第5章 通学路の彼方に、僕の誇りがあった
人生のはじまりを、誰もが平等に祝福されるとは限らない。
1981年9月、僕は重度の二分脊椎と水頭症という先天性の障がいを持って生まれた。医師の口から出た言葉は、「余命3か月かもしれない」という、あまりにも重く冷たい宣告だった。生まれた瞬間から、僕の人生は「いつまで生きられるか」ではなく、「どこまで生き延びられるか」という基準で語られていた。
下半身は麻痺していた。歩くことなど到底無理だと誰もが思っていた。家族の中でも、母は4歳になるまで僕にほとんど関心を持たなかった。父も深くは関わらず、育児を放棄された僕を守ってくれたのは祖母の冴子だけだった。
誰にも愛されない場所から、奇跡のように立ち上がるまで。歩けないはずの足が、自宅での冴子のマッサージと支えの中、ふとした瞬間にわずかに動いた。その小さな一歩が、僕に「希望」という言葉を初めて与えてくれた。
だが、歩けるようになったからといって、世界が優しくなったわけではない。保育園、小学校、中学校——どこへ行っても、僕を待っていたのは“異物”を見る目と、言葉にならない拒絶だった。友達は一人もいなかった。手を伸ばしても、そこに誰もいなかった。
それでも、僕は手話という「もうひとつの声」と出会ったことで、“伝えられる自分”に変わっていった。声を出せなくても、心で語れる方法がある。そう気づいた瞬間から、僕の世界は少しずつ変わり始めた。
この物語は、障がいを持つ一人の男の44年間の記録であり、人生の断片の積み重ねである。葛藤、孤独、怒り、そして希望。それらすべてを胸に抱きながら、僕は今日も杖をついて、自分の足で歩いている。
風のない空でも、翼はなくても、僕は翔けてきた。これは、そんな僕の、実話に基づいた物語である。
◆1.高校入学と通学の壁
中学校の卒業式の日、直樹は胸に複雑な思いを抱えていた。三年間を耐え抜いたという達成感と同時に、次なる試練への不安が静かに心を揺らしていた。
高校進学先に選ばれたのは、市内の特別支援学校だった。これまで普通学級で孤独を耐えてきた直樹にとって、特別支援学校という選択肢は、自分の身体と向き合うための新たな一歩だった。しかし、その学校は自宅から遠く、バスと電車を乗り継いで一時間半もかかる場所にあった。
実は、直樹は中学二年から車いすを使うことをやめ、杖をついて自力で歩くようになっていた。転ぶこともあったし、足が痙攣する日もあったが、それでも自分の足で前に進みたかった。誰にも強制されたわけではない。心の奥底から、「自分で歩きたい」という意志が芽生えたのだ。
初登校の日。朝6時前に目を覚まし、冴子が用意してくれた弁当をリュックに詰めて、杖をつきながら家を出た。家の前の坂をゆっくりと下り、最寄りのバス停へ向かう。その時点で外はまだ薄暗く、朝露の湿った風が頬を冷やす。
バスでは乗客の迷惑にならぬよう、なるべく端のスペースに立ち、揺れに耐えながら踏ん張った。運転手も最初の頃は戸惑いを隠せず、乗り降りの際に目を逸らす者もいた。
バスを降りると、今度は小さな駅へと続く階段付きの坂が待っていた。エレベーターなどないその駅では、冴子が同伴できる日には手を貸してくれたが、ひとりで通学する日も少なくなかった。階段を登るたびに脚が震え、額に汗がにじんだ。
駅のホームに立つと、すでに登校する高校生たちの列ができていた。制服の裾をなびかせ、友人たちと笑いながら談笑する彼らとは、どこか別の世界にいるような気がした。
電車に乗り込むと、混雑した車内でバランスを保つのは至難の業だった。杖をついていることに気づいても、気遣うどころか冷ややかな視線を投げかける人もいた。足を踏まれたこともあったし、「どいて」と冷たく言われたこともあった。それでも直樹は、じっと堪えながら目的地へと向かった。
