第1章 誕生と告知
人生のはじまりを、誰もが平等に祝福されるとは限らない。
1981年9月、僕は重度の二分脊椎と水頭症という先天性の障がいを持って生まれた。医師の口から出た言葉は、「余命3か月かもしれない」という、あまりにも重く冷たい宣告だった。生まれた瞬間から、僕の人生は「いつまで生きられるか」ではなく、「どこまで生き延びられるか」という基準で語られていた。
下半身は麻痺していた。歩くことなど到底無理だと誰もが思っていた。家族の中でも、母は4歳になるまで僕にほとんど関心を持たなかった。父も深くは関わらず、育児を放棄された僕を守ってくれたのは祖母の冴子だけだった。
誰にも愛されない場所から、奇跡のように立ち上がるまで。歩けないはずの足が、自宅での冴子のマッサージと支えの中、ふとした瞬間にわずかに動いた。その小さな一歩が、僕に「希望」という言葉を初めて与えてくれた。
だが、歩けるようになったからといって、世界が優しくなったわけではない。保育園、小学校、中学校——どこへ行っても、僕を待っていたのは“異物”を見る目と、言葉にならない拒絶だった。友達は一人もいなかった。手を伸ばしても、そこに誰もいなかった。
それでも、僕は手話という「もうひとつの声」と出会ったことで、“伝えられる自分”に変わっていった。声を出せなくても、心で語れる方法がある。そう気づいた瞬間から、僕の世界は少しずつ変わり始めた。
この物語は、障がいを持つ一人の男の44年間の記録であり、人生の断片の積み重ねである。葛藤、孤独、怒り、そして希望。それらすべてを胸に抱きながら、僕は今日も杖をついて、自分の足で歩いている。
風のない空でも、翼はなくても、僕は翔けてきた。これは、そんな僕の、実話に基づいた物語である。
◆1.誕生の朝
――その日、風はなかった。
雲ひとつない青空が、ただ高く、ただ広く、病院の窓の向こうに続いていた。
その空の下で、ひとりの男の子が静かに産声をあげた。
産科病棟の白い天井、看護師たちの慌ただしい足音、そして無言の医師たち。
――その瞬間から、僕の人生はすでに特別だった。
1980年9月14日深夜、僕はこの世界に生を受けた。
生まれてすぐ、僕は医師たちの間で「緊急搬送」の判断を受けた。
診断名は「二分脊椎症および水頭症」。
脊髄の一部が外に露出し、脳内には過剰な脳脊髄液がたまっていた。
それは、命に関わる重大な疾患。
まだ母の胸に抱かれる間もなく、僕は隣県の大病院へと救急搬送された。
――産声から、わずか数時間後のことだった。
大病院に到着した直後、僕は緊急の検査と処置を受けた。
そしてその日の午後、すぐに9時間半に及ぶ大手術が始まった。
手術の第一段階は、脊髄の露出部分の閉鎖。感染のリスクを最小限に抑えるため、皮膚を移植し、神経を包むように丁寧に縫合された。
次に、頭部にシャント(脳脊髄液を体内に逃がすための管)を設置し、水頭症による脳圧を軽減する処置が施された。
医師たちは緊張の中で手術を進め、途中何度も血圧の急変に見舞われながらも、僕の小さな体に向き合い続けた。
術後、集中治療室に運ばれた僕は、うつ伏せに寝かされたまま心電図のパッドを全身に装着され、口には人工呼吸器、鼻からは酸素が供給されていた。
両目には刺激から守るためのガーゼ、腕と脚には複数の点滴ライン、胸部にはモニター用のコードが絡みついていた。
その姿は、まるで「命を支える装置の集合体」であるかのようだった。
そこが、NICU(新生児集中治療室)——僕が生まれて初めて過ごす“家”になった。
透明な保育器の中、僕は2か月半の時間を過ごした。
そこには昼も夜もなく、人工的な光と機械の音が交錯する静寂の世界だった。
