第6章 社会へ——新たな扉を開くとき
人生のはじまりを、誰もが平等に祝福されるとは限らない。
1981年9月、僕は重度の二分脊椎と水頭症という先天性の障がいを持って生まれた。医師の口から出た言葉は、「余命3か月かもしれない」という、あまりにも重く冷たい宣告だった。生まれた瞬間から、僕の人生は「いつまで生きられるか」ではなく、「どこまで生き延びられるか」という基準で語られていた。
下半身は麻痺していた。歩くことなど到底無理だと誰もが思っていた。家族の中でも、母は4歳になるまで僕にほとんど関心を持たなかった。父も深くは関わらず、育児を放棄された僕を守ってくれたのは祖母の冴子だけだった。
誰にも愛されない場所から、奇跡のように立ち上がるまで。歩けないはずの足が、自宅での冴子のマッサージと支えの中、ふとした瞬間にわずかに動いた。その小さな一歩が、僕に「希望」という言葉を初めて与えてくれた。
だが、歩けるようになったからといって、世界が優しくなったわけではない。保育園、小学校、中学校——どこへ行っても、僕を待っていたのは“異物”を見る目と、言葉にならない拒絶だった。友達は一人もいなかった。手を伸ばしても、そこに誰もいなかった。
それでも、僕は手話という「もうひとつの声」と出会ったことで、“伝えられる自分”に変わっていった。声を出せなくても、心で語れる方法がある。そう気づいた瞬間から、僕の世界は少しずつ変わり始めた。
この物語は、障がいを持つ一人の男の44年間の記録であり、人生の断片の積み重ねである。葛藤、孤独、怒り、そして希望。それらすべてを胸に抱きながら、僕は今日も杖をついて、自分の足で歩いている。
風のない空でも、翼はなくても、僕は翔けてきた。これは、そんな僕の、実話に基づいた物語である。
◆1.19歳の決意
特別支援学校を卒業してからの春、直樹はこれまでの生活とはまったく異なる道を歩き始めた。彼が選んだのは、パソコンの技術を本格的に学ぶための進路――それは、市が運営する職業訓練施設での生活だった。
「このままやと、できる仕事が限られてしまう。でも、パソコンやったら、家でも働けるし、将来の選択肢が広がると思うんや」
卒業式から数週間後、直樹は冴子と剛にそう話していた。真剣な眼差しで語る息子に、父・剛は黙って頷いた。冴子は少し寂しげな表情を浮かべたが、直樹の背を優しく押した。
こうして19歳の春、直樹は自宅を離れ、訓練施設に入所した。そこは障がいを持つ若者たちが、一定期間住み込みで職業技術を習得する場だった。パソコンコースは人気があり、タイピングからソフトウェアの操作、文書作成、簡単なプログラミングまで、幅広く学ぶカリキュラムが組まれていた。
初めての集団生活。ルールも時間割もきちんと決まっていて、朝は6時半に起床し、7時に朝食。8時から訓練開始、夕方には自習時間。その後に風呂や自由時間、21時には就寝。すべてが規則正しい。
直樹は驚くほど早く環境に順応した。杖をついての生活ではあったが、自分で洗濯し、掃除をし、食堂へ通い、誰よりも熱心に講義に耳を傾けた。
「最初は、パソコンの電源すら迷ったけど、今ではブラインドタッチもだいぶ慣れてきた」
2か月目、直樹はノートにそう記していた。彼の手帳には、毎日の課題、学んだ用語、つまずいたポイントがびっしりとメモされていた。
そして、パソコンの訓練に集中しながらも、手話の技術を忘れることはなかった。夕食後の自由時間、直樹は居室でイヤホンをつけて音楽を流し、その歌詞を手話に置き換えて練習をしていた。
「これだけは、俺の武器やからな」
誰にも見せない場所での努力。それは、彼自身の誇りだった。
施設の中で仲間もできた。車椅子で生活している青年、聴覚に障がいのある同室の友人、視覚障がいを持ちながらも努力を重ねる先輩。それぞれが、それぞれの目標に向かって懸命だった。
時に、直樹は彼らの前で手話を披露することもあった。
