土地があるから行く、という。でも今は違う。守りたい、と思っている」


「それは、本物になった、ということですね」


 レオナルドは少し驚いたような顔をした。


「……そうかもしれない」


「続けることで、義務が本物になる。それは、価値だと思います」


 また、静かな沈黙があった。


 今度は居心地の悪い沈黙ではなかった。




 それから一ヶ月が経った。


 ミーナは毎日、魔法の練習をした。老研究員が家庭教師を紹介してくれ、週に三回、魔法の鍛錬を積んだ。


 力は確かに伸びた。


 琥珀色の魔力は、少しずつ安定してきた。制御が利くようになってきた。呼べば応える。放てば飛ぶ。まだ粗削りな部分はあったが、着実だった。


 同時に、孤児院の仕事も再開した。子どもたちは変わらず元気で、ミーナが久しぶりに行くと飛びついてきた。その無邪気さが、ミーナには救いだった。子どもたちは年齢を見ていない。魔力を見ていない。ただ「ミーナ様だ」と言って笑う。


 そういう場所が必要だった。


 研究院では、ミーナの古代魔法についての知識が注目されていた。老研究員は毎回のように新しい文献を持ってきた。ミーナはそれを読み、考え、意見を言った。議論した。研究員たちはミーナの年齢を見ていなかった。知識を見ていた。考え方を見ていた。


 それが、ミーナには新鮮だった。


 社交界では年齢を見られた。でも研究院では、何を知っているかを見られた。


 どちらが本当の自分に近いか、と問われれば、答えは明らかだった。


 ミーナは書物が好きだった。知ることが好きだった。新しいことを学んで、それが誰かの役に立つかもしれないと思うことが好きだった。それは十八歳の頃も、今も、変わっていなかった。


 変わったのは、その自分を見てくれる場所が、ようやく見つかってきたということだった。



 レオナルドとの時間も、少しずつ変わっていた。


 最初は、父の客として来ていた。次第に、ミーナと話をするために来るようになった。そう感じていた。確認はしていなかったが、彼がいる時間には、どこか空気が違った。


 ある夕方、二人で図書室で本を読んでいた。特に何を話すでもなく、ただ本を読んでいた。


 窓の外に夕陽が差し込んで、部屋が橙色になった。


「……夕焼けが好きですか?」


 不意にレオナルドが聞いた。


「好きです。子どもの頃からずっと」


「北方の夕焼けは、王都とは違う色をしていますよ。もう少し、赤に近い。煙のような赤で」


「想像できます。見てみたいですね」


「いつか、見に来ますか」


 軽い口調だったが、ミーナは少し胸が跳ねるのを感じた。


「……辺境は、遠いのでしょう?」


「馬車で五日ほどです。遠くもない」


「そうですか」


 短い沈黙。


「行ってみたいです」と、ミーナは正直に言った。「見たことのない景色を見ることは、好きなので」


 レオナルドは少し目を細めた。


「ではいつか」


「はい、いつか」


 二人で、また本に目を戻した。


 その夜、ミーナはなかなか眠れなかった。


 嫌な理由ではなかった。


 ただ、胸の奥に、かすかに温かいものがある気がして、それが落ち着かなかった。


 アルベルトの新しい婚約者。


 十八歳。金の巻き毛。青い目。薔薇色の頬。花のような笑顔。周りの男たちが競って話しかけていた。


 そしてアルベルトが隣に立ち、誇らしそうにフィルを紹介していた。


 ミーナはそれを遠くから見ていた。


 複雑な気持ちはあった。


 でも、驚くほど穏やかでもあった。悔しいとか、悲しいとか、そういう激しいものではなく、ただ「そうか、あの人はああいう女性が好きだったのか」という、静かな確認に近い気持ちだった。


「ミーナ様、お久しぶりですわ」


 フィルが笑顔で歩み寄ってきた。


 天真爛漫な笑顔だった。悪気はないのだろう。ただ、若くて美しくて、自分が愛されていることが疑いなく自明だと思っている顔だった。ミーナはかつて、ああいう顔をしていたのかもしれない。


