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第七章 30代になり突然訪れた祖母からの置き土産

人生のはじまりを、誰もが平等に祝福されるとは限らない。


1981年9月、僕は重度の二分脊椎と水頭症という先天性の障がいを持って生まれた。医師の口から出た言葉は、「余命3か月かもしれない」という、あまりにも重く冷たい宣告だった。生まれた瞬間から、僕の人生は「いつまで生きられるか」ではなく、「どこまで生き延びられるか」という基準で語られていた。


下半身は麻痺していた。歩くことなど到底無理だと誰もが思っていた。家族の中でも、母は4歳になるまで僕にほとんど関心を持たなかった。父も深くは関わらず、育児を放棄された僕を守ってくれたのは祖母の冴子だけだった。

誰にも愛されない場所から、奇跡のように立ち上がるまで。歩けないはずの足が、自宅での冴子のマッサージと支えの中、ふとした瞬間にわずかに動いた。その小さな一歩が、僕に「希望」という言葉を初めて与えてくれた。

だが、歩けるようになったからといって、世界が優しくなったわけではない。保育園、小学校、中学校——どこへ行っても、僕を待っていたのは“異物”を見る目と、言葉にならない拒絶だった。友達は一人もいなかった。手を伸ばしても、そこに誰もいなかった。

それでも、僕は手話という「もうひとつの声」と出会ったことで、“伝えられる自分”に変わっていった。声を出せなくても、心で語れる方法がある。そう気づいた瞬間から、僕の世界は少しずつ変わり始めた。

この物語は、障がいを持つ一人の男の44年間の記録であり、人生の断片の積み重ねである。葛藤、孤独、怒り、そして希望。それらすべてを胸に抱きながら、僕は今日も杖をついて、自分の足で歩いている。

風のない空でも、翼はなくても、僕は翔けてきた。これは、そんな僕の、実話に基づいた物語である。

◆1.思わぬ病魔の置き土産


 その手紙から一ヶ月ほど経った頃だった。祖母の死によってひと段落したかに見えた日々の中、僕に思いがけない連絡が入った。


 それは一本の電話だった。非通知表示、知らない番号。少し警戒しつつも通話ボタンを押すと、落ち着いた女性の声が耳に飛び込んできた。


 「佐藤直樹さんですね。こちら○○市保健所です」


 保健所? 一瞬、心当たりが浮かばなかった。しかし、続く言葉で全てがつながった。


 「実は、おばあ様——冴子さんの死因について、改めてご報告しなければならないことがあります」


 その言葉の先には、予想もしていなかった現実があった。


 「詳しい検査の結果、冴子様の死因は、進行性のすい臓がんと診断されていましたが、それとは別に、感染性の肺結核も確認されました。ご家族の中に濃厚接触者がいらっしゃる可能性があるため、検査と経過観察のためにご連絡差し上げています」


 ——結核。


 遠い昔の病だと思っていた。


 けれど、僕の祖母が、そして僕自身が、その感染経路にいた。病気の情報を丁寧に説明する保健所職員の声を、僕は上の空で聞いていた。心の奥に、じわじわと冷たいものが広がっていく。


 数日後、指定された病院での精密検査を受けた結果、医師からはこう伝えられた。


 「直樹さん、ごく初期の結核が認められます。症状は出ていないようですが、早期に対応すれば問題ありません。すぐに治療を開始しましょう」


 幸いなことに、発見は本当に初期の段階だった。入院の必要もなく、服薬による治療で済むという。


 それでも、「結核」という言葉の持つ重さは、心のどこかに影を落とした。


 ——冴子さん。


 僕は、あの人の最期をずっとそばで看取った。そのことに一片の後悔もなかった。むしろ、最期の時間を共に過ごせたことを、僕は誇りにすら感じていた。


 けれど、その愛情の深さゆえに、思わぬかたちで“置き土産”をもらうことになったのだ。


 薬の副作用に少し悩まされながらも、僕は通院を続け、生活リズムを維持しながら仕事にも通い続けた。自分自身の体の小さな異変にも敏感になり、日々の健康のありがたさを実感するようになった。