「直樹くんの手話、わかりやすいね。うちの妹、耳が不自由やから、教えてあげたい」
そんな声を聞くたびに、直樹の胸には温かな灯がともった。
2年半の訓練生活は、決して平坦ではなかった。夏の暑さも、冬の寒さも、身体にこたえた。病院に行く日もあったし、ホームシックで涙する夜もあった。
それでも、直樹は最後まで通い抜いた。21歳の春、修了証を手にした日、彼は誰よりも強く、その紙を胸に抱きしめた。
「これでやっと、スタート地点に立てた気がする」
パソコンの知識、手話の表現力、そして人とのつながり。全てを胸に、直樹は次の扉へと歩を進めようとしていた。
19歳の決意は、確かな成長の証として、彼の人生の新たな章を切り拓いていた。
◆2.初めての挑戦――運転免許
パソコン技術の訓練施設での生活が落ち着き始めたある日、直樹の心に新たな火が灯った。
「車の免許、取りたい」
その言葉を冴子に伝えたのは、入所から半年ほど経った頃だった。
「えっ、あんた……ほんまに大丈夫なん?」
杖を使っての歩行、そして下半身の麻痺。普通の運転が難しいことは、本人もよく分かっていた。だが、直樹は既に市の福祉課に問い合わせ、障がい者専用の運転訓練車両が用意されている自動車学校の存在を調べていた。
「専用車あるねん。手でアクセルもブレーキもできるし、講習も対応してるらしい」
冴子は黙ったまま、しばらく湯呑みを撫でていた。やがて、静かに言った。
「……ほんまに行きたいんやったら、やってみ。あんたの決意、もう何回も見てきたしな」
こうして、直樹の「運転免許」という新たな挑戦が始まった。
自動車学校まではバスと電車を乗り継ぎ、1時間半の道のり。朝は訓練施設を早く出て、自動車学校で講習を受け、午後には施設に戻ってパソコンの授業を受けるという過密なスケジュールとなった。
初めての教習車。教官が横に座り、特別仕様の車に乗り込んだ直樹は、少し緊張した表情でハンドルを握った。アクセルもブレーキも、右手にあるレバーで操作できるようになっていた。
「ここを手前に引いたらアクセル。奥に倒すとブレーキな」
教官の説明に頷き、エンジンをかける。最初は、少しずつ動かすだけで体中に汗が滲んだ。けれども、何度も乗るうちに、その操作にも慣れていった。
「よっしゃ、カーブも怖くなくなってきたぞ」
筆記試験の勉強も欠かさなかった。夜、自室でノートを広げ、交通法規の暗記や模擬問題を繰り返す。手話ソングの練習を一時中断し、集中力をすべて運転免許に注いでいた。
施設の仲間たちも応援してくれた。
「直樹くん、車運転するなんてすごいやん!」
「免許取ったら、みんな乗せてドライブしてな」
そんな軽口も励みになった。
技能試験の日。小雨の降る午後、直樹は静かに深呼吸してから教習車に乗り込んだ。試験官の指示に従い、ゆっくりと発進。交差点での右左折、坂道発進、車庫入れ――どれもこれまで何度も練習してきた内容だった。
「大丈夫。やれる。今までの全部が、今日につながってる」
試験が終わったとき、直樹の手はわずかに震えていた。しかし、その表情には確かな手応えがあった。
数日後。施設の事務所に一通の封筒が届いた。中には、合格通知と、免許センターへの受験案内が入っていた。
「やった……!」
声を上げると、冴子にすぐ電話した。
「受かったで! ほんまに受かった!」
受話器の向こうから、泣き笑いの声が返ってきた。
「……あんた、ほんまにすごい子やなあ」
正式な運転免許証を手にした日、直樹は鏡の前でカードをじっと見つめていた。そこには、障がいの記載もあったが、それ以上に「自立」への第一歩が記されているように思えた。
車を運転できるということ。それは、単に移動手段が増えるという意味だけではなかった。家族に頼らず、自分で予定を立て、行動し、責任を持って帰ってくるという、社会人としての感覚を養うものだった。
「いつか、自分の車も欲しいな」
そう呟いた直樹の目には、またひとつ、新たな光が宿っていた。