「お久しぶりです、オルトン令嬢」


「フィルと呼んでくださいな。仲良くしてくださいね」


「…………」


 ミーナは微笑んだ。


 努力して作った微笑みだった。


「おめでとうございます、フィル様」


 そう言ったのが精一杯だった。


 その後、アルベルトとも一言交わした。


「お変わりないですか、ミーナ」と彼は言った。


「ええ、おかげさまで」とミーナは答えた。


 そこで会話は終わった。


 それ以上、何も言うことがなかった。



 夜会の帰り道、馬車の中でミーナは窓の外を見ていた。


 嫌な気持ちは、あった。


 アルベルトとフィルが並んでいる姿は、確かに絵になっていた。若くて活気があって、社交界が喜ぶ種類の美しさがあった。


 でも、それよりも気になることがあった。


 フィルの笑顔の後ろで、アルベルトの目がミーナを見ていた。何かを言いたそうな、しかし言えない目で。諦めているような、後悔しているような、複雑な目で。


 ミーナはそれを無視した。


 もう関係のないことだ。


 それよりも。


 ミーナは手の平を見た。


 夜の馬車の中で、指先がほんのりと温かかった。


 火の気もないのに、手のひらが温かかった。


 これが、自分の力だ。


 十二年間、社交界の常識の中で、眠っていた力。


 価値がないと決めつけられ、自分でも半ば信じかけていた、本当の自分の力。


(まだわからない。自分の価値が何なのかは)


 ミーナは思った。


(でも、少なくとも、これがある。これは私のものだ。年齢も、婚約も、誰かの評価も、関係なく)


 馬車は夜の王都を走っていった。


 石畳の音がリズムを刻んでいた。


 ミーナはゆっくりと目を閉じた。


 今夜は、よく眠れそうな気がした。




 王国に異変が起きたのは、その三日後のことだった。


 北方の国境近くから、魔物の群れが押し寄せてきたという報告が届いた。


 最初は小さな報告だった。辺境の村を魔物が数頭で襲った、と。しかしそれは一日ごとに規模が増し、二日後には「数百が南下している」となり、三日後には「数千の群れが王都に向かっている」という报告になっていた。


 王都の魔法師団が出動した。


 若い魔法師たちが先陣を切った。輝くような白い魔力を放ち、迎え撃った。


 しかし、効かなかった。


 この種の魔物には、通常の若い魔力が通じなかった。白い閃光は確かに強く輝いた。しかし、その光は魔物の表面を傷つけるだけで、止めることができなかった。中核に届いていなかった。