学校へ到着すると、そこには自分と同じように、身体に障がいを持つ生徒たちがいた。驚いたのは、誰もが笑顔だったことだった。歩くことができない子も、言葉を話せない子も、皆がまっすぐに目を見てあいさつをしてくれた。
「おはよう」と手話で話しかけてくれたクラスメイトの一人、翔太とはすぐに打ち解けた。自分から声をかけるのは苦手だったが、翔太は毎朝のように「今日はここまで来るの大変だった?」と聞いてくれた。
授業は、自分のペースに合わせて構成されており、これまで普通級では感じられなかった「学ぶ楽しさ」があった。先生たちも一人ひとりに目を配ってくれていた。手話も、表情も、書くことも、すべてが「伝える力」として評価された。
三年間、直樹は一時間半の通学を毎日繰り返した。大雨の日、雪が積もった朝、風に煽られた午後、どんな日も学校を休まず通い続けた。冴子は心配していたが、直樹は一度も「やめたい」と口にしなかった。
それは、自分にとって「学校」という場所が、ようやく見つけた自分の居場所だったからだ。
高校生活三年目のある日、先生に言われた。
「直樹くん、あなたはここに通って、本当によく頑張ってきたね。この通学そのものが、ひとつの“誇り”だと思うよ」
その言葉に、直樹は心の底から「頑張ってよかった」と思った。
高校卒業の日、直樹は壇上で答辞を読み上げた。
「通学に一時間半かかりました。最初は遠くて、孤独で、くじけそうになったこともあります。でも、その時間があったからこそ、ここで出会えた仲間や学びがあります。僕は、“通った”という事実を、これからも誇りに生きていきます」
会場からは大きな拍手が起き、冴子は客席で静かに涙を拭っていた。
通学路のその彼方に、直樹は確かに、自分だけの誇りを見つけていた。
◆2.電車とバスと階段と
高校への通学は、直樹にとって日々の「挑戦」そのものだった。
朝5時半に起床する生活が始まった。眠い目をこすりながら、冴子の手作りの朝食を口に運ぶ。食卓の隅には、保温袋に包まれた弁当と水筒。冴子は毎朝、欠かさず用意してくれていた。「寒い日も暑い日も、ちゃんと食べなさいよ」という言葉と一緒に、気持ちまで詰まっていた。
6時10分、自宅を出発する。杖を頼りに、坂道を下る。息を整えながら歩き、ようやくバス停に着くころには額に汗が浮かんでいた。
バスの中では、人の波に飲まれないよう壁際に立った。急ブレーキに揺られるたび、杖の先が床を叩く。「大丈夫ですか?」と声をかけてくれる乗客は稀で、多くは気にも留めずスマホの画面に視線を落としていた。
バスを降りると、今度は駅へ向かう坂道が待っていた。途中にある15段ほどの石階段を、片足ずつ慎重に上る。足がもつれそうになるときは、手すりを両手で握りしめて、じっと立ち止まり、深呼吸する。「あせるな、ゆっくり、ゆっくりだ」と自分に言い聞かせながら。
駅に着いても安心はできない。改札を抜けた先には、ホームへと続く長い階段。エレベーターのないその構造に、直樹は毎朝、挑むしかなかった。混雑する時間帯は特に気を遣った。階段の端に体を寄せ、流れに逆らわないよう注意しながら、1段ずつ確実に登っていく。
電車内はさらに過酷だった。座席が埋まり、立ち続けるしかない日が多い。吊り革と杖を頼りにバランスを取りながら、目を閉じて集中する。冷たい視線を感じる日もあれば、誰かがそっと席を譲ってくれる日もあった。だが、譲られた席に座るたびに、直樹の胸には申し訳なさと感謝が入り混じった思いが込み上げた。
下車駅に着くと、学校までの道のりもまた一苦労だった。駅を出た先には、歩道の狭い通学路。車のすぐ横を通るのが怖くて、時には車道側に杖を出しながら進んだ。風が強い日には、杖が流されそうになるのを必死に堪えた。