運転免許という挑戦。それは、直樹にとって、これまで歩んできた道とは異なる「自由」の世界をひらく鍵だった。
そしてその鍵は、これから続く人生のさまざまな扉を、少しずつ、でも確かに開けていくことになる。
◆3.就職活動の壁と突破口
運転免許を取得し、パソコンの技術もある程度身につけた直樹は、次なる一歩として「就職」を意識するようになった。21歳の春、訓練施設を修了した直後から、直樹は各地のハローワークを巡る日々を始めた。
「履歴書、まだ真っ白やな……でも、書くこと、あるわ」
直樹の履歴書には、特別支援学校卒業、職業訓練施設修了、運転免許取得と記されていた。そしてその傍らに、趣味:手話、パソコン、音楽と小さく添えられていた。
いくつもの企業に応募したが、最初にぶつかったのは「通勤の壁」だった。面接のたびに、「通勤手段は?」「階段は大丈夫?」という質問が繰り返され、そのたびに不安げな表情が面接官の顔に浮かんだ。
そんな中、直樹は「特例子会社」の存在を知る。大手銀行の関連会社で、障がい者の雇用促進を目的に設立された企業だった。仕事内容は、銀行業務の補助的な事務作業。パソコンを用いた帳票の入力や整理、伝票のスキャンや分類といった業務が中心だった。
「ここやったら、僕の力、試せるかもしれへん」
そう思った直樹は、履歴書を送り、オンライン面接を受けることになった。パソコンの前で、スーツ姿で座る直樹。面接官の質問に、落ち着いた口調で答える。
「私は、特別支援学校での学びと、職業訓練施設で得たパソコン技術を活かして、正確で丁寧な入力作業を行う自信があります。通勤についても、駅にエレベーターがある経路を調べておりますし、徒歩は杖で対応できます」
誠実な話しぶりと明確な意志に、面接官も深く頷いた。
「では、業務体験として一週間、職場実習に来てもらえますか?」
こうして直樹の挑戦が本格的に始まった。
特例子会社のビルはバリアフリー化されており、エントランスにはスロープが設置され、室内のデスクも調整可能な高さに設定されていた。最初は緊張していた直樹も、優しく声をかけてくれる先輩職員や、わかりやすいマニュアルのおかげで、次第に環境に慣れていった。
作業は細かく根気の要るものだった。Excelでの帳票入力、顧客番号や金額のチェック、ファイルの分類――一つひとつの操作に集中し、正確さを追求した。
「直樹さん、入力スピードも安定してますね。エラーも少ないし」
実習3日目には、社員からそう声をかけられた。直樹は思わず頬を赤らめながら、「ありがとうございます」と答えた。
1週間の実習が終わった日、担当者からこう告げられた。
「ぜひ、正式に社員として来ていただきたいと思っています」
その夜、直樹は冴子に電話した。
「採用、決まったで」
「……あんた、ほんまに、よう頑張ったなあ……」
冴子の声が詰まり、受話器の向こうで涙ぐんでいるのが分かった。
正式な就職が決まった直樹は、銀行関連の書類入力を中心に業務を任されるようになった。ミスが許されない世界で、慎重に、だが着実に成果を重ねていった。
昼休みには、社員食堂で他の職員と話すことも増えた。ある日、耳の不自由な女性職員が同じテーブルに座った。
直樹は、ふと手話で挨拶してみた。
『こんにちは。お疲れさまです』
彼女の表情がパッと明るくなった。
『手話、できるんですね!』
それをきっかけに、昼休みに手話での会話が増え、時には他の職員も交えて、ちょっとした手話講座のような時間になることもあった。
「ここでも、手話が生きるんやな……」
直樹はその喜びを胸に、仕事への意欲をさらに強めていった。
時折、大きなプロジェクトのデータ整理を任されることもあった。緊張と責任の重みの中で、直樹はミスのない処理を心がけ、納期までに作業を完了させた。
「直樹くん、ほんまに助かったわ」
そう言われるたびに、「ここに居場所がある」という実感が強まった。
3か月、半年、1年と勤務を重ねるうちに、後輩の指導役を任されるようにもなった。自らマニュアルを作り、分かりやすい説明を心がけた。