 被害が出始めた。若い魔法師たちが後退を余儀なくされた。


 王宮に緊急の報告が入った。「魔法師団が苦戦している。このままでは王都に達する可能性がある」


 その報告を聞いた時、ミーナはヴェルダン家の応接間でレオナルドと話していた。


 レオナルドが立ち上がった。


「私は前線に向かう」


「待ってください」


 ミーナも立ち上がった。


「通常の魔力が効かないなら、別の力が必要です。古代魔法なら、あるいは」


「まだ制御が十分ではないとおっしゃっていましたね」


「はい。でも、やってみないとわかりません」


 レオナルドはミーナを見た。


「危険です」


「わかっています」


 ミーナはまっすぐレオナルドを見た。


「私は十二年間、待っていました。婚約者が帰ってくるのを待っていた。彼に価値を認めてもらうのを待っていた。でも、もうそんな過去の自分を、完全に吹っ切りたいんです」


 レオナルドの目が、わずかに揺れた。


「行きましょう」とミーナは言った。



 戦場は、ミーナがかつて想像したどんな場面とも違った。


 夜の平原。空に月が出ていた。その月明かりの下で、無数の影が動いていた。大きい。人間より遥かに大きい影が、ゆっくりと、しかし確実に南に向かって動いていた。


 王都の方向に。


 若い魔法師たちの白い魔力が、閃光のように幾度も幾度も放たれた。その度に一瞬、魔物たちが止まった。しかしすぐに動き出した。傷は浅い。止まらない。


 ミーナは立ち尽くした。


 足が震えた。正直、怖かった。


 訓練では何度も魔力を使った。でも、これは違う。本物の戦場だ。人が傷つく。魔物が溢れている。


 怖い。


 逃げたい。


 でも手のひらは、熱かった。


 不思議なことに、怖いのに手のひらだけが、静かに熱かった。


(これが、ここで使われるために、目覚めたのかもしれない)