看護師たちは24時間体制で僕の体調を観察し、数値のわずかな変化に敏感に反応してくれた。
母と父は、毎日決まった時間に面会のためNICUを訪れた。
面会時間は限られ、抱き上げることすらできない日々が続いた。
母はガラス越しに僕を見つめ、声をかけるだけで涙を堪えていた。
父は一歩下がって、母の背を支えるように立っていたという。
その中で、父はそっとガラス越しにこう呟いたという。
「直樹、大丈夫や。お前は強い子や。生きろ」
その声は届かぬはずの保育器の中、でもきっと僕は感じ取っていた。
NICUでの毎日は、まさに「生命との対話」だった。
時にはシャントの機能が不調となり、頭部が腫れた。
追加の検査と再手術の検討がされる日もあった。
呼吸器を外そうとすると、肺の未発達により呼吸困難に陥ることもあった。
そのたびに、医師たちは再び一丸となって命をつなぐための処置を施した。
そして僕は何度も、生死の境界線を越えそうになりながらも、決して向こう側へは行かなかった。
ほんのわずかな呼吸の変化、心拍の異常、血中酸素濃度の低下——それら一つひとつに命が左右された。
深夜のNICUで、アラームが鳴るたびに駆け寄る看護師と医師。
その度に、僕の体は新たな試練を迎え、そして乗り越えていった。
誰もがこう思った。「この子は奇跡だ」と。
少しずつ人工呼吸器の時間を短縮し、点滴の本数が減り、保育器の蓋が開く時間が増えていった。
その一つひとつが、僕と医療スタッフの小さな勝利だった。
2か月半という期間は、決して短くなかった。
けれどその間に、僕は確かに「生きる力」を手に入れていった。
誰もが驚いた——あの小さな体が、あの過酷な状況を生き延びたことに。
そして、ある春の日。僕はようやくNICUを退院し、両親と共に病院の外の光を浴びる日を迎えた。
それは、家族3人にとっての新たな始まりだった。
◆2.余命三か月の宣告
NICU――新生児集中治療室。その名の通り、命の際に立たされた赤子たちが眠る場所。
剛が案内されたのは、産科病棟の奥、消毒液の匂いが強く立ち込める一角だった。足元にはスリッパが並び、ガラス越しに見える無機質な機器とチューブに囲まれた保育器たちが、不自然な静けさを漂わせていた。静かであることが、逆にここにいる命の脆さを物語っていた。
直樹と名付けられたばかりの赤ん坊は、その中の一つ、右から三番目の保育器の中で眠っていた。いや、“眠る”というよりも、“安定している”という表現の方が正しかった。体重は約一五〇〇グラム。皮膚はまだ透けるように薄く、全身に細い管が通され、機械が呼吸や心拍をモニタリングしている。
「こちらが……お子さんです」
剛の隣で、白衣を着た若い医師が静かに言った。剛は声も出せず、ただガラスの向こうに広がる世界を見つめていた。保育器の中にいるのは、確かに“我が子”であるはずだったが、その姿はどこか現実味を欠いていた。
「先生……この子は……大丈夫なんですか?」
しばらくの沈黙の後、剛が絞り出すように問いかけた。医師は目を伏せ、声のトーンをさらに落とした。
「……まず、お伝えしなければならないことがあります」
剛は無言のまま、医師の言葉を待った。医師は静かに保育器を見つめながら口を開いた。
「お子さんは、二分脊椎という先天性の障害を持って生まれています。背骨の一部が形成されず、神経が露出している状態です。感染のリスクが高く、すでに脊髄へのダメージも見られます」
剛はその説明をただ黙って聞くしかなかった。
「さらに……」
医師は躊躇した。剛の視線が彼を強く刺すように向けられていた。
「水頭症の兆候も確認されています。脳室に過剰な脳脊髄液が溜まり、頭部の内部圧が上がっています。このまま進行すれば、脳の発達や生命維持にも影響が出る可能性が高い」