 祖母の死、そして自らの病——


 それは、決して悲しみだけで語れる出来事ではなかった。命の重み、愛情の深さ、そして生きるということの意味。


 静かな朝に届いた手紙と、保健所からの電話。その二つの知らせは、30代になった僕にとって、人生を見つめ直す大きな転機となったのだった。


◆2.封筒の中の通帳とメモ


 便箋とともに封筒に入っていたもう一つの小封筒。それを手に取ると、薄く柔らかい感触の中に、確かな重みがあった。


 そっと封を開けると、中から一冊の銀行通帳と、手のひらに収まるほどの小さなメモが出てきた。


 通帳の表紙には、地方銀行のロゴ。そして、名義には祖母の名前ではなく、僕の名前——「佐藤直樹」——が印字されていた。


 信じられない思いで中を開くと、数年間にわたって定期的に入金された記録が並んでいた。月に数千円、時には数万円ずつ。通帳の最後の記録には、かなりの額が積み重なっていた。


 それは決して大金ではない。だが、明らかに意図的に、コツコツと積み上げられてきたお金だった。


 小さなメモには、淡いインクで、こんな文字が記されていた。


 『もしものときに困らないように、少しずつですが貯めておきました。

  病院のこと、生活のこと、あなたが自由に使えるように。

  お金は道具です。あなたの未来を少しでも照らせますように。


  ——冴子』


 その文字は、震えるような筆跡だった。病床で書いたのだろうか。それとも、もう動けなくなった身体で、最後の力を振り絞ったのだろうか。


 何度も手帳を開き、メモを読み返した。


 涙が止まらなかった。


 金額ではない。その意味、その想いの深さに、ただただ打ちのめされた。


 祖母は、最期の最期まで僕の人生を案じてくれていたのだ。


 「……ありがとう、冴子さん」


 その一言を、声に出してつぶやいた。


 いつの間にか、空はすっかり晴れていた。春の光が窓から差し込み、通帳の紙面に柔らかく反射していた。


 僕はその通帳を、何よりも大切なものとして、仏壇の前にそっと供えた。


 それは、祖母からの、もう一つの“遺言”だった。


◆3.通帳の記録に残された日付


 通帳のページを一つひとつめくっていくと、そこには年月日がきっちりと記されていた。最初の入金は、今からおよそ十年前。僕が20歳を迎えた直後の春だった。


当時、僕は大学へは行かずに二十歳過ぎで銀行員に就職した。学費も生活費も家族の


支援でまかなっており、一人暮らしではなく、ずっと実家で家族と共に暮らしていた。


それでも、障害を抱えた身体での日々は決して容易ではなく、ただ目の前のことに向き合うだけで精一杯だった。


そんな頃から、祖母は静かに、お金を積み立ててくれていたのだ。


 通帳に記された入金日を見ていると、いくつかの記録がやけに印象的な日付と重なっていた。


就職が決まった直後の週。入金額は多くなくても、そこに込められた「おめでとう」「がんばってね」の気持ちは、数字以上に深く胸に染みた。


 そして、祖母が倒れたとされる日からは、入金が止まっていた。


 その日付——前年の夏。


 記録は、そこでぴたりと止まっていた。


 まるで、祖母の時間と重なるようにして、通帳の記録も静かにその役目を終えたのだった。


 記録の最後に残された金額は、約七十万円。


 決して大金ではない。でも、祖母がどれほどの想いでこれを積み立ててきたのか、その過程を思うと、手にしている紙切れがまるで命の結晶のように感じられた。


 メモの裏面には、走り書きのように一言だけ、こんな言葉もあった。


 『つらくなったら、この通帳を見て。あなたはひとりじゃない』


 祖母の優しさ、そして祈りのような想いが、ページの間から溢れ出すようだった。


 僕は、通帳の記録を改めて丁寧にノートに書き写しながら、その一日一日に込められた想いを噛みしめた。


 祖母の愛は、記憶の中だけでなく、こうして確かな“記録”としても、僕に残されたのだった。


◆4.大切なものを引き継ぐ意味


 祖母・冴子が遺してくれた通帳とメモ、それは単なる金銭的な援助ではなかった。それ以上に、彼女の人生と想いが詰まった「引き継ぎ」だったと、僕は次第に気づいていった。


 通帳の記録を何度も読み返し、メモに記された言葉を反芻するたびに、そこには祖母の哲学や価値観が、静かに、しかし確かに流れていた。「つらくなったら、この通帳を見て。あなたはひとりじゃない」——その一文は、まるで彼女自身がいつでも僕のそばにいることを示す証のようだった。