 根拠のない確信だった。


 でも、ミーナの体は知っていた。


「ミーナ様」


 傍にいた若い魔法師が言った。「下がっていてください。危険です」


「いいえ」


 ミーナは前に出た。


 若い魔法師たちが戸惑ったように見た。三十歳の公爵令嬢が、戦場の前線に立とうとしている。


 ミーナは両手を前に出した。


 目を閉じた。


 自分の中にある、琥珀色の力に意識を向けた。


 老研究員と訓練した通り。


 呼吸を整える。体の奥に意識を沈める。力が、そこにいる。


 呼ぶ。


 静かに、でも確実に。


 熱さが指先から広がり始めた。


「…………」


 周囲にいた若い魔法師たちが、息を呑む音がした。


 ミーナは目を開いた。


 自分の手から、琥珀色の光が溢れていた。


 白ではなかった。金だった。深みのある、重みのある、琥珀の金色の光だった。若い魔法師たちの白い閃光とは全く違う種類の光だった。


 光の前で、魔物たちが動きを止めていた。


 前列の魔物が、後退した。


 この光は、効く。


 体が知っていた。頭で考える前に、体が知っていた。


 ミーナは力を解き放った。


 琥珀の光が広がっていった。


 波のように、静かに、しかし確実に広がっていった。


 平原を覆うように。夜の暗闇を染めるように。


 魔物たちが、後退を始めた。


 一頭、また一頭。そして群れが。


 先頭の大きな影が、低いうなり声を上げながら向きを変えた。


 群れが、北へ戻っていった。


 若い魔法師たちが沈黙していた。


 誰も何も言わなかった。


 ただ、静かな平原に、琥珀の光だけが残った。





 戦いが終わったのは、夜明け前だった。


 空が白みかけた頃、魔物の群れは霧のように消えた。


 全身から力が抜けていた。足元がふらつき、レオナルドが傍に来て肩を支えてくれた。


「大丈夫ですか」


「……はい、少し疲れただけです」


 ミーナは答えた。


 疲れた。ひどく疲れた。でも心のどこかに、静かな充実感があった。


 初めて感じる充実感だった。婚約していた頃の「よくやった」という達成感ではなく、もっと静かで、根の深い充実感だった。


 自分の力で、やった。


 それだけだった。それだけで、十分だった。


 レオナルドは何も言わなかった。ただ、ミーナが立てるようになるまで肩を支え続けた。そしてミーナが自分の足で立つと、静かに手を離した。


「よかった」


 一言だけ言った。


 ミーナはその一言が、何よりも嬉しかった。


 「すごかった」でも「助かった」でも「ありがとう」でもなく、「よかった」。


 それはミーナのことを心配していた人の言葉だった。


「……ありがとうございます」


 ミーナも、一言だけ言った。


 夜明けの空に、色が滲み始めた。


 暗い青から、少しずつ明るい青に変わっていく。平原に静けさが戻ってきた。


 若い魔法師たちが、少し離れたところで傷の手当てをし合っていた。何人かが怪我をしていた。重傷ではないようだったが、それでも手当てが必要だった。


 ミーナは立ち上がった。


「手当ての道具を持ってきています」


「え?」


「少しですが。傷の手当てなら、多少できます」


 そう言って、ミーナは傷ついた若い魔法師たちの方へ歩いていった。


 十二年間、負傷兵の支援をしてきた経験は、こういう場所でも使えた。



 王宮から使者が来たのはその翌日だった。国王が礼を言いたいという。


 社交界中で話題になった。ヴェルダン公爵令嬢が古代魔法で魔物を退けた、と。


 老研究員は喜びを隠さなかった。「これで古代魔法の研究が前進します」と言い、共同研究の提案をしてきた。


 ミーナはそれを快く引き受けた。


 ただ、一つのことが気になっていた。


 父から聞いた話だ。


「アルベルトが、お前に話がしたいと言ってきた」



 一週間後、ヴェルダン家の庭でアルベルトと会った。


 秋も深まり、庭の葉が色づいていた。白い薔薇は花びらを少し落としていたが、それでも幾つか咲いていた。


 アルベルトは以前より少し痩せて見えた。目の下に疲れが見えた。顎を引いた姿勢が、どこか縮こまっているように見えた。


「ミーナ」


「アルベルト様。改まって何でしょう」


「……あの日のことを、謝りたかった。舞踏会の夜に言ったことを」


 ミーナは静かに待った。


「三十歳だから価値がないと、そう言った。あれは間違っていた。言うべきことではなかった」


「間違いだったと思われるのは」とミーナは言った。「今になって私に力があるとわかったからですか?」


 アルベルトは目を伏せた。


「……そうではない」


「でも、少しはそれがあるでしょう? 正直に言ってください。私はもう怒りません。ただ確認したいだけです」


 長い沈黙があった。


 アルベルトはゆっくり息を吸った。


「……半分は、そうかもしれない。正直に言えば」


「ありがとうございます」とミーナは言った。穏やかに。怒りでもなく、悲しみでもなく。「それが正直なところですよね。力を知ってから後悔が増したのでしょう」


「全部がそうではない」とアルベルトは言った。「あの夜、君が歩いて行く後ろ姿を見て、それから後悔していた。力を知る前から」


「そうですか」


 ミーナは短く答えた。


「でも、私にはもう答えられることがありません」


「なぜ?」


「十二年間、待っていました。あなたが帰ってくるのを。でも帰ってきたあなたが見ていたのは、私の年齢でした。あの時、あなたに残っていたのは、若い女性への期待だけだった。私への気持ちではなかった」


「それは……」


「違いますか?」


 アルベルトは答えなかった。


 ミーナはゆっくりと続けた。


「私のことが本当に好きだったなら、年齢は理由にならなかったはずです。でも年齢で判断された。それはつまり、あなたが好きだったのは『若いミーナ』であって、ミーナ・ヴェルダンという人間ではなかったということです」


「……そうかもしれない」


 アルベルトはひどく疲れた声で言った。


「フィルは、いい子だ。明るくて、素直で、悪い子ではない。でも……話が合わない。彼女は魔法書を読んだことがない。補給の話をしても、わからない。戦争中に何があったかを語ると、怖がる。私が十二年間考え続けてきたことを、共有できない」