働くということ。それは、ただお金を得るための行為ではなかった。社会の一部として機能し、他者と関わり、自分の存在を必要とされるという、確かな「手応え」を感じる営みだった。
「僕は、ちゃんと“働いて”る」
そう胸を張って言える今がある。
そして心の奥には、いつか“手話”を軸にした新たな挑戦を――という火種が、確かに燃えていた。
直樹の挑戦は、まだ終わらない。
◆4.新社会人としての日々
正式採用から数週間、直樹は一人の「新社会人」としての日々を迎えていた。朝7時過ぎ、家を出て、電車とバスを乗り継ぎ、9時の始業に間に合うように出勤する。特例子会社のオフィスには、既に多くの社員たちが出社し、それぞれの持ち場で仕事に取りかかっていた。
「おはようございます」
直樹の挨拶に、同僚たちが笑顔で応える。慣れない通勤に足が少し重たくなる日もあったが、その何気ない言葉のやり取りに、背中を押されるような力を感じた。
与えられた仕事は、主にパソコンによる事務処理。帳票の入力、顧客情報の整理、資料のスキャンと分類など、静かな集中力が求められる仕事ばかりだった。しかし、直樹はそこで初めて、自分の「丁寧さ」が評価される世界に出会った。
「直樹くん、ここ、数字合ってるよな。……やっぱり、信頼できるわ」
先輩職員のそんな一言が、直樹の胸にじんと染みた。生まれてからずっと、できないことを数えられてきた人生だった。だが、今は違う。できることを積み上げて、誰かの役に立っている――その実感が、何よりの報酬だった。
お昼休みになると、社員食堂へ足を運ぶ。そこでは毎日、違う職員と会話を交わすよう心がけた。ある日、手話が少しできるという先輩に出会い、何気なく手話での自己紹介をしてみた。
『はじめまして。直樹です』
「えっ、すごい! 手話もできるの?」
その反応をきっかけに、休憩時間にちょっとした手話レッスンが始まり、直樹は少しずつ職場の中で“手話ができる人”として知られるようになっていった。
仕事が終わると、駅までの道を、静かに歩いて帰る。スーツの裾が風に揺れ、手には小さな書類鞄。かつての自分からは想像できなかった「社会人」としての姿が、確かにそこにあった。
休日には、職場で使うExcel関数の復習や、タッチタイピングの速度を上げるための自主練習をして過ごした。遊びに出かけるより、仕事に役立つスキルを磨く時間が、何より楽しかった。
ある日、部内会議でこんな話が出た。
「今度、新しい業務フローを導入することになって。そのマニュアル、直樹くん作ってくれへん?」
驚きながらも、「はい」と即答した。何日もかけて、図解と補足説明を加えたマニュアルを完成させると、それが予想以上に好評で、他部署でも使用されるようになった。
「自分の仕事が、他の人の助けになる」
その達成感は、過去のどんな賞よりも、直樹の心を満たした。
働き始めて半年が過ぎた頃、社内広報誌のインタビューを受けることになった。
「困難をどう乗り越えてきたか、読者に伝えたいんです」
直樹は、自分の障がいや苦労の過去、そして手話やパソコンという“武器”を得た経緯を、淡々と語った。出来上がった記事には、こう締めくくられていた。
“彼は決して、障がいに打ち勝ったわけではない。共に生きる覚悟を持ち、自らの可能性を引き出し続けている——その姿が、多くの人に勇気を与える。”
記事が掲載された月、社長直々に「素晴らしい内容だった」と声をかけられた。直樹は、ただ深く頭を下げた。その胸には、次なる目標が芽吹いていた。
「僕にできること、もっと探したい」
新社会人としての一年目。毎日が挑戦であり、発見であり、希望だった。
◆5.28歳、手話資格への挑戦
直樹が手話と出会ったのは、小学部の文化祭だった。あのとき、音楽に手の動きが意味を持ち、想いが届いた瞬間の感動は、今でも心の奥に残っている。それ以来、手話は「特技」であり、同時に「心の支え」となってきた。だが、28歳を迎えたある日、ふと、もっとこの力を社会の中で活かしたいと思うようになった。