それでも、直樹は毎日このルートを歩いた。休むことなく、文句を言うこともなく。ただ一歩一歩、前へ進み続けた。転んでしまった日も、泣きたくなるような朝も、心の中で「大丈夫、大丈夫」と自分を励ました。
通学路のすべての風景が、直樹の記憶に刻まれていた。駅の階段、バスの揺れ、坂道の感触――どれもが、直樹の“生きる力”を試す道だった。
ある日、担任の先生が言った。
「通学、大変だよね。でも、君の通ってくる姿を見てるだけで、勇気をもらう生徒がいるんだよ」
その言葉は、心に深く刺さった。そして直樹は気づいたのだ。この日々は、ただの「通学」ではない。誰かの力になれる「生き方」なのだと。
電車とバスと階段と――それらすべてが、直樹の人生をつくるピースだった。
◆3.文化祭のステージ
高校1年の秋、文化祭の準備が始まった。廊下には色とりどりのポスターが貼られ、教室内はどこか浮き足立った空気に包まれていた。直樹にとっては、初めての高校文化祭。しかも、今年のステージ発表で「手話ソング」を披露することが決まっていた。
「本当に、俺が出ていいんだろうか?」
そんな不安を抱えながらも、直樹は練習に臨んだ。手話との出会いは高校1年の時で、それから4年が経っていた。中学時代から続けてきた独学の手話は、徐々に“言葉”として自分の中に根を下ろしていた。学校に手話通訳の講師はおらず、直樹は自力で好きな歌の歌詞を手話に置き換えて、それを身体で覚え込むしかなかった。
ステージで披露するのは、当時流行していた明るく希望に満ちたポップソング。直樹はその歌に、自分の生き方を重ね合わせていた。「歩けなくても生きられる」「伝えられなくても伝える方法はある」。そんな思いが、自然と動きににじみ出た。
放課後の中庭で、クラスメートたちと手話の練習をする。音楽に合わせて、笑顔で手を動かす同級生たち。その輪の中に、直樹もいた。
最初はぎこちなかったが、練習を重ねるうちに、一人の生徒がぽつりとつぶやいた。
「直樹の手話、すごく伝わるよ。見てると、なんか胸があったかくなる」
それは直樹にとって、どんな勲章よりも嬉しい言葉だった。
文化祭当日、発表の直前。直樹は、控室で深く息を吸った。杖を脇に置き、舞台に立つ準備をする。足の震えが止まらない。でも、逃げなかった。体育館ではなく、中庭のステージ。秋の陽射しが優しく照らしていた。
曲が流れる。クラス全員が一斉に手を動かす。直樹も、その輪の中で歌詞を手話に乗せて伝える。中庭には保護者、生徒、先生――多くの人が立ち止まり見守っていた。誰一人、直樹を笑う人はいなかった。
その瞬間、直樹は確かに感じた。誰かと「つながる」感覚を。言葉ではなく、目と手と心で。
終演後、拍手が鳴り止まなかった。クラスメートの一人が、直樹の背中を叩いた。
「最高だったよ、ありがとう」
直樹はうなずき、静かにほほえんだ。
高校1年の文化祭。初めてのステージ発表。そこには、自分の“声”を手話で届けた、新しい自分がいた。
◆4.他校との交流のはじまり
文化祭で手話ソングを披露したあの秋の日を境に、直樹の世界は少しずつ広がりを見せ始めた。クラスの中だけでなく、学校外の人々との接点も生まれ始めていた。
ある日、担任の先生から一枚のプリントが手渡された。それは「市内特別支援学校交流会」の案内だった。市内の特別支援学校や支援学級の生徒たちが集まり、発表や交流を行うというイベントだった。
「直樹、参加してみないか? あの手話ソング、すごく良かったし、ぜひ紹介したいって声があってな」
その言葉に、直樹は驚き、そして少し戸惑った。
(自分が、他の学校の前で?)