「それはフィル様の問題ではないと思いますよ」


「わかっている。私が若さを選んだのだから」


「そうです。自分で選んだことです。その結果の責任は、自分で負ってください」


 短く、静かに言った。


 アルベルトは少し顔を上げた。


「ミーナ、もう一度だけ……」


「アルベルト様」


 ミーナは穏やかに、しかし明確に言った。


「私は、これからやっと、自分の人生を生きます。やっと始まったところです。あなたの後悔に付き合う時間は、もうありません」


 白い薔薇の傍を通り、ミーナは歩いていった。


 振り返らなかった。


 泣かなかった。


 胸が痛かったかと言えば、少し痛かった。十二年分の記憶があるから。でも、涙は出なかった。


 それが、ミーナにとっての決別だった。


 怒鳴ることも、責め立てることも、惨めな姿を見せることもしなかった。


 ただ自分の言葉で、自分の気持ちを言い、去った。


 それで、十分だった。




 翌朝、レオナルドが来た。


 珍しく少し緊張した顔をしていた。いつもの無口な男らしさはあったが、どこか落ち着きがなかった。


「話があります」


「どうぞ」


 応接間で向かい合った。


 レオナルドはしばらく黙っていた。茶に手もつけなかった。


「……昨日、あなたがガルシア公爵嫡男と会ったと聞きました」


「はい。父から話があったので」


「どうでしたか?」


「きちんとお断りできました。後悔はありません」


 レオナルドは少し目を細めた。


「よかった」


「よかった?」


「……私が言うことではないかもしれませんが、あなたにあの男は合わないと思っていました。最初から」


 ミーナは少し笑った。珍しく、自然に笑えた気がした。この一ヶ月で一番、自然な笑いだった。


「辺境伯は、随分率直ですね」


「そう言われます」


 少しの沈黙があった。


「一つ、聞いてもいいですか」とレオナルドが言った。


「何でしょう」


「あなたは今、自分に価値があると思いますか?」


 ミーナはその問いを受け止めた。


 一ヶ月前なら、答えられなかった。三十歳で婚約破棄されたばかりの自分には、その問いに向き合う余裕がなかった。でも今は。


「……正直なところ、まだよくわかりません」


「そうですか」


「でも、以前よりは。少しは、わかってきた気がします」


「どんなところが?」


 ミーナはゆっくり言葉を探した。


「十二年間、地道に続けてきたことがあった。負傷兵の支援も、補給管理も、孤児院の仕事も、誰かに見られていなくても、評価されなくても、やり続けた。それが私の、外側の評価に頼らない部分だと思います」


「……そうですね」


「魔法の力があることも、最近気づきました。でも、それだけではなくて。力があるから価値があるのではなくて、続けてきたという事実が、今の私の土台になっているような気がします」