そこまで聞いた時、剛の両手は震えていた。
「……生きられるんですか、この子は……」
やっとのことで絞り出された言葉は、どこか子どもじみた悲鳴のようでもあった。医師は、真っ直ぐに剛の目を見た。
「私たちもできる限りのことはします。ただ……医学的には、もって三ヶ月という見立てです」
“もって三ヶ月”。
その言葉は、剛の耳に残響のように染み込み、内側から崩れていくような感覚を引き起こした。
妻はまだ手術から目覚めていない。こんな話を、どうやって伝えればいいのか。
いや、その前に自分がこの現実をどう受け止めればいいのか。
保育器の中の直樹は、ただ静かに胸を上下させていた。
「まだ……生きてるんですよね」
剛がぼそりと呟いた言葉に、医師は頷いた。
「はい。生きています。今も、全力で闘っています」
その言葉を聞いた剛の目から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。
*
その夜、剛はNICUの面会室で一晩を明かした。眠ることはできなかった。椅子に座ったまま、窓の外の夜明けを迎えた。
冴えた空に、薄紅色の光が差し始めた頃、看護師が声をかけてきた。
「お父さん、奥さまが目を覚まされました」
剛は立ち上がり、病室へと向かった。
ベッドの上で、妻はまだ麻酔の名残で顔色が悪く、虚ろな目をしていた。剛が手を握ると、かすかに指が動いた。
「……赤ちゃん……どうだった……?」
その問いに、剛は一瞬言葉を失った。
数秒間の沈黙ののち、ゆっくりと語り始める。
「……小さいけど……ちゃんと、生まれたよ」
妻の目に、涙が浮かんだ。
「泣いたの……?」
剛は小さく頷いた。
「うん……最初は鳴かなかった。でも、途中で、小さく……ふうって、草が風で鳴るみたいな声で……鳴いた」
「そう……よかった……」
それ以上の言葉を、彼女は口にしなかった。
*
数日後、正式な診断結果が医師団から告げられた。
二分脊椎、水頭症、重度の下半身麻痺。
そして、「余命三ヶ月」という言葉は、正式な診断書の中にも記されていた。
そのコピーを手にした剛は、用紙を折りたたんでポケットにしまった。誰にも見せるつもりはなかった。ただ、自分ひとりで、その現実を噛みしめようと決めた。
「この子は……三ヶ月しか生きられないとしても、俺は……父親として、全部やる。悔いのないように」
病室に戻り、直樹の保育器に向かって剛はそう呟いた。
その時、直樹がほんのわずかに手を動かし、指が開いた。
剛の心は、なぜか静かに震えた。絶望の中に、かすかな希望が灯るのを感じていた。
“生きてくれ”という願いは、まだ消えていなかった。
それが奇跡の始まりだったことを、父・剛はまだ知らなかった。
◆3.母の離脱と父の葛藤
退院から三ヶ月が過ぎた頃。直樹の命は、医師の予想を裏切っていた。
生後三ヶ月で息を引き取ると宣告されたその子は、確かに弱々しいながらも、毎日を生きていた。剛と剛の母・冴子の二人三脚の看護体制が、その命を支えていた。
だが、そこに“母親”の姿は、次第に薄れていった。
退院直後の数日は、母・美智子も直樹の傍らにいた。だが彼女の視線は、保育器で眠っていたころの直樹を見る目とは、明らかに異なっていた。冷えた目線、触れるのをためらう指先。最初の一週間ほどは抱っこしようと試みたが、排泄の処理のたびに不機嫌な顔を浮かべ、やがて完全に介助から手を引いた。
そして、彼女の生活には、再び麻雀が戻ってきた。
昼間は家におらず、夜遅くに帰ってきては不機嫌な声で「うるさい」と吐き捨て、直樹の夜泣きにも耳をふさいだ。直樹が体を反らして泣くときも、美智子は布団をかぶって背を向けていた。