「ちゃんと、資格として形にしてみようか」
そのきっかけは、職場でのある出来事だった。耳の不自由な新人社員が入ってきたのだ。直樹は自然とその社員のサポートをするようになり、手話での通訳や業務連絡の補足などを行った。
「直樹さんがいてくれて、本当に助かってます」
その言葉に、直樹は胸を打たれた。これまで感覚で覚えてきた手話を、より体系的に学び直し、資格を得ることで、もっと多くの人の役に立てるかもしれない——そう思った。
手話通訳士の資格は簡単なものではない。筆記試験、実技試験、そして実務経験が求められる。だが、直樹は決意した。
「まずは手話技能検定からやな」
参考書やDVD教材、過去問集を机に並べ、自宅での勉強が始まった。平日は仕事を終えた後、1時間。土日は3〜4時間。文法、語彙、指文字、読み取り……学び直すことの多さに最初は圧倒されたが、直樹は一つひとつ、丁寧に積み重ねていった。
「難しいな。でも、知らんことが分かるって、おもろいわ」
ときにはオンラインの手話講座に参加し、他の学習者と交流を持つこともあった。チャットでの意見交換、Zoomを使った練習会。知らなかった表現、地方独特の手話。学びの世界は広がるばかりだった。
半年後、ついに直樹は「手話技能検定2級」の試験を受けることにした。試験当日は、スーツを着て、緊張しながらも会場へと向かった。
筆記試験では、聴覚障がいに関する知識や法制度、手話の歴史などが問われた。実技では、ビデオ映像での読み取りと、自分の手話による表現。何度も練習したはずの内容でも、緊張のせいか、手が震える。
試験から一か月後、合格通知が届いた。
「受かった……!」
その瞬間、直樹はこみ上げるものを堪えきれず、涙が頬をつたった。資格は“目に見える証”だった。自分の努力が、形になった。あの日文化祭で覚えた手の動きが、いま確かな力として認められた。
その報告を聞いた冴子は、電話越しに何度も「おめでとう」と繰り返した。
職場でもその資格は大きく評価され、社内のバリアフリー推進チームに任命されることとなった。障がいの有無にかかわらず、誰もが働きやすい職場を目指すプロジェクトだった。
「僕にできること、ここでもやってみたい」
会議では、実際に手話を使う職員の立場から意見を述べ、資料には手話用語の注釈を加えた。「聞こえる世界」と「聞こえない世界」をつなぐ存在として、直樹の声が、確実に届き始めていた。
この資格取得を機に、直樹は次の目標として「手話通訳士」への道も考え始めた。実務経験が必要な国家資格であることから、ボランティア通訳や地域のろう者会への参加も視野に入れていた。
「夢は、まだ終わらへん」
28歳の挑戦。それは、過去の積み重ねを形にし、未来へとつなぐ一歩だった。
◆6.突然訪れた祖母が帰らぬ人となった日
それは、秋の風が少し冷たく感じ始めた頃だった。僕の29回目の誕生日まで、あと2か月という時期。日々の仕事にもようやく慣れ、手話資格の勉強にも熱が入っていた矢先のことだった。
その日、職場で事務作業に取りかかっていた僕の元に、一本の電話が鳴った。父の声は、普段と少し違っていた。震えるような、でも必死に落ち着こうとしている声音だった。
「……冴子が、倒れた」
耳を疑った。祖母・冴子は、僕にとって母代わりの存在だった。幼い頃、母が家を出てから、冴子は父と共に僕を育ててくれた。朝早く起きて朝食を作り、通学の準備を手伝い、どんなに疲れていても僕の話を聞いてくれた。
急いで職場に事情を説明し、病院へ向かった。救急車で運ばれた冴子は、集中治療室に入っていた。医師の説明によると、すい臓がんによる多臓器不全だった。しかも、状態はすでに末期に近く、意識は戻らないだろうとのことだった。
「いつも通り、朝ごはんを作ってくれてたんや」
