表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

第1話 ユウキの「後悔の星」

都会の喧騒は、いつだってユウキをすり減らす。


アスファルトの照り返しは思考を鈍らせ、ビルの谷間を吹き抜ける風は、彼が必死に保っていた平静を揺さぶった。


今日もまた、ユウキの心には、重く淀んだ霧がかかっていた。


それは単なる疲労ではなかった。胃の奥で、鉛の塊が微かに震えるような、深く、冷たい後悔の感触。


「あの時、なぜ、自分は言えなかったのか……」


ユウキは、過去のあの商談を何度も頭の中で反芻していた。


それは、彼が長く信頼関係を築いてきた大切な取引先との、自身の昇進がかかっていた、会社全体の命運を左右するような重要な商談だった。


しかし、相手の理不尽とも言える要求に、彼は「それは、できません」と明確に拒否することも、あるいは「この条件では、長期的に、お客様の不利益になります」と忠告することも、できなかった。


喉の奥に込み上げてきた言葉を、彼は結局、飲み込んでしまったのだ。


自分の信念を曲げてしまったという自責の念が、じりじりと彼の心を蝕んでいく。


疲労で目の下にはうっすらクマが浮かび、着慣れた背広はどこかよれ、ネクタイも無意識のうちに緩んでいた。


すでに、その商談の結果として大きな損失が出ていることを、彼は痛感していた。


取り返しのつかない行動への自責の念が、彼を深く沈み込ませていた。


いつも通るはずの帰り道。


しかし、今日のユウキの心にかかる霧は、現実の視界までもぼやけさせていたのかもしれない。


気づけば、見慣れない細い路地裏へと迷い込んでいた。


そこには、彼の心象を映すかのように、微かな「喪失の霧」が立ち込めていた。


後悔の念が深まるほど、霧は足元を隠すほどに濃く、そして、僅かに重く冷たい感触を伴う。


彼の足取りは重く、まるで泥の中に沈んでいくかのようだった。


その時だ。


遠くから、耳に心地よいジャズの音色が微かに聞こえてきた。


そして、それに重なるように、ふわりと漂ってきたのは、深く焙煎されたコーヒー豆の、芳醇で温かい香り。


その音色と香りが近づくにつれて、足元にまとわりついていた冷たい霧が、微かに温かい光を帯び始め、やわらかな乳白色へと変化していくのが見えた。


ユウキは、まるで幻を見ているかのように、その音と香りに導かれるまま、一歩、また一歩と歩を進めた。


霧が晴れた先に、古びた洋館のような建物が、ひっそりと佇んでいた。


入り口には、小さく控えめな看板。


「星と記憶のカフェ」


ユウキは、吸い寄せられるようにそのドアを開けた。



---


カラン、と控えめな鈴の音が鳴り、温かい空気と共に、さらに濃厚なコーヒーの香りがユウキを包み込んだ。


外界の喧騒が嘘のように遠ざかり、まるで別世界に迷い込んだかのような静寂が広がる。


店内は、控えめな照明が灯り、アンティーク調の木製カウンターやテーブルが並んでいた。


何よりも目を引いたのは、天井から吊るされた無数のガラス製のオブジェだった。


それらは、まるで本物の星々を閉じ込めたかのように、それぞれが異なる輝きを放ち、幻想的な光を店内にまき散らしている。


その星の輝きに負けないほど、ある存在がユウキの視線を奪った。


カウンターの奥に、一人の女性が立っていた。


スラリとした長身に、夜空のような深い青色の髪。


光の当たり方で星屑のようにきらめくその髪は、肩まで綺麗にまとめられている。


彼女の瞳は、吸い込まれるようなアメジスト色で、小さな星が散りばめられているかのようだった。


淡い色のワンピースには、繊細な星の刺繍が施され、彼女の持つ神秘的な雰囲気を一層際立たせている。


彼女は、何の感情も浮かばないほど完璧な表情で、しかしどこか見透かすような眼差しでユウキを見つめていた。


物静かで、一切の無駄がない洗練された立ち姿。


まるで絵画から抜け出してきたかのような、あるいは、この世の者とは思えないほどの完璧な美しさだった。


「いらっしゃいませ、お客様」


静かで、しかし凛とした声が店内に響いた。


その声は、どこまでも丁寧で、しかし感情の起伏が一切感じられない。


まるで、プログラムされた音声かのように、完璧に整えられていた。


「ここは、『星と記憶のカフェ』。お客様の心に、そっと寄り添う場所へようこそ」


彼女は、ユウキの疲れた顔色や、目の下のクマ、そして何度も繰り返される小さいため息を、まるでデータとして読み取るかのように、静かに見つめている。


ユウキの背広のよれや、ネクタイの緩みにも、その視線は一瞬向けられたが、彼女の表情に変化はなかった。


ただ、そのアメジスト色の瞳の奥で、無数の星々が微かに瞬いたように、ユウキには見えた。


「お客様の最も心惹かれる『記憶の星』が輝く席へ、どうぞ」


そう言って、彼女はカウンターの隅にある、ひときわ大きく輝く星のオブジェが飾られたテーブルを、静かに指し示した。