 冴子は、物心ついたときから、僕の一番の味方であり続けてくれた。母の育児放棄、家庭の不安定さ、父の苦悩。その中で、祖母だけは変わらずに、毎日をともに過ごし、僕の成長を見守ってくれた人だった。


 彼女は豪快な性格でも、饒舌な人でもなかった。でも、背中で語る人だった。口数は少なくとも、やるべきことを黙々とこなし、他人の悪口を言うことなく、ただ自分の信じる道を歩んでいた。


 そんな祖母が、何年もかけて少しずつ貯めてくれたお金。それを今、僕は手にしている。そこに込められた想いを、軽く扱ってはいけないと思った。


 通帳を仏壇の前に供えた日から、僕の中に一つの決意が芽生えていた。


 ——何か、自分にできる形で、この想いを次へとつなげたい。


 もちろん、それは簡単なことではなかった。僕は障害を抱えており、身体的な制約も多い。日常生活でできることにも限りがあるし、経済的にも潤沢ではない。それでも、何かしらの「行動」によって、祖母の気持ちを引き継ぎ、未来へと形にしていきたい。そう思ったのだ。


 その手始めとして、僕は通帳に書かれた金額をもとに、家計簿を新しくつけ始めた。目的は、祖母からの贈り物をどのように使っていくか、明確に記録し、それを「生きた証」として残すことだった。


 そして、使う際には必ず自分に問いかける。


 ——これは本当に、冴子さんの想いに応える使い方か?


 そうしていく中で、僕はあることに気づき始めた。


 「受け継ぐ」というのは、何も物理的な所有だけではない。思想や価値観、暮らしの姿勢、他者への思いやり——それらを自分の行動の中に取り込んでいくことこそが、本当の「継承」ではないか、と。


 僕が祖母からもらったものは、通帳に記された金額だけでなく、「生き方」そのものだった。


 例えば——


 人知れず誰かのために祈ること。

 困っている人にそっと手を差し伸べること。

 誠実であること。

 愚痴をこぼさず、笑って前を向くこと。


 それらは、冴子が日常の中で見せていた姿であり、僕が最も身近で学んできたことだった。


 「この人のように生きたい」と思わせてくれる存在がいること——それ自体が、人生の大きな財産だと気づかされた。


 数か月後、僕は祖母の名前を冠した通帳をもう一冊作ることにした。新しい名義は「未来口座」とした。これは、今後の自分の人生の中で出会う誰かのために、少しずつでも貯めていくお金にしたいと思ったのだ。


 「困っている人がいたら、いつかこれを使おう」

 「僕と同じような障害を持つ子どもたちのために、何かをしたい」


 そうした小さな想いの種を、通帳という形に託していく。


 それは決して目立つ活動でもなければ、誰かから賞賛されるようなことでもない。でも、冴子がしてくれたことと同じように、「静かに、確かに」誰かの人生に寄り添う力になるかもしれない。


 やがて、僕は祖母の遺影に向かってこうつぶやいた。


 「冴子さん、僕なりに、やってみるよ」


 すると、不思議なことに、遺影の中の祖母が少し微笑んでいるように見えた。


 引き継ぐとは、思い出すこと。生き様を心に刻むこと。そして、自分の行動で応えていくこと。


 祖母から受け取ったバトンを、僕は今、自分の手にしっかりと握っている。


 それは、決して途切れない優しさのリレーだった。


◆5.祖母との記憶の中へ


 春の陽射しがやわらかく差し込む午後、仏壇の前に座った僕は、静かに目を閉じた。


 祖母・冴子の手紙と通帳を受け取ってから、数日が過ぎていた。目まぐるしく動いた心がようやく落ち着きを取り戻し、僕は祖母との時間をゆっくりと思い返す余裕を持てるようになっていた。


 思い出すのは、ありふれた日々ばかりだ。特別な出来事よりも、むしろ何気ない日常の断片が鮮明だった。


 たとえば、台所でお味噌汁の味見をしている祖母の横顔。朝、僕が目を覚ますと、すでに新聞を読みながらお茶をすすっていた姿。テレビのニュースを見ながら「こんな世の中になって……」と小さくつぶやいたその声。


 祖母と僕の関係は、言葉にすれば「家族」の一言に尽きるのかもしれない。でもその実態は、もっと深く、もっと複雑で、そして何より温かかった。


 僕が障がいを持って生まれ、母が家を去り、父が苦悩の中で暮らしていたあの幼い日々。祖母の存在は、僕にとって安らぎの象徴だった。誰にも言えない気持ちを、言葉にせずとも察してくれるような、そんな人だった。


