“お幸せに”から始まるご褒美
真田社長はそんな彼女をスルーして、貴史の元へと足を運ぶ。
彼の前まで来ると、顔を近づけて耳元で何かをボソボソと周りに聞こえないくらいの小さな声で呟いた後、ポンポンとテンポよく彼の肩を軽く叩き。
「お幸せに。」
その一言だけ残して、社長は去った。
休憩室には、静寂だけが残った。
その静けさをけ破ったのは。
「こんな……、こんなはずじゃあ……。」
絶望だと言わんばかりの表情で頭を抱え込み、その場にへたり込む畠中。
「え?それどういうこと?」
事態が呑み込めない貴史。
そんな彼を無視して畠中は。
「私はただ、あの図々しい年増女の悔しがる姿が、絶望する顔が見たかっただけなのに~!!」
突然。
大声でわめきだした。
「え? 恵美が好きなのは、俺だろう?」
「はあ~? ばっかじゃないの?」
と言う会話があったかと思うと。
二人はその場で醜い喧嘩を始めた。
休憩室から聞こえる、二人の罵りあう声。
皆、何事もなかったかのように、それぞれの仕事場に戻っていく。
倉橋だけは、力なくがっくりと肩を落とし、その背には哀愁が漂っていた。
目じりには、光るものが見えたとか見えなかったとか。
そんな彼をまるで存在しないと言わんばかりに、スルーしていく他の社員。
幸奈曰く、少なくとも彼はもう会社関係での恋愛は絶望的なのだそうだ。
それくらい、女性陣から見ての倉橋の評価は、急降下なのだとか。
みんなと同じタイミングで休憩室を後にした幸奈は、私にこの状況を知らせなくてはと、心当たりの場所を探して来てくれた。
……そして、今に至る。
「へえ~私も見たかったな~、その茶番!」
幸奈の話を聞きながら飲んでいたキャラメルマキアートは、もうほとんど残っていない。
「この一部始終はたぶん、野田川さんがスマホ録画していたと思うから、あとで見せてもらえばいいよ~。」
なんと、証拠映像まで残っているのだとか。
いい世の中になったものである。
「え?野田川さんが?」
「うん。大学時代、畠中に彼氏寝取られたことがあるんだってさ。」
そっかあ。
こんな身近に、私以外にも彼女に彼氏取られた人、いたんだね。
「多分今も、あの二人の醜い喧嘩模様をじっくりと録画していると思うよ。」
無口無表情で、ただひたすらスマホを向けて録画をし続ける野田川さんの姿は、とても怖かったのだそう。
そんな事をしてしまうほどに、別れた元カレのことが好きだったのかな?
それとも……。
彼女も私と同じように、大勢の人の前で恥をかかされたのかもしれない。
畠中さんは、やたら自分の方が若くてかわいいから男性にモテて当然と、マウントを取ってくるような人だったから。
「野田川さんとは明日にでもゆっくりと、ご飯でも食べながらお話しようかな。」
彼氏と別れてから今まで、いろんな思いで苦しかったのかもしれない。
そうでなければ、あんな醜態をずっとスマホ録画なんて、普通は出来ないもの。
「今日はひとまず、そっとしてあげておいた方がいいかもね?」
「あとで励ましのLineでも送ろっと!」
明日になれば、いつも通りの落ち着いた彼女に戻っていることを心に願った。
彼女はまじめで仕事も出来るからきっと、気持ちを切り替えて会社に来てくれると信じている。
「同じ目に合った女同士、話せばきっと分かり合えると思うのよね?私達。」
「そうと決まれば、どこのお店にお誘いしようかな?」
なんて話しながら、廊下を歩いていたその時。
「君たちは、優しいね。」
突然、背後から男性の声が聞こえた。
聞き覚えのあるその声に、私と幸奈は同時にビクン! と肩を跳ね上がらせる。
「ああすまない。怖がらせてしまったかな?」
「真田社長、お疲れ様です。」
「お疲れ様です、真田社長、どうしてここに?」
深々と頭を下げて挨拶をした。
「ああ。松風君を探していたんだ。」
「え? 私……ですか?」
もしかしてさっきの件で何か?
と、思わず身構えてしまった。
「ああ。あんな見込みのない男と別れられた記念に――。」
真田社長は、軽く笑った。
「お祝いに、僕と食事でもどうかな?」
突然の思ってもいなかったお誘いに、一気に緊張感が解けていく。
「え?」
この状況って……。
「ええ。ぜひそうしてあげてください。既にご存じだとは思いますがこの子、ついさっきフリーになったばかりなんですよ~!」
何かを察した幸奈は、素早く私の耳元で。
「明日、素敵な報告を待っているね~。」
それだけ耳打ちすると、真田社長に軽く会釈をして、その場を足早に去っていった。
突然の、元カレとは比べ物にならないハイスペックな男性からのお誘いに。
“これは夢なのか――?”
しばし呆けていると。
「彼にはちゃんと、“松風君と別れてくれてありがとう。畠中君まで引き取ってくれるとは――君は意外と優秀だったんだね”って、お礼は直接伝えてあるからね?」
私へ軽くウインクをしながら、大きくて形の綺麗に整ったその手を差し伸べてくる。
その声はとても爽やかで素敵な上に、なんだか楽しくて仕方がないといった感じである。
「はい、喜んで!」
私は迷わず、社長の手を取った。
捨てられた私にも、まだ幸せをつかむ未来がある。
そう思えた瞬間――
彼の手は、驚くほど温かかった。
外では、夜風がそっと頬を撫でる。
――明日が、少しだけ楽しみになった。
 