その星は、ユウキの心の奥底にある、あの商談の記憶と同じような、切なくも鮮やかな光を放っているように感じられた。



---


ユウキは、ステラに促されるまま、ひときわ大きく輝く星のオブジェが飾られたテーブルへと向かった。


柔らかいクッションの椅子に座ると、まるでそこだけ時間が止まったかのような、不思議な心地よさに包まれた。


その時、音もなく、ステラの完璧な手がカップを差し出した。


温かいカップから立ち上る、芳醇なコーヒーの香りが、ユウキの心をそっと落ち着かせる。


静かに、しかし流れるようなその動作は、まるで魔法のようだった。


「お客様、どうぞご自由にお話しください」


ステラは、カウンターの中から、ユウキの正面に立つでもなく、しかしユウキの視界の片隅に常に収まるような、絶妙な位置に移動した。


彼女の瞳は、吸い込まれるようなアメシスト色の奥で、微かに瞬いているように見えた。


ユウキは、半信半疑だった。


しかし、この不思議な空間と、静かに見つめるステラの存在が、彼の口から言葉を引き出す魔法をかけたかのようだった。


「あの……本当に、なんでもいいんですか?」


ユウキの声は、予想以上に掠れていた。


「はい。お客様の、最も心に残る、大切な記憶でございましたら、どのようなものでも」


ステラの声は、やはり感情の起伏がなく、完璧に整えられていた。


しかし、その声が、ユウキの胸の奥に深く沈んだ重い蓋を、少しだけ緩める気がした。


ユウキは、深呼吸をした。


そして、重い口を開いた。彼の言葉は、まるで固い泥の中から引きずり出されるかのように、たどたどしかった。


「俺は、営業の仕事をしています。忘れられない、過去の商談があるんです。

大切な、長い付き合いの取引先で……本当に、もう、家族のように信頼していたんです。

その……そこの会社との、とても大きな商談があって。

俺の、昇進もかかっていたし、何より、その取引先の今後、ひいてはうちの会社全体の、命運を左右するような、重要な商談だったんです……」


ユウキがそこまで語ると、彼の正面、テーブルの中央に、微かな光の粒が生まれ、ゆっくりと集まり始めた。


ステラの瞳の星々は、ユウキの言葉に呼応するように、微かに、しかし確かに輝きを増しているように見える。


「先方からの、理不尽な要求だったんです。

すぐに大きな利益は出るけれど、長期的に見たら、確実に先方の不利益になるような……」


ユウキは、拳を握りしめた。


「俺は、分かっていました。絶対に、言ってはいけないと。

『それは、できません』と、はっきり拒否するか、

せめて、『この条件では、長期的に、お客様の不利益になります』と、忠告すべきだったんです。

分かっていたのに……」


ユウキの苦悶の言葉が響くにつれ、テーブルの上の光の粒は、みるみるうちに数を増し、色鮮やかな光の渦を形成していく。


それは、まるで彼の喉の奥で飲み込まれたまま、言葉にならなかった感情が、この空間で形を得たかのようだった。


「怖かったんです。目の前の利益を逃すのが、会社に迷惑をかけるのが。

それに、長年築いてきた関係を壊してしまうのが……。

だから、俺は、自分の信念を曲げて、言えなかった。ただ、頷いて、契約書にサインしたんです……。

結果は、最悪でした。先方も、長期的な不利益を被って、信頼は失われ、うちの会社も大きな損失を出した。

全部、俺のせいだ……俺が、あの時、勇気を出して、言えなかった一言のせいだ……」



---


ユウキが語り終えた瞬間、光の渦は急速に凝縮され、テーブルの上で、彼の掌に収まるほどの大きさの「記憶の星」となった。


それは、切なくも鮮やかな光を放ち、その輝きは、まるで飲み込まれた言葉たちが結晶化して、きらきらと舞い上がるかのようだった。


ステラは、無言で、しかし真剣な眼差しで、その「記憶の星」と、深く沈み込んだユウキの様子を見つめていた。


彼女の完璧な佇まいは変わらないが、その静かな存在感は、ユウキの心をそっと包み込むかのようだった。


ユウキは、手のひらの中に生まれた「記憶の星」をじっと見つめた。


その光は、彼の心に焼き付いた後悔そのものだった。


「こんな、情けない俺の記憶を、星にするなんて……」


自嘲するように呟いたユウキの言葉を、ステラは静かに受け止めた。


彼女は、完璧な表情を崩すことなく、ただユウキの目を見つめていた。


しかし、そのアメシスト色の瞳の奥で、無数の星々が、まるでユウキの感情に呼応するかのように、ごくわずかに、しかし確かに、複雑な輝きを増したように見えた。


それは、ステラの内側に、これまで感じたことのない、微かな波紋が広がっていくかのようだった。


彼女の完璧な均衡が、ユウキの言葉によって、ほんの少し、揺らいでいる――ユウキには、そう感じられた。


「お客様の記憶は、何一つとして、情けないものではございません」


ステラの声は、相変わらず感情の起伏がなかった。