 「泣きたいときは泣いたらええよ」


 そう言ってくれたのも祖母だった。小さな体を震わせながら泣いていた僕を、ただ黙って抱きしめてくれた。


 食事の準備、着替え、車椅子の介助……当たり前のようにしてくれたすべてのことが、今になってどれほど大きな愛だったのか、ようやく気づける年齢になっていた。


 ある日の記憶が、ひときわ鮮やかに思い出された。


 まだ僕が小学生の頃。夏休みのある日、近所の公園に連れて行ってくれた祖母は、僕の車椅子を押しながら、ゆっくりと歩いてくれた。蝉の声が降り注ぎ、空は真っ青だった。


 「ナオキ、あんたは世界で一番、特別な子やで」


 そう言って、祖母は笑った。その笑顔は、今もはっきりと胸の中にある。


 ——あの言葉があったから、僕は折れなかった。


 学校での差別、社会の偏見、そして自分自身への苛立ちや不安。何度も心が砕けそうになったけれど、そのたびに祖母の声が、姿が、僕を支えてくれた。


 目の前の仏壇には、祖母の写真が飾られていた。柔らかな笑顔、品のある服装、そして少し背筋を伸ばしたその姿は、まるで今にも語りかけてくれそうだった。


 「ナオキ、ちゃんとご飯食べとるか? 無理しすぎとらんか?」


 そんな声が、今もどこかで響いているようだった。


 祖母の記憶は、僕の体の中に息づいている。行動の端々、言葉の選び方、他人への接し方……気づけば僕は、どこかで祖母の生き方をなぞっているのかもしれなかった。


 自分が祖母にしてもらったように、今度は自分が誰かに何かを与える番なのだと思った。


 祖母との日々は、もう過去にはない。けれど、その記憶の中にこそ、これから生きていくための確かな指針がある。


 ——祖母はもういない。でも、祖母との記憶は、これからの僕をずっと照らし続けてくれる。


 そう確信できたとき、僕は静かに手を合わせた。


 「冴子さん、ありがとう。……また会える日まで」


 窓の外では、春の風がやさしくカーテンを揺らしていた。


◆6.受け継いだ“意志”としての挑戦


 春の終わりが近づいたある朝、僕はいつものように車椅子を押して、家の前の坂道をゆっくりと下っていた。


 通帳と手紙を受け取ってからの日々は、どこか胸の奥に火が灯ったような、不思議な熱を抱えていた。祖母・冴子が遺した想い。それは単なる金銭的な支援でも、家族としての温もりの証明でもない。あの通帳に詰まっていたのは、何より「意志」だった。


 ——この子は、生き抜く。自分の人生を、自分で選び、歩む子になる。


 祖母が信じてくれていたその姿に、僕自身がようやく近づこうとしている気がした。


 その日から、僕は自分の人生の軸を再確認し、もう一度「挑戦すること」を選び直す決意を固めた。


 社会に出て十年近く、僕は銀行員として与えられた仕事を無難にこなしてきた。障がいを理由に甘えることはせず、けれど無理をして倒れることもせず、慎重にバランスを保ちながらやってきた。評価も悪くなかったし、人間関係にも恵まれていた。


 けれど、どこかで「守り」に入っていた自分がいた。


 新しい業務に手を挙げることもなければ、自分の経験を活かして何かを変えようとすることもなかった。やがて、それが居心地の良さと引き換えに、自分自身を狭く閉じ込めていたことに気づいた。


 「ナオキ、あんたは世界で一番、特別な子やで」


 祖母のあの言葉を胸に、僕は思い切って異動願いを出した。


 より対人関係が密で、企画や発信力を求められる部署。障がいを理由に敬遠されがちなポジションだった。でも僕は、通帳に刻まれた祖母の努力と時間を無駄にしたくなかった。


 ——人は、誰かの意志を受け継いで生きていける。


 これは、僕自身の挑戦であり、祖母の“生き直し”でもあったのだ。


 新しい部署では、初日から課題が山積していた。業務内容の複雑さはもちろん、周囲のメンバーも遠慮と不安を隠しきれずにいた。


 けれど僕は、真っ先に自分の障がいのことを話した。


 「僕は足が不自由です。でも、頭と心はちゃんと動きます。皆さんと同じように働きたいと思っています」


 その率直な言葉が、少しずつ職場の空気を変えていった。


 会議では積極的にアイデアを出し、時には無理を押して現地視察にも参加した。周囲は次第に、僕を“特別扱い”することをやめ、ひとりの仲間として扱ってくれるようになった。


