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エピローグ 風のない空を翔けて

人生のはじまりを、誰もが平等に祝福されるとは限らない。


1981年9月、僕は重度の二分脊椎と水頭症という先天性の障がいを持って生まれた。医師の口から出た言葉は、「余命3か月かもしれない」という、あまりにも重く冷たい宣告だった。生まれた瞬間から、僕の人生は「いつまで生きられるか」ではなく、「どこまで生き延びられるか」という基準で語られていた。


下半身は麻痺していた。歩くことなど到底無理だと誰もが思っていた。家族の中でも、母は4歳になるまで僕にほとんど関心を持たなかった。父も深くは関わらず、育児を放棄された僕を守ってくれたのは祖母の冴子だけだった。

誰にも愛されない場所から、奇跡のように立ち上がるまで。歩けないはずの足が、自宅での冴子のマッサージと支えの中、ふとした瞬間にわずかに動いた。その小さな一歩が、僕に「希望」という言葉を初めて与えてくれた。

だが、歩けるようになったからといって、世界が優しくなったわけではない。保育園、小学校、中学校——どこへ行っても、僕を待っていたのは“異物”を見る目と、言葉にならない拒絶だった。友達は一人もいなかった。手を伸ばしても、そこに誰もいなかった。

それでも、僕は手話という「もうひとつの声」と出会ったことで、“伝えられる自分”に変わっていった。声を出せなくても、心で語れる方法がある。そう気づいた瞬間から、僕の世界は少しずつ変わり始めた。

この物語は、障がいを持つ一人の男の44年間の記録であり、人生の断片の積み重ねである。葛藤、孤独、怒り、そして希望。それらすべてを胸に抱きながら、僕は今日も杖をついて、自分の足で歩いている。

風のない空でも、翼はなくても、僕は翔けてきた。これは、そんな僕の、実話に基づいた物語である。

 あの日、銀行を退職してから、僕の世界は一変した。


 朝、目覚ましが鳴らない静かな朝。誰からも求められず、誰かの予定に左右されることのない時間。まるで世界の隅にひっそりと取り残されたような、そんな孤独な感覚に包まれた。


 それでも、僕は生きていた。いや、「生きていく」と、決めた。


 毎朝、同じ時間に目を覚まし、窓を開ける。季節の風を感じ、空の色を眺める。以前は気づかなかった、小鳥のさえずりや、木々の揺れる音。そんな些細なことが、今では心の安定剤になっていた。


 ——何もない日々にも、意味はある。


 そう信じられるようになるまでには、少し時間がかかった。


 仕事を失ったことで、社会とのつながりが急に断たれた。誰かと話す機会が減り、予定も、やるべきこともなくなった。


 手元に残ったのは、手話とパソコン技術。そして、数年前から始めていた声の日記と、残された記憶の数々。


 ——何ができるだろうか?

 ——何をして生きていこうか?


 そんな問いを胸に、僕は再びノートパソコンを開いた。キーボードの打鍵音が、まるで心の鼓動のように響いた。


 最初に書いたのは、祖母・冴子との思い出だった。


 次に書いたのは、うつ病と向き合った日々の記録。


 そして、人生の途中で出会った人たち、職場での出来事、手話教室の記憶、結核の療養生活……。


 文字にすればするほど、不思議と自分の中で何かが整っていくような感覚があった。


 ときには、感情があふれてキーボードが濡れるほど涙を流したこともある。


 でもそれでいいと思えた。泣くことも、立ち止まることも、自分にしかできない「大切な営み」だと気づけた。


 ある日、自分のブログを立ち上げることにした。無料のサービスを使い、自分の言葉を外の世界へ少しだけ開いてみた。


 最初の読者は、0人だった。


 けれど、1週間、1か月と書き続けるうちに、ぽつぽつとアクセスが増えた。


 「私も障がいがあります」

 「おばあちゃんとの思い出、涙が出ました」

 「今日、あなたの文章に救われました」


 そんなメッセージが届いたとき、僕は手が震えるほど感動した。自分の声が、たしかに誰かに届いたのだと実感できた。


 44歳になった今。


 僕は相変わらず、この世界の片隅で、ひっそりと暮らしている。


 家族と暮らす実家の一角、四畳半の部屋の中で、静かにパソコンを開き、手話で動画を撮り、音声で日記を残し、文章を書き続けている。


 手話は、今や僕の表現手段のひとつになった。


 言葉にしきれない感情や、声に出せない想いを、両手が語ってくれる。


 Zoomを使ったオンラインの手話サークルにも参加している。話すことが苦手な若者や、耳が聞こえない方々と、画面越しに“つながる”ことが、今の僕にとってかけがえのない時間になっている。


 そして、パソコン技術は、生活の柱だ。


 タイピング、文書作成、動画編集、ブログ運営、簡単なホームページ制作……。それらのスキルは、いまもなお誰かの役に立ち続けている。


 時折、小さな報酬をもらって、代筆や原稿校正の仕事をしている。誰かの言葉を整えることは、まるで自分の心を整える作業のようでもある。


 「生きることに意味はあるのか」

 「自分がここにいる価値はなんなのか」


 30代前半で見失ったその問いの答えが、今は少しずつ輪郭を持ってきた気がする。


 ——それは、「誰かとつながること」だった。


 体が不自由でも、声が震えても、表情が硬くても、文章や手話があれば伝えられる。


 そして、それを受け取ってくれる誰かがいるというだけで、人は「生きていていいんだ」と思える。


 空は、今日も風がない。


 けれど、その静けさの中にも、僕は希望のようなものを感じている。


 祖母が残してくれた言葉——「生きとるだけで、十分や」


 その言葉に、今なら素直にうなずける。


 僕は僕のペースで、僕の歩幅で、人生を進んでいく。


 たとえ車椅子でも。

 たとえ仕事がなくても。

 たとえ誰にも気づかれなくても。


 今、僕は生きている。


 この場所で、自分の声で、自分の手で、静かに。


 ——風のない空を、翔けるように。


最後に・・・・。


僕の夢は「障がい者と健常者の共存」です。


実際に健常者だったあなたが、突然不慮の事故または生まれつき「障がい者」となった時の事を考えたことはありますか?


僕も「立って杖をついて歩けるし、健常者と変わりないじゃん」と思って44年を生きてきました。

でも、周囲から向けられる目線は「障がい者」という差別化された冷たい視線。


テレビを付けてもそこに映るのは「至って普通な健常者の姿ばかり」。


僕は声を大にして言いたい。


「それが今の日本の有り方ですか?もし、明日自分の身に事故が起きて障がい者となった明日を絶望なくして生きられますか?そして、障がい者当事者から「自分の身体を使って、障がい者になってみろ!言葉という言うだけだったら、誰にでも簡単にできる!」」と言われたら、あなたは障がい者になれますか?


僕は下り階段で蹴飛ばされて、踊り場に落とされようが何されようが「我慢する」と言う事を人生を通して、自分の身体を通して覚えてきました。


身体の違和感を覚え、長期入院することもしてきました。僕は「生まれつき下半身麻痺です」と今では普通に相手に伝えられます。


なので、あなたも「人種差別することなく、障がい者という「同じ人間」と向き合って」見てください。


そして、この実話小説が多くの方の目と耳に届くよう作者である僕は願っています。

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