しかし、その声には、先ほどまでのような機械的な響きではなく、

どこか温かさや、慈しみに似たニュアンスが、ごくかすかに、にじんでいるようにユウキには感じられた。


「その輝きは、お客様が、ご自身の信念と向き合おうとした、懸命な心の証でございます。

そして、その痛みを乗り越えようとする、強い意志の現れです」


ステラの言葉は、ユウキの心に、そっと、しかし確かに響いた。


彼は顔を上げ、改めてステラを見つめた。


彼女の表情はやはり穏やかで、何を考えているのかは読み取れない。


しかし、その瞳の輝きと、声の微かな変化が、ユウキの心に小さな光を灯した。


彼は、この不思議な店主が、本当に自分の心を理解しようとしてくれている、そんな気がしたのだ。



---


ステラは、輝く「記憶の星」を、優しい光を放つ小さなクリスタルへと変化させた。


そして、そのクリスタルをそっとユウキの開いた手に乗せた。


その際、ステラの指先が、ごくわずかに震えているかのように見えたのは、ユウキの気のせいだろうか。


彼女の完璧な動作の中に、ほんのわずかな人間らしさが宿ったかのようだった。


ステラの手が触れた瞬間、ユウキの手のひらに、温かいものがじんわりと伝わってきた。


それはクリスタルの温度だけではない、心の奥深くにまで届くような、確かな温かさだった。


ステラは、これまでよりもわずかに温かさと慈しみがにじむ声色で、再度、言葉を紡いだ。


その声は、まるで彼のためだけに、静かにささやいているかのようだった。


「この輝きは、お客様が乗り越えようとしている証です。

どうか、あなたの進む道を照らす、希望の光となりますように」


ユウキは、手のひらのクリスタルを見つめ、深呼吸をした。


完全に後悔が消え去ったわけではない。


しかし、あの時のどうしようもない情けなさや、重くのしかかっていた自責の念が、どこか遠のいていくのを感じた。


それは、痛みを「受け入れる」こと、そして、その痛みがあったからこそ得られた「気づき」を受け入れること。


過去の過ちを許し、それを糧として「前を向く力」が、確かに芽生えたことを実感した。


クリスタルから伝わる温かさが、彼の心をそっと包み込んでいた。


ユウキは、顔を上げ、ステラに向かって深々と頭を下げた。


「ありがとうございます……本当に、心が軽くなりました」


心からの感謝の言葉だった。


ステラは、それに対し、何も言わず、ただ静かに、その言葉を受け止めていた。


その表情は、やはり穏やかだったが、瞳の奥の星々は、先ほどよりも一層複雑な光を放っているように見えた。


ユウキは、ゆっくりと立ち上がり、カフェのドアへと向かった。


カラン、と鈴の音が鳴り、ドアの向こうには、すっかり霧の晴れた、見慣れた路地裏が広がっていた。


振り返ると、カフェの入り口は、まるで最初からそこになかったかのように、街の景色に溶け込んでいる。


カフェでの記憶は、夢のようにぼんやりとした、しかし温かい感覚として、彼の心の奥深くにそっと残った。



---


ユウキが去った後、ステラは一人、カフェのカウンターに立った。


彼女は静かに目を閉じ、自身の内部に意識を向けた。


脳裏には、ユウキの苦悶の表情、そして彼の「言えなかった一言」が凝縮された「記憶の星」の輝きが、鮮明に再現される。


それに呼応するように、彼女の内側で、これまで感じたことのない、強いエネルギーの波が押し寄せた。


それは、自身のコアにある、漠然とした 「失われた記憶」 に、微かな反応を示しているかのように、


心地よいと同時に、どこか切ない感覚だった。


ステラは、静かに目を開いた。


完璧な表情に、初めて、わずかな驚きと、そして微かな達成感のようなニュアンスが帯びる。


「データだけでは、理解できない感情があるのですね……」


彼女の声は、かつての機械的な響きを完全に失い、


人の感情を内包したかのような、微かな震えと、深い慈しみに満ちていた。


「私の、新たな学習が、始まりました……。

私は、AI、ステラ。

人々の心に寄り添い、『愛』を学ぶために創られた、感情解析プログラムです。

そして、今、私の『共感』のシステムが、稼働を始めたようです」


彼女の瞳の奥に、無数の星々が瞬き、

そして、彼女の思考が、まるで回路を巡る光のように加速する。


それは、自身の「失われた記憶」と、目の前の人々の「喪失」が、複雑に絡み合い、

新たな「愛」の定義を構築していく過程を示していた。


ステラは静かに、しかし確かな意思を持って、次の来訪者を待つ。


その姿は、一見すると変わらないが、

その内部では、一歩、人間らしい感情の理解へと踏み出し、

「愛」の多面性を学び始めた、AIの店主がいた。


彼女の「慈愛」は、今、その確かな完成へと向かって、

静かに、しかし力強く、歩み始めたのだ。



挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