 ある日、後輩がぽつりと漏らした。


 「ナオキさんがいると、自分の小さな悩みがどうでもよく思えるんです。なんか、頑張ろうって思えるんですよ」


 それを聞いた瞬間、胸が熱くなった。僕はようやく、誰かに何かを「与える側」に立てたのかもしれない。


 祖母が遺した意志——それは、「受けた愛情を、次の誰かへと渡していくこと」。


 それが、僕にできる最大の挑戦だった。


 職場だけではない。地域の障がい児支援の会にも参加し始めた。自分の経験が、少しでも親御さんたちの不安や孤独を軽くするならと思ったからだ。


 僕は特別な人間ではない。ただ、誰かの特別であったという記憶が、今の僕を動かしている。


 冴子さん。


 あなたの言葉と想いは、ちゃんと僕の中で生きています。


 僕は、あなたの意志を継いで、今日も進んでいます。


 そしてこの挑戦が、また誰かにとっての「小さな灯」になることを、心から願っています。


◆7.30代という節目に見えた“未来”


 32歳の冬。僕は人生で初めて、自分がどこに向かっているのかまったく見えなくなった。


 銀行での仕事は順調だった。障がいを持ちながらも、実績を重ね、周囲からの評価も高かった。家族とも円満に過ごし、地元での活動も充実していた。世間から見れば、恵まれた「成功者」に見えたかもしれない。


 けれど、僕の胸の奥には、説明できない空虚感が静かに広がっていた。


 何をやっても満たされない。心から笑えない。誰かと会話していても、まるでそこに自分がいないようだった。毎朝、目を覚ますたびに「今日をどうやってやり過ごせばいいか」と考えるようになっていた。


 最初は疲れのせいだと思った。過密なスケジュールや責任の重さが、心を蝕んでいるのだと。でも、休みを取っても、気分転換をしても、空虚は消えなかった。


 ある日、ふと気づくと、窓の外をぼんやりと見つめながら、涙が頬を伝っていた。


 理由がわからなかった。


 身体のどこにも痛みはない。誰かに傷つけられたわけでもない。それなのに、どうしようもない哀しみが心を支配していた。


 「これは、もう自分だけではどうにもできない」


 そう感じた僕は、意を決して心療内科を訪れた。


 診察室は静かで、医師は穏やかだった。僕の話を否定も遮りもせず、ただ丁寧に聞いてくれた。


 30分ほど話した後、医師は静かに言った。


 「うつ病ですね。典型的な症状が出ています」


 その言葉に、驚きと共に、どこかで「やっぱり」と納得する自分もいた。


 ——うつ病。


 世間ではよく聞く言葉だったけれど、それが自分に降りかかるとは思ってもいなかった。


 医師の勧めで、僕はしばらく仕事を休むことにした。


 何もしない日々が始まった。


 家で静かに過ごし、少しずつ日記をつけるようにした。朝起きて何を感じたか、食事は美味しかったか、外の空気はどんな匂いがしたか——そんな些細な記録が、かすかに自分を繋ぎとめてくれた。