病院の待合室で、父がぽつりと語った。「いつも通り」の朝が、突然「最後の朝」になるかもしれない――その現実を、どうしても受け入れることができなかった。
数日間、冴子は意識を取り戻さないままだった。僕は病院に通いながら、枕元で手を握り、話しかけた。
「おばあちゃん、俺、手話の資格とったんやで」
「今、職場でも頼られてんねん」
眠ったままの冴子の顔には、どこか穏やかな表情があった。
そして、7月14日、29歳の夏。その朝、看護師に呼ばれて病室に入ると、機械の音が止まり、冴子の胸の上下が、もう動いていなかった。
父と二人で、長い時間泣いた。
告別式の日、僕は白いシャツと黒いスーツに袖を通し、足取りを確かめるようにして斎場へ向かった。車いすを使わず、杖一本で歩いた。
式が始まる直前、親族席で静かに目を閉じると、冴子の笑顔が脳裏に浮かんだ。初めて立てた日。中学の卒業式で泣いてくれた日。手話ソングを披露した文化祭の帰り道で「よう頑張ったな」と頭を撫でてくれた夜。
どれも冴子がいたから、自分が今ここにいられる。
告別式の最後、遺族代表として僕が挨拶をすることになった。心臓が早鐘のように打つ中、マイクの前に立った。
「僕は、生まれたときから歩けへん身体で……いろんなこと、諦めかけてきました」
声が震えた。けれど、目の前にいる冴子に届くように、ひとことずつ言葉を紡いだ。
「でも、ずっとそばにいてくれたおばあちゃんのおかげで、僕は生きてこれました。ありがとう。これからも、ちゃんと前を向いて生きていきます」
会場の空気が静まり返り、誰かがすすり泣く声が聞こえた。
葬儀が終わり、家に戻ると、冴子の部屋はそのままだった。小さな鏡台、古びた茶箪笥、毎朝使っていた急須と湯のみ。
それらを前に座り込み、しばらく何もできなかった。
「おばあちゃん、俺、もっと頑張るから」
その言葉だけを残して、僕はそっと扉を閉めた。
僕の30歳の誕生日、そこには冴子はいなかった。しかし、その日、手帳にはこう記していた。
「この悲しみを力に変える。おばあちゃんの分まで、僕は生きる」
◆7.趣味から特技へ
祖母を亡くしてからというもの、心にぽっかりと空いた穴を埋めるように、僕は日々の生活に全力を注いでいた。
仕事は変わらず忙しかったが、それと同じくらい自分の中で大切にしていたのが、手話だった。手話はもはや「通訳の手段」ではなかった。僕にとってそれは、自分の心を表現する“もうひとつの声”だった。
高校時代に始めた手話ソングは、その後も続けていた。休日になるとパソコンの前で好きな楽曲を選び、歌詞を読み込みながら一語一語を手話に変換していく。時にはニュアンスの違いに悩み、手話辞典やインターネットで表現を調べることもあった。だが、それさえも楽しかった。
自室の鏡の前で何度も繰り返し練習し、動きのスムーズさや表情の作り方を確認する。歌詞の意味を手に宿し、心を込めて手を動かす。何十回も練習を重ねたある日、ふと気づいたのだ。
「あ、これ、趣味じゃなくなってるな」
ただの“好き”から“伝えたい”という想いに変わった瞬間だった。
その頃から、手話ソングを披露する機会も増えていった。地域の福祉イベントや、障がい者支援の講演会など、知人の紹介を通じて様々な場に呼ばれるようになった。
特に印象に残っているのは、市の福祉フェスティバルでの発表だ。大勢の観客を前に、ステージの中央で一人、曲の冒頭に手を掲げた瞬間、全身が震えた。
「失敗したらどうしよう」「意味、ちゃんと伝わるかな」
そんな不安が一瞬よぎった。でも、顔を上げると最前列の車椅子の少年が僕を見つめていた。口元には小さな笑み。
その瞬間、すべての不安が消えた。
僕は深く息を吸い、心の中で「ありがとう」とつぶやき、手話を始めた。
ステージを終えたあと、観客の一人が近づいてきて言った。
「あなたの手話、すごく伝わってきました。歌詞の気持ちが、ちゃんと届いた気がします」
その言葉が、何より嬉しかった。技術だけではない。僕自身の経験、想い、生き方すべてが、手話という表現に込められていた。