「いい言葉ですね」


「あなたに言われた言葉を、ずっと考えていました。続けることが、何より難しいと」


「覚えていましたか」


「最初にお会いした日に言っていただいたことです。あの日の言葉は、ずっと残っています」


 レオナルドはしばらく黙っていた。


 窓の外で風が吹いた。庭の葉が揺れた。


「ミーナ・ヴェルダン」


「はい」


「一つ、申し上げてもよいですか」


「どうぞ」


「私はこの一ヶ月、あなたと話すことが、楽しかった」


 ミーナは黙って聞いた。


「魔法のことも。本のことも。北方の話も。孤児院の話も。あなたは話を聞いてくれる。考えてくれる。意見を言ってくれる。私の話を、退屈そうにしない」


「……私こそ、楽しかったです」


「それで」


 レオナルドは少し大きく息を吸った。


「私と、もう少し話し続けてもらえないですか。もっと近い形で」


 ミーナは彼を見た。


 灰色の目が、こちらをまっすぐに見ていた。その目に、品定めはなかった。値踏みもなかった。ただ、真っ直ぐに、ミーナを見ていた。


「近い形とは」


「辺境伯の妻として、というのは。早すぎますか」


 ミーナは少し笑った。


「早すぎます」


「そうですか」


「でも」


 ミーナは続けた。


「もう少し話し続けること自体は、やぶさかではありません」


 レオナルドの目が、少し柔らかくなった。眉の角度が少し変わった。それだけだったが、ミーナにはそれが笑顔に見えた。


「では、そうしましょう」


「はい」


 短い沈黙があった。穏やかな、温かい沈黙だった。


「一つだけ、聞いてもいいですか?」ミーナが言った。


「何でしょう」


「あなたは、私のどこに興味を持ったのですか。最初に」


 レオナルドはすぐに答えた。


「最初に会った日、婚約破棄されたばかりだと後で知りました。でもその日のあなたは、普通に話していた。泣いていなかった。でも、無理に強がっているわけでも、なかった」


「……そうでしたか」


「それが気になりました。どんな人なのかと」


「弱いだけですよ。泣けなかっただけで」


「それでいいんです」


 レオナルドは静かに、しかしきっぱりと言った。


「弱いのに続けている人のことを、私は信頼します。強いから続けているのではなく、弱いのに続けている。それが本物だと思うから」


 ミーナはそれを聞いて、目を伏せた。


 目頭が熱くなった。


 一ヶ月間、ずっと泣かなかった。強がっていた。でも今、この言葉を聞いて、初めて泣きたくなった。


 泣かなかった。


 でも、今ならもう少し後で、一人で泣いてもいいかもしれない、と思った。


 それは悲しみの涙ではなく、何か別のものだと思った。


 長い間、ずっと堪えてきた何かが、ようやく緩み始めた感覚だった。





 その後、半年が経った。


 王国の春。


 ヴェルダン家の庭に、白い薔薇が咲いていた。


 誰かが手入れをしていた。ミーナが知らない間に、庭師が丁寧に世話をしてくれていたらしい。枝が整えられ、肥料が与えられ、春に備えて準備されていた。


 ミーナは毎朝、庭を歩くようになっていた。


 古代魔法の研究が進んでいた。老研究員と共に、三十歳以降に魔力が覚醒した事例を文献で調べていた。王国の歴史書から、外国の文献から、口伝の記録から、少しずつ事例が集まってきた。


 歴史の中に埋もれていた事実が、少しずつ掘り起こされていった。


 三十歳以降の魔力覚醒は、珍しいことではなかった。ただ、それが語られなくなっていただけだった。忘れられていただけだった。


 社交界での評判も変わっていた。


「ヴェルダン公爵令嬢は古代魔法の使い手で、研究者でもある」


「知性と魔力を兼ね備えた、得難い人物だ」


「婚約破棄されたのに、見事だわ」


 そういう声が聞こえるようになった。


 でも、ミーナはもう、評判をあまり気にしなくなっていた。


 いい評判も、悪い評判も、所詮は他人の声だ。


 自分の根っこは、もっと別のところにある。



 アルベルトとフィルは、静かに婚約を続けていた。


 ミーナはその後、彼らとはほとんど接触しなかった。噂によると、アルベルトはあまり楽しそうではないという。フィルは若くて明るい子で、悪い子ではないが、アルベルトが本当に求めていたものとは少し違っていたらしい。