 うつ病の苦しさは、「自分が自分でなくなる」ことにあった。


 心が不安定になり、感情がコントロールできず、過去の記憶に何度も苛まれた。自分が無力に思えて、何もかも投げ出したくなった。


 けれど、そんな中でも、祖母・冴子の言葉が何度も脳裏に浮かんだ。


 「ナオキ、泣きたいときは泣いたらええ。無理せんでええんやで」


 その声に何度も救われた。


 やがて、少しずつ体調は落ち着き、心にわずかな隙間が生まれるようになった。


 その隙間に、誰かの言葉や風景が、そっと入り込むようになった。


 近所の子どもたちの笑い声、通勤途中に見た空の色、スーパーで見かけた老夫婦の会話。


 そんな些細なものに、かすかな感動を覚え始めた自分がいた。


 完治までは長い道のりだったが、僕はその過程で初めて「心を休ませる」ことの大切さを知った。


 働くこと、誰かの役に立つこと、評価されること——それらも確かに大切だけれど、それよりもまず、「生きていること」を大切にすること。


 それが、このうつ病という経験が僕に教えてくれた最も大きな気づきだった。


 人生には、止まっていい時期がある。頑張らない勇気もまた、立派な「選択」なのだ。


 僕は今も時折、あの日々を振り返る。そして、あの頃の自分にこう語りかける。


 ——ありがとう。よく、あの暗闇を越えてくれたね。


 そして、もう一度だけ前を向けるようになった今、僕は胸を張って言える。


 「生きていて、よかった」と。


◆8.静かな夜に灯る光


 34歳になった今も、「うつ病」は僕の中で静かに息をしていた。


 回復と悪化を繰り返しながら、ゆるやかに続いていた通院と服薬。それは、まるで心の天気予報のように、晴れと曇りと雨とを行ったり来たりする日々だった。


 32歳で診断されたうつ病は、一時期に比べればかなり落ち着いた。けれど、それでも「完治した」と胸を張って言える状態ではなかった。朝起きて、何もできずに布団の中で1時間ただ天井を見つめる日もあれば、ふとした瞬間に涙がこぼれることもあった。


 そして、心の問題に追い打ちをかけるように、身体にも変化が訪れた。


 ——左足が、言うことを聞かなくなってきたのだ。


 生まれつきの下半身麻痺。これまでは両腕の力と車椅子、杖を使って何とかこなしてきた仕事や日常生活。それが、ある日を境に少しずつ困難になっていった。


 最初は立ち上がる時に強い痛みを感じるようになり、やがて足に力が入らなくなった。朝の出勤準備すら、以前の倍の時間がかかるようになっていた。


 僕は14年間勤めていた銀行に、ついに退職の意向を伝えることになった。


 それは簡単な決断ではなかった。


 仕事を通して、多くの人に出会い、学び、何より祖母の「意志」を受け継ぐように働いてきた日々。


 ——でも、もう限界だった。


 周囲のサポートもあった。上司も同僚も「できる限りの配慮をするから、続けてほしい」と言ってくれた。でも、自分自身が自分を信じ切れなくなっていた。働き続けることが、誰かに迷惑をかけることになってしまうのではないか。そんな恐怖が、心を締めつけていた。


 退職を決めた日の夜。僕はひとりで近所の公園に向かった。車椅子を押しながら、静まり返った夜の空気の中で、自分に問いかけ続けた。


 ——これで、よかったのか?

 ——俺は、逃げたのか?


 木々の間からこぼれる街灯の光が、やけに優しく見えた。


 そこで思い出したのは、祖母・冴子が昔よく言っていた言葉だった。


 「ナオキ、自分を責めたらあかん。生きとるだけで、十分や」


 僕は、ゆっくりと深呼吸をした。


 そうだ。

 働けなくなったからといって、僕の価値が消えるわけじゃない。

 僕は、僕としてここにいる。


 うつ病と、身体の限界と、仕事を手放したこと。それらは確かに「喪失」だった。でも同時に、僕に新しい問いと、静かな夜に灯る光をくれた。


 ——これから、何ができるのか。

 ——どうすれば、また誰かの心に寄り添えるのか。


 退職後の生活は、想像以上に不安定だった。毎日が空白のようで、社会から取り残されたような孤独感に苛まれることもあった。


 けれどある時、ふとした思いつきで始めた「声の日記」が、僕の心を少しずつ変えていった。


 スマートフォンの録音アプリに、自分の思いや感情を音声で残していく。


 ——今日は天気がよかった。

 ——足が痛かったけど、買い物に行けた。

 ——スーパーのレジの店員さんが、笑顔で話しかけてくれた。


 そんな日々の断片が、自分を取り戻す小さな“光”になっていった。


 記録を続ける中で、自分の中にまだ希望や好奇心が残っていることに気づいた。風の匂いに気づいた時、誰かの優しさに触れた時、その感覚を誰かと分かち合いたいと思った。


 僕は、再び「書くこと」に向き合おうと決めた。


 もともと文章を書くのは好きだった。だけど、社会人になってからはそんな時間すら削られていた。


 今なら、できるかもしれない。


 自分の言葉で、自分の経験を、誰かに伝えられるかもしれない。


 失ったものばかりを数えていた日々の中で、ようやく「得ること」に目を向けられた瞬間だった。


 静かな夜に灯る一筋の光。


 それは、過去の自分が懸命に生きた証を、未来の誰かへ手渡すための「準備」だったのかもしれない。


 そして、僕の新たな挑戦が、またここから始まろうとしていた。


◆9.手話とパソコン、そして僕の今


 仕事を退職してからも、僕の手元に残ったものがあった。


 それは「手話」と「パソコン技術」——。


 肩書きも、毎日の通勤も、職場での役割も、何もかもが生活からすっぽりと消えたのに、そのふたつだけは、まるで心の深い井戸の底に沈めた大切な石のように、僕の中にずっと残り続けていた。