かつて、特別支援学級への転籍や、自分が他の子と違うことを強く意識させられた直樹にとって、「他校との交流」という言葉は、未知への挑戦を意味していた。
しかし、文化祭の成功体験が直樹を後押しした。あの時、自分の手話が誰かの心に届いた。ならば、今度はもっと多くの人に伝えてみたい。そんな思いが芽生えていた。
準備は放課後の時間を使って行われた。ステージの構成や曲の選定も、直樹自身が提案をした。今回は、少し難しいバラード曲を選んだ。感情の込め方、手の動きの微細なニュアンス、歌詞に込められた意味……全てを丁寧に読み取り、練習を重ねた。
当日は、特別支援学校の講堂が会場だった。市内外から集まった生徒たちと先生、保護者が静かに見守る中、直樹はステージ中央に立った。
「こんにちは。僕は○○高校の直樹です。今日は、僕の大好きな歌を手話で届けます」
そう口にしてから、直樹は深く息を吸い、音楽が流れ始めた。
手話がリズムに乗って、流れるように紡がれていく。視線は前を向き、指先に神経を集中させながら、直樹はまるで“話す”ように手を動かした。会場の空気が、静寂の中に引き込まれていく。
歌が終わると、少し間をおいて、温かな拍手が広がった。中には涙をぬぐう先生の姿もあった。
終了後、他校の生徒が話しかけてきた。
「すごく感動したよ。僕も手話やってみたい」
それは直樹にとって、初めて“他校の友達”ができた瞬間だった。
それ以降、直樹は交流会だけでなく、他の学校の生徒たちと合同で練習会をしたり、手話を教え合ったりするようになった。
最初は「違い」によって隔てられていた世界が、手話という“共通言語”によって少しずつつながっていく。
直樹の心の中には、これまでになかった確信が芽生えていた――「伝えることは、壁を越える力になる」。
この交流の始まりは、やがて直樹の人生における大きな転機となっていくことになる。
◆5.手話が“特技”に変わる瞬間
初めて文化祭のステージで手話ソングを披露し、他校との交流会での発表も成功させた直樹の中で、手話に対する感覚が少しずつ変わっていった。
これまで手話は、自分を守るための“道具”だった。話せない、伝えられない、だからこそ身につけたもう一つの言語。だが、それが人の心に響く「表現」として認められる場面に触れるたびに、直樹の中で手話は“特技”へと変わりつつあった。
ある日、担任の先生がこんな話を持ちかけてきた。
「市内のボランティア団体が、地域のイベントで手話のパフォーマンスをしてくれる高校生を探してるんだ。直樹、どうかな?」
一瞬、戸惑いが頭をよぎった。校内でも、他校でも発表を経験したが、一般の地域住民の前で披露するのは初めてだった。
しかし、直樹の胸には「もっと多くの人に、手話の魅力を伝えたい」という思いが育っていた。彼はその依頼を引き受けることにした。
イベントは地域の福祉祭りだった。公園の広場に設けられた特設ステージ。観客席には子どもからお年寄りまで、さまざまな人がいた。中には、手話を全く知らない人も多い。
「だからこそ、ちゃんと伝えたい」
直樹は、今回のステージで“物語を語るような”手話ソングを選んだ。単なる翻訳ではなく、曲の世界観を動きや表情に込めて届ける。
家で何度も鏡を見ながら練習した。歌詞の意味を一言一句、自分の体に染み込ませるように覚えていった。友達にも見てもらい、わかりづらい動きや不自然な表現がないか、客観的な意見も取り入れた。
本番当日、直樹は一人でステージに立った。風がやや強く、空は高かった。
「こんにちは。僕は高校1年生の直樹です。今日は、大好きな歌を手話で届けます。もし、少しでも“伝わった”と感じてもらえたら嬉しいです」
その言葉のあと、音楽が流れ始めた。
ステージの上で、直樹は一つ一つの動きを丁寧に行った。歌詞の中の「涙」や「希望」、「未来」といった言葉は、指先の表現に特に気を配った。手を伸ばす、重ねる、開く、その動きに観客の目が自然と引き寄せられていくのがわかった。
終わった瞬間、しばしの沈黙のあと、大きな拍手が起きた。
その後、主催者の一人が直樹に声をかけてきた。