 でも、それはもうミーナには関係のないことだった。


 本当に関係なかった。


 後悔もなかった。罰を望む気持ちもなかった。


 ただ、自業自得だと、それだけ思った。静かに、穏やかに。



 秋の終わり、レオナルドが正式な申し込みをしてきた。


 今度は婚約の申し込みだった。


 ミーナは即答しなかった。


 一日考えた。


 何を考えたかというと、自分が何者かを、もう一度整理した。


 三十一歳。婚約破棄を経験した。古代魔法の使い手。魔法研究の協力者。孤児院の支援者。補給管理の実務経験者。続けることができる人間。


 そして。


 レオナルドと話すことが好きな、一人の女性。


 彼の話を聞いていると、自分が少し広くなる気がする。彼の考え方は、ミーナとは違う場所から来ていることが多い。でも、聞けばわかる。聞いた上で、自分の意見を言える。


 そういう関係は、ミーナが十二年間求めていたものと、少し違った。


 でも、もしかしたら、これが本物なのかもしれない。


 翌日、ミーナはレオナルドに答えを告げた。


「一つ、条件があります」


「なんでしょう」


「私は婚約後も、研究を続けます。辺境伯夫人として体裁を整えることだけが私の役割にはなりません」


「当然です」とレオナルドは言った。「研究は続けてほしい。あなたの知識は、辺境でも役立てます」


「それから、もし私が何かに躓いたら、率直に言ってください。遠回しな優しさは要りません」


「わかりました。それは私も同じことをお願いしたい」


「はい、お互いに」


 ミーナは少し笑った。


「最後に」


「まだありますか」とレオナルドが少し笑った。珍しく、笑った。


「あなたは、私のどこを見て申し込んでくださっていますか」


 レオナルドは少し考えた。真剣に考えた。


「あなた自身を、です」


「若さでも、魔力でも、家柄でも、なく?」


「それらも、あなたの一部です。でも、私が一緒にいたいのは、そういうラベルではなく、ミーナ・ヴェルダンという人間です。話の合う、信頼できる、敬意を持てる人です」


 ミーナはそれを聞いて、長い間を置いた。


 胸の奥で、何かが静かに解けていく感覚があった。


 それは温かいものだった。


「……はい」


 静かに答えた。


「よろしくお願いします」


 二人は少しの間、向かい合っていた。


 ミーナは思った。


 これが、婚約というものの、本当の形なのかもしれない。


 十二年前、アルベルトとの婚約は、形から入った。公爵家同士の格に合う縁談。若く美しい令嬢と、跡継ぎとなる嫡男。社交界が喜ぶ取り合わせだった。


 でも今回は違う。


 話してきた。議論してきた。互いの考え方を見てきた。その先で、一緒にいたいと思った。


 それが、本物の始まりではないかと思った。


 白い薔薇の前に立った。


 かつて、アルベルトが「君の名前みたいだ」と言って植えた花。


 でも今は、それとは関係なく、ただきれいだった。


 秋の空気の中で、白く咲いていた。


 枯れ花と呼ぶ者もいるかもしれない。三十一歳の令嬢を、枯れ薔薇と呼ぶ者もいるかもしれない。


 でも花は、今ここで咲いている。


 若さで咲いているのではなく。


 時間をかけて根を張ったことで、咲いている。


 ミーナはひとつの花びらに触れた。


 柔らかかった。冷たかった。でも生きていた。


(枯れ薔薇、か)


 ミーナは苦笑いをした。


 そう呼ばれることを、かつては恐れていた。三十歳になる前から、怖かった。若さが失われていくことが怖かった。


 でも今は。


 枯れ薔薇でいい、と思った。


 枯れても咲く薔薇があってもいい。


 いや、枯れていない。これはまだ、咲いている。これからも咲く。


 若さとは別の形で、別の理由で、咲き続ける。


 ミーナは薔薇の根元を見た。


 土に深く埋まった根。見えない部分。誰も気にかけない部分。でも、この花を支えているのはそこだ。


 自分も、そうなのかもしれない。


 社交界に見える部分より、見えない部分に、本当のものがある。


 十二年間の仕事。誰に褒められたわけでもない日々。それが根っこだ。


 ミーナは手のひらをそっと薔薇の傍に寄せた。


 指先がほんのりと暖かかった。


 琥珀色の光が、指の間でかすかに輝いた。


 自分の力だ。


 誰かに与えられたものでもなく、年齢で決まるものでも、婚約で決まるものでも、なかった。


 三十年をかけて、自分の中に育ってきたものだ。


(ようやく、始まったのかもしれない)


 ミーナは思った。


 この先、何があるかはわからない。婚約が上手くいくかもしれないし、研究でつまずくかもしれない。また何かで傷つくかもしれない。


 でも。


 自分の価値を、他人の目に委ねることは、もうしない。


 若さでも、魔力でも、誰かの恋人であることでも、なく。


 ただ、自分自身でいること。


 続けてきたこと、続けていくこと。


 それが、ミーナの答えだった。


 白い薔薇は、静かに風に揺れていた。


 夕暮れの空に、最初の星が光り始めた。


 三十一歳の春が、もうすぐ来る。


 その春に、ミーナはどんな顔をして立っているだろう。


 笑っていると思う。


 泣いているかもしれない。


 でも、立っていると思う。


 それだけは、わかった。





 翌年の春。


 王立魔法研究院から、一つの研究成果が発表された。


「古代魔法の覚醒条件と、三十歳以降の魔力発現に関する新知見」


 王国の歴史において、ここ数百年で初めての、古代魔法に関する本格的な研究成果だった。


 著者の一人として、ミーナ・ヴェルダンの名前が載っていた。


 研究成果は、思った以上に反響を呼んだ。


 婚約や縁談が決まらずにいた三十代の女性たちから、問い合わせが来た。「自分も計測を受けてみたい」という声だった。老研究員のもとには、同世代の女性たちが続々と訪れた。