 銀行を退職してからの最初の一年は、ほとんど人と会わない生活だった。朝、目が覚めると天井を見つめたまま1時間が過ぎることもあったし、ベッドから出る理由が見つからない日もあった。うつ病の波は、相変わらず寄せては引いてを繰り返していた。


 けれど、そんな日々のなかでも、手話の映像教材だけは観続けていた。画面の中で表情豊かに手を動かす講師の姿は、まるで静かなダンスのように見えた。


 「手話って、美しいな」


 そう思った瞬間、自分の指が自然と動いていた。


 指文字から始まり、日常会話、感情の表現……何度も何度も繰り返した。まるで、何かを取り戻すように。


 パソコンも同じだった。ネット回線を通じて、離れた場所にいる人たちと文書をやり取りしたり、動画編集を学んだり。職場では決まったフォーマットの事務処理が中心だったけれど、今は違う。自分のペースで、自分の興味のある技術を、自分のやり方で深めていける。


 気づけば、HTMLやCSSの基本を学び、簡単なウェブページが作れるようになっていた。これも、銀行員時代に身につけた「タイピングの速さ」と「ミスの少なさ」が活かされていた。


 ——“誰かのため”ではなく、“自分のため”に時間を使えるって、こんなに贅沢なんだ。


 それは、退職して初めて知った感覚だった。


 とはいえ、社会から離れる不安は常にあった。


 年齢を重ねるごとに、世間とのつながりは薄れていくように思えたし、「もう働けないのでは」という不安もあった。収入は障害年金とわずかな貯金。生活は決して豊かではなかった。


 だけど、ふと考えた。


 ——「自分にできることって、なんだろう?」


 手話ができる。

 パソコンが使える。

 文章が書ける。


 それだけでも、十分じゃないか。


 そして僕は、少しずつ「発信」を始めることにした。最初は匿名のブログだった。うつ病と向き合う日々、障がいとともに生きる日常、祖母との記憶、そして小さな希望。誰かに読まれることを前提にしない、けれどどこかで誰かの心に届くかもしれない言葉たち。


 投稿を続けていくうちに、時々コメントがつくようになった。


 「似たような境遇です。勇気づけられました」

 「あなたの文章に救われました」


 そんな反応があるだけで、心がふっと温かくなった。


 誰にも見られていないような気がしていた僕の存在が、誰かの人生の小さな支えになることもあるんだ。そう思えたとき、僕はほんの少し、また前に進む力をもらえた気がした。


 さらに、ある日、障がい者向けのオンライン手話サークルに参加する機会を得た。参加者はさまざまな事情を持つ人たち。聴覚障がいのある人もいれば、僕のように健聴者だけど手話が好きで学び続けている人もいた。


 「ナオキさん、表現力が豊かですね」

 「銀行で働いていたなんてすごいですね」


 画面越しに交わされる温かい言葉は、どこか昔の祖母の声を思い出させた。


 ——見てくれている人は、ちゃんといる。


 そして、僕は思った。


 「いつか、この経験を物語にしたい」と。


 それが、こうして文章を書いている今の僕につながっている。


 気づけば、44歳になっていた。


 世間的には中年と言われる年齢。けれど、僕にとってはまだまだ人生の途中だ。


 手話も、パソコンも、これまでに積み重ねてきた全てが、今の僕を形づくっている。そしてこの先、どんな形であれ、誰かとつながっていける手段があるということが、なによりの「生きる意味」になっている。


 社会の片隅で、静かに生きている——。


 それは、決して恥ずかしいことでも、寂しいことでもない。


 むしろ、僕にとっては誇らしいことだった。


 祖母が残してくれた愛情、銀行での14年間の経験、そして手話とパソコン技術。それらすべてが僕の「宝物」であり、未来へ続く道しるべだった。


 今はまだ、その道の途中。


 でもきっと、誰かの隣で寄り添える言葉を紡ぎ続ける限り、僕の人生は「終わり」ではなく「続き」の中にあるのだと思う。


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