「とても心に残るステージでした。手話って、こんなに豊かなんですね。あなたの動きには、言葉以上の何かがありました」
その言葉に、直樹の中で何かが確かに変わった。
帰り道、自分の胸に問いかけた。
(手話は、僕にとって“特技”って言ってもいいんじゃないか)
その日を境に、直樹は手話を「特別な能力」として受け止め始めた。学校でも、交流会でも、イベントでも、自分だけの「表現」として磨いていこうと思った。
これまでの自分は、どこかで「できないこと」を補う手段として手話を選んでいた。だが今は、堂々と「自分にしかできないこと」として、前向きに向き合えていた。
それは、直樹にとっての小さな革命だった。
◆6.3年間の“通学路”
高校時代、毎日1時間半をかけて通った通学路は、直樹にとって単なる移動手段ではなかった。それは“鍛錬の道”であり、“試練の舞台”であり、そして“誇り”でもあった。
中学2年から杖をついての独歩を始めていた直樹にとって、車いすではなく自らの足で歩き続けるという選択は、決して容易なものではなかった。高校入学と同時に始まったその長い通学路は、まず最寄り駅までの20分の徒歩から始まる。舗装が不安定な道、急な坂、点字ブロックの段差。そのひとつひとつが、直樹の足腰に重くのしかかってくる。
駅に着けば、次は階段との闘い。エスカレーターやエレベーターが整っている駅など、数えるほどしかなかった。重い鞄を背負い、両手に体重を分散させながら、一本一本の段を確かめるように上り下りする。時には人の波に押され、バランスを崩しそうになることもあった。それでも直樹は、絶対に杖を手放すことはしなかった。
電車に乗り込むと、座れる保証はない。通学時間帯の混雑はすさまじく、吊り革にしがみつきながら耐えることも多かった。体力を使い果たした朝は、眠気と痛みに襲われながら、それでも立ち続けた。
乗り換えの駅では、また階段と人混みが待っていた。バスに乗るときは、ドライバーに一声かけ、揺れる車内でバランスを保ちながら、目的地に近づく。学校の最寄りバス停からは再び徒歩。最後の坂を上りきった先に、ようやく校舎の姿が見えてくる。
毎日同じ道を往復するなかで、直樹は少しずつ体を鍛え、忍耐力を磨いていった。その道すがら、誰かに助けを求めることは、ほとんどなかった。助けを拒んでいたわけではない。ただ、“自分の足でここまで来た”という実感が、彼にとって何よりの自信だった。
冬の朝、霜で滑りやすい歩道を慎重に歩いた日。夏の夕暮れ、汗びっしょりでバスを待った日。土砂降りの雨のなか、びしょ濡れになって駅まで戻った日。季節ごとに刻まれた苦労は、そのまま直樹の成長の軌跡だった。
周囲の生徒たちは、家の近くの学校に通い、短い通学時間を当然のように過ごしていた。だが直樹は、毎日の道のりで「生きる強さ」を自分の中に育てていた。その誇りは、どんな試験の点数や成績よりも価値のある“学び”だった。
3年間の通学路は、決して平坦ではなかったが、そのすべてが直樹の足跡であり、意志の軌跡だった。高校卒業の日、駅の階段を下りながらふと振り返ったとき、直樹の心には、確かにこう響いていた。
──この道を、自分は歩ききったんだ。
涙は流れなかった。ただ胸に込み上げる静かな誇りと、これからもこの足で歩いていけるという確信。それが、直樹にとっての“卒業証書”だった
◆7.卒業式の朝
3年間の通学路。そのすべてを踏みしめてきた杖の先端が、この日、最後の校門をくぐる音を刻んだ。3月、春まだ浅い朝。肌寒さの残る風に、制服の裾が揺れた。
直樹は、自宅の玄関でいつもより深く息を吸い込んだ。制服の襟を整え、杖の先を軽く地面につける。いつもと変わらぬ動作のようでいて、どこかが違った。この日が「最後の登校日」であることを、心の奥底が強く意識していた。
通学路は、今までと変わらぬ坂道と階段、バス停への一本道、乗り継ぎの電車。けれど、そのすべてが、今日はまるで別の風景のように感じられた。
「おはよう、卒業生!」
いつものバス停に立っていた運転手が、直樹に気づいて声をかけてくれた。毎朝、無言で見送ってくれていたその人が、今日は満面の笑みでそう言った。
「ありがとう……ございます」