趣味が特技になったというより、「自分の人生と一体化した」と言った方が近いかもしれない。
手話は僕に“自信”を与えてくれた。そして、それは次の挑戦へと背中を押す大きな力にもなったのだった。
◆7.振り返って
30歳という節目の年を迎え、ふと立ち止まってこれまでの道のりを振り返ってみると、そこには決して平坦ではなかった道が確かにあった。
生まれた時からの障がい。二分脊椎と水頭症という診断を受け、医師からは「この子は歩けるようにはならないだろう」と告げられたという。だが、歩けないこと以上に、人と違うという事実が、幼い頃の僕には重くのしかかっていた。
幼少期の母の離脱。育児放棄、離婚、祖母と父との3人暮らし。誰かに守ってもらうべき年齢で、すでに「守るべきもの」が自分の中に芽生えていた気がする。冴子――祖母は、そんな僕の唯一無二の支えだった。
生後数か月から始まった試練の日々。4歳の頃には、すでに母の姿は日常の中になく、代わりに祖母の手の温もりと、父の不器用な優しさだけが残された。
初めて笑った日。初めて声を発した日。歩くことは叶わなくとも、杖を使って立ち上がれたその瞬間は、今でも心に焼きついている。小学時代の教室では「人種差別に似た扱い」を受けたこともあった。あれは、心をえぐられるような経験だった。
だが、手話と出会い、言葉が通じ合わないことの意味を深く考えるようになった。誰かに伝えたい。伝えられない思いを、どうにかして届けたい。その一心で、手話を学び、覚え、身につけ、いつしか特技と呼べるようになっていた。
中学、高校と、常に壁はあった。特別支援学校への通学は、往復3時間にも及んだ。電車とバスを乗り継ぎ、階段を昇り降りし、何度も心が折れそうになった。でも、誰よりも自分自身が、あきらめることを許さなかった。
高校の文化祭で披露した手話ソング。中庭のステージに立ち、振りを間違えないよう必死に練習した。講師も通訳もいない中、すべてを自分の力で仕上げた。あのステージの拍手は、僕の人生で最も誇れる瞬間の一つだ。
卒業後は施設でパソコンの技術を磨き、その後、特例子会社に就職した。銀行の事務作業、データ入力。静かだが確かな仕事。誰かの役に立てているという実感。社会の一員として、自分が確かに存在しているという実感。
28歳で手話資格に挑戦したのも、自分を高めたいという気持ちからだった。障がいがあっても、挑戦できることはある。可能性は、自分自身が閉じない限り、どこまでも広がっている。
そして、29歳の夏。冴子が旅立った。突然の別れ。あの朝の空気、父の声、病院の廊下の匂い。すべてが、今も胸の中で生きている。
冴子がいてくれたから、僕はここまで来られた。そのことへの感謝は、言葉では到底足りない。
30歳を迎えた今、僕にはまだまだ夢がある。もっと多くの人に手話の魅力を伝えたい。障がいがあっても、声を上げ、誰かとつながる方法があるのだと伝えたい。そして、今度は僕が誰かの“冴子”になれるように、誰かの支えになれるように。
これまでの人生は、困難と向き合う連続だった。けれど、その一つひとつが、僕を強くし、豊かにし、そして優しくしてくれた。
これからも、誇りを胸に歩いていく。杖をつきながらでも、一歩一歩、自分の足で。
そしていつか、僕の歩いてきたこの道が、誰かの勇気になることを信じている。
僕は、生まれつき「下半身麻痺」という個性(障がい)を持っていますが、外国語にも興味を持っているので、僕の作品には日本語はもちろん、「外国語20言語」を用いて書きたいと思っていますので、以後お見知りおきを。
(詳細対象20言語=アメリカ&イギリス英語・イタリア語・インドネシア語・ウクライナ語・ギリシャ語・スウェーデン語・スペイン語・チェコ語・ドイツ語・トルコ語・ハンガリー語・フィンランド語・フランス語・ベトナム語・ポーランド語・ポルトガル語・ロシア語・韓国語・中国語(簡体字&繁体字)