 全員が古代魔力を持っていたわけではない。でも、中にはミーナと同様に覚醒しかけていた人もいた。


 一人の女性が、ミーナに言った。


「私、ずっと自分は枯れていると思っていました。でも違ったのですね」


 ミーナはその言葉を聞いて、胸が痛くなった。


 自分が一年前に感じていたことと、同じだったから。


「枯れてなんかいません」とミーナは言った。「根が、深くなっていただけです」


 その女性は少し泣いた。


 ミーナも、少し泣きそうになった。



 同じ頃、社交界では新しい噂が流れ始めた。


「ヴェルダン公爵令嬢が辺境伯と婚約した」


「カーゼル辺境伯夫人は、魔法研究者でもあるらしい」


「婚約破棄から一年で、随分変わったわね」


「いいえ、変わったのではないでしょう。ずっとそういう人だったのよ。みんなが気づかなかっただけ」


「三十歳を過ぎてから輝く人もいるのね」


 評判は以前とは少し違っていた。


 若さへの称賛ではなく、積み重ねへの評価だった。


 ミーナはその噂を聞いても、特に嬉しいとも感じなかった。


 他人の評判は、もうあまり関係なかった。


 ただ、ひとつだけ嬉しかったことがある。


 孤児院の子どもが、ミーナに言ったことだ。


「ミーナ様、最近いい顔してる」


 子どもの言葉は、社交界の褒め言葉より正直だ。


 ミーナはその時、自分でも少し驚いた。


 いい顔。


 いい顔になったのかもしれない。若さとは別の、何かが滲み出る顔に。



 春の日差しの中、ミーナは研究院の廊下を歩いていた。


 老研究員が奥から手を振っている。レオナルドが待っているという使いが来た。孤児院から手紙も届いていた。書物の注文もしなければならない。


 忙しい。


 でも、悪くなかった。


 むしろ、今がいちばん、生きている感じがした。


 廊下の窓から、春の空が見えた。


 深くて、広くて、青かった。


 その青に向かって、白い鳥が一羽、飛んでいった。


 ミーナは一度、立ち止まった。


 三十一歳の春。


 ここから始まる。


 本物の人生が、ここから始まっていく。


――おしまい――


最後まで読んでくださって、ありがとうございます。


この物語を書いたのは、年を重ねるごとにずっと感じていた、小さな違和感からでした。


若い頃は気づかなかったのに、少しずつ世間の目が変わっていく感覚。自分は何も変わっていないのに、なぜか値踏みされるような空気。「若い女性」として特別視されていたのが、いつの間にかそうではなくなっていく。


でも、ふと思ったんです。


それって、本当に「失っている」のだろうか、と。


若さを失うのではなく、もしかしたら、余分なものが削ぎ落とされていくだけなのかもしれない。年を重ねるからこそ根が深くなって、世間の目なんかより、ずっと深いところに自分の軸が育っていく。


綺麗じゃなくなっていくのではなく、別の種類の美しさになっていくのかもしれない。


自分の価値を、他人に決めさせなくていい。

世間の常識に、預けなくていい。

自分の価値は、自分で決めていい。


そんな思いを、ミーナに込めました。


この物語に共感してくださった方、心が動いた方などいらっしゃいましたら、

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今日もあなたの1日が、幸せで満たされたものでありますように。

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そりゃ公爵家の跡取り息子の嫁が初産もすんでない30歳じゃ困るでしょ・・・というのは大前提として、公爵家の嫡男が12年も戦争に行ってたの??それなのに国内は舞踏会を開けるほど安定してる??? どんな国な…
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