直樹は一礼し、手すりを握ってバスに乗り込む。車内の乗客も、どこか静かに、そして温かい視線を向けてくれていた。
バスから降りると、いつもより早足で階段に向かう。息が切れるのを抑えながら、ゆっくりと、でも確実に杖をついて登った。その一段一段に、3年間の思い出が積み重なっている気がした。
校門前では、すでに何人かの先生たちが並んでいた。その中には、1年生の時から彼を見守り続けてくれた担任の姿もあった。
「直樹、よくここまで頑張ったな」
短いその言葉の中に、先生の感情がすべて込められていた。
体育館ではすでに式の準備が整えられていた。白い椅子が整然と並び、壇上には卒業証書が置かれていた。直樹はゆっくりと歩みを進め、指定された席に座った。
卒業式は厳かに始まり、校長先生の式辞、来賓の挨拶、そして在校生代表の送辞が続いた。どの言葉も胸に染みたが、何よりも、卒業生代表として読み上げられた「答辞」は、直樹の心に深く刻まれた。
「私たちは、それぞれの理由でこの学校に集まり、支え合い、学び合いました……」
その言葉が、まるで自分の心の声を代弁しているようだった。直樹は、涙をこらえながら拳を握った。
いよいよ卒業証書の授与。名前を呼ばれ、直樹はゆっくりと壇上へと歩いた。ステージへの階段は少し高く、補助の先生が横に立ったが、彼は小さく首を振った。
「一人で、登ります」
その言葉に、会場の空気が変わった。静寂の中、杖をついた足音が響く。片足ずつ丁寧に、直樹は階段を登った。そして、校長先生の前に立ち、証書を受け取る。
「よく頑張りました」
そのひと言に、直樹はうなずき、深く頭を下げた。
式の終了後、クラスメイトや先生たちと写真を撮り合った。普段あまり話さなかった生徒も、今日は自然に声をかけてきた。
「おめでとう、直樹」
「手話の歌、忘れないよ」
「これからも、自分の道を進んでね」
どれも直樹にとっては、かけがえのない言葉だった。
その帰り道。いつもは疲れていた足取りが、不思議と軽かった。通い慣れた道が、今日は誇らしさに満ちていた。
直樹は空を見上げた。青空が広がっていた。風がそっと背中を押してくれるように吹いていた。
「ありがとう」
心の中でつぶやきながら、彼は自宅へと歩き出した。その背中には、3年間のすべてを受け止めてきた“通学路の誇り”が、しっかりと宿っていた。
◆8.冴子の涙
卒業式の喧騒が静まり返り、午後のやわらかな光が校舎の窓を照らしていた。
直樹は、教室の片隅で卒業証書を抱えていた。まだ実感は湧かない。ついさっきまで通っていたはずの学校が、もう「通わない場所」になってしまったということが、心の中でふわりと浮いたまま現実として定着しない。
その日、祖母の冴子は、いつも以上に綺麗な服を着ていた。白いブラウスに淡いグレーのカーディガン、黒のスカート。杖をついて歩く直樹の横を、ゆっくりとした足取りでついてきていた。
「卒業、おめでとう」
式の後、冴子はぽつりとそう言ったきり、しばらく無言だった。
言葉よりも、その眼差しの奥にある震えを、直樹は敏感に感じ取っていた。冴子のまなざしは、懐かしさと誇り、そして深い感情を孕んでいた。
帰り道、いつもの通学路を、最後の下校のように二人でゆっくり歩いた。何百回も歩いた坂道、バス停、あの角を曲がった商店。直樹は杖をつきながら、わざとゆっくりと足を運んでいた。冴子とのこの帰り道が、いつもと違って感じられていた。
「あんたがね、小学校のときに一人で階段を上り下りしていた頃、私は何度も心配したのよ」
冴子が不意に口を開いた。
「でも、倒れたと聞いても、ケガをしたと聞いても、あんたは絶対に泣かなかった。泣いてもいいのに……。私は、それが逆に辛かったんよ」
直樹は黙って聞いていた。振り返ると、冴子の目が潤んでいた。
「医者にね、生きられても3か月が限度かもしれないって言われた時、私は正直、生きてさえいてくれればと思ってた。歩けなくても、喋れなくても、あんたが生きていてくれたらそれだけでよかったのよ」
直樹の喉がつまった。
「でも、こうやって、杖をついて、自分の力で卒業して、手話までできて、人前で話せるようになって……そんなこと、誰が想像できた?」
冴子の声が震えていた。
「私はもう十分や。もう、悔いはない。あんたが、ちゃんと生き抜いてくれて……」
そこまで言うと、冴子は言葉を詰まらせた。そして、ぽろぽろと涙をこぼした。
強かった冴子の、初めて見る姿だった。直樹は、言葉を発せずにそっと冴子の手を握った。
「ばあちゃん……ありがとう」
その手の温もりだけで、二人は通じ合っていた。
その瞬間、直樹の胸の奥で、何かがほどけた。過去の苦しみも、寂しさも、無力さも、それを支えてくれた一人の人間の涙の重みの前に、静かに溶けていった。
それは、ただの卒業ではなかった。二人にとっての、小さな奇跡だった。
冴子の涙。それは、希望の終わりではなく、未来へのバトンとして、静かに流れ落ちたのだった。
◆9.未来へ向けて
卒業式の翌朝、直樹は早朝の冷たい空気の中、家の縁側に座っていた。
空には春の兆しが微かに漂っていたが、風はまだ冬の名残を抱えていた。制服を脱ぎ、特別支援学校での3年間を終えた実感はまだ薄く、何か大きなものを失ったような寂しさが心の奥底に残っていた。
祖母・冴子が湯飲みを手にやってくる。黙って隣に腰を下ろすと、湯気がたちのぼる茶をゆっくりと口に運んだ。
「……あんた、本当によう頑張ったなぁ」
ぽつりと漏れたその声に、直樹は胸の奥がぎゅっとなった。冴子の目尻には、昨日の涙の名残がまだ残っていた。
思い返せば、高校生活のすべてが「通うこと」から始まっていた。バスと電車を乗り継ぎ、坂を登り、歩きづらい道を杖を頼りに進む。何度も転びそうになりながらも、立ち上がって進んだ。
「手話ソング」の発表や、他校との交流、市の舞台での最優秀賞――数々の出会いと挑戦があった。だがそれらの根底にあったのは、通い続けることで得た信頼と、培われた自己肯定感だった。
直樹は自分に問いかけていた。「これから、自分はどう生きていくのか」
進学か、就職か。障がいのある身体で、どれだけ社会と向き合えるのか。選択肢は決して広くはない。しかし、だからといって選ばれた道に価値がないとは思わなかった。
「なあ、冴ちゃん。俺、もっと伝えたいねん」
唐突な直樹の言葉に、冴子は茶を置いて、彼を見つめた。
「伝えたいって、何を?」
「生きてるってことを。俺みたいな身体でも、ちゃんと、ちゃんと生きてるってことを、誰かに伝えたい」
冴子は黙って頷いた。そして微笑んだ。
「そうやな。あんたの言葉やったら、きっと届くわ」
直樹は、その日の午後、市のボランティアセンターに向かった。手話講座のサポーターとして参加するためだった。高校での手話発表の経験が評価され、推薦を受けていたのだ。
会場では、小さな子どもから年配の人まで、さまざまな人が集まっていた。自己紹介をしながら、直樹は久しぶりに緊張した。だが、相手の目を見て、ゆっくりと手を動かしながら伝えるうちに、自然と心がほぐれていった。
(伝えるって、やっぱり、すごいことなんや)
その感覚が、直樹を支えていった。誰かに理解される喜び。違いを越えてつながる力。手話だけではない。表情も、声も、沈黙さえも“伝える手段”になりうるのだと、直樹は知っていた。
未来は、まだ白紙だった。だが、その余白に何を描いていくかは、自分自身に委ねられている。
夜。寝る前の帳の中で、直樹は日記帳を開いた。
【202X年3月25日 卒業から一日。未来は、まだ見えへん。でも、俺は歩く。杖ついてでも、一歩一歩。】
筆圧の強い字でそう書かれたその一行は、やがて彼の人生の扉を静かに開いていくことになる。
希望の杖を、しっかりと握りしめながら。
(第5章・完)
僕は、生まれつき「下半身麻痺」という個性(障がい)を持っていますが、外国語にも興味を持っているので、僕の作品には日本語はもちろん、「外国語21言語」を用いて書きたいと思っていますので、以後お見知りおきを。
(詳細対象21言語=アメリカ&イギリス英語・アラビア語・イタリア語・インドネシア語・ウクライナ語・ギリシャ語・スウェーデン語・スペイン語・チェコ語・ドイツ語・トルコ語・ハンガリー語・フィンランド語・フランス語・ベトナム語・ポーランド語・ポルトガル語・ロシア語・韓国語・中国語(簡体字&繁体字)