剛はそのすべてを見ていたが、仕事を理由に見て見ぬふりをした。
職場では「障害児の父親」としての立場が理解されず、減らした勤務時間を埋めるために夜勤や休日出勤を受け入れていた。結果として、剛自身も育児に直接関わる時間が減っていった。
直樹の世話は、ほとんど祖母の冴子が担った。
「もう、うちがこの子を見るわ。あんたたちに任せてたら、アカンわ」
冴子のその言葉に、剛は返す言葉を持たなかった。
*
それからの日々、家の中は二つに分断されていった。
一つは、冴子と直樹がいる部屋。もう一つは、美智子がいるテレビと煙草の匂いが染みついた部屋。
美智子は昼過ぎに起きてはコンビニ弁当をつまみ、着替えることもなく近所の雀荘へ出かけていく。赤子の泣き声が聞こえても立ち止まらない。剛が帰宅しても会話はなく、直樹の様子を尋ねても「あんたが見とけば?」と返される。
冴子は昼夜を問わず、直樹のお世話、ミルクの調整、褥瘡のチェックを欠かさなかった。
そんな生活が半年、そして一年、二年と続いた。
直樹は二歳になる頃には、上半身の筋力は比較的強く、喃語を発するようになっていた。「まんま」「あーあ」「ばーば」といった言葉は、冴子への明確な愛情の証だった。
だが、美智子の態度はますます冷たくなり、時折直樹に対しても「なんでこんな体で生まれたん」と呟くことさえあった。
それを聞くたびに、剛は拳を握り締めた。
直樹が三歳を過ぎたころ。剛は冴子にこう告げた。
「……もう、離婚しようと思う」
冴子は無言のまま頷いた。
「母親ってのは、本当なら一番の味方やなきゃいけんのや。でもあの女は……逃げてる。うちはもう、あの子と剛を守るだけや」
それから数ヶ月後、正式に離婚届が提出された。
直樹が四歳になった日。誕生日ケーキのロウソクを前に、冴子と剛が静かに笑っていた。
「ふーってしてごらん」
冴子の言葉に、直樹はゆっくり息を吸い込んで、力いっぱい「ふーっ」と吹いた。ロウソクの火が揺れ、冴子が手を叩いた。
「すごいなあ、ひとりでできたなあ」
その瞬間、剛の目に涙が浮かんだ。直樹が生まれた日、泣かなかったあの赤子が、今、自分の力で息を吐き、火を消すことができた。
この日を境に、母・美智子の存在は、直樹の人生から消える。
以降の記憶の中に、彼女の姿は影のようにしか残らない。
だがその空白の代わりに、祖母・冴子と父・剛の存在が、より深く直樹の心を支えていくことになる。
◆4.冴子の登場
冴子が本格的に育児と介護に乗り出したのは、直樹が退院して間もなくのことだった。
剛は日々の生活費を稼ぐため、休みも削り、夜勤と早朝勤務を繰り返していた。美智子はすでに家を空けがちで、直樹の吸引や排泄の世話をまるで「他人事」のように避けていた。
「ほっといたらアカンわ、ほんまに」
冴子がその一言を吐いたとき、剛はうなずくしかなかった。何も言い返せなかった。
それ以来、冴子は家に常駐し、昼夜を問わず直樹の世話を一手に引き受けるようになった。
*
冴子は、もともと働き者の気質だった。若い頃から八百屋の店番を切り盛りし、女手一つで剛を育て上げた。厳しさと優しさを併せ持つその性格は、誰からも「昔気質の女」と呼ばれていた。
彼女の看護は徹底していた。
「まずはこの子に、生きる癖をつけさせなあかん」
朝は必ず六時に起き、直樹の顔を拭き、体温を測り、ミルクの準備をする。ミルクは一度に飲ませすぎないよう、体重と便通の記録を日記に書き留める。おむつ交換のたびに皮膚の状態を確認し、少しでも赤みがあれば馬油を薄く塗った。
「褥瘡は命取りや。うちは看護婦やないけど、命を守るつもりでやっとる」
風呂は二日に一度、湯船には浸けず、座布団に直樹を寝かせて洗面器でぬるま湯をかけながら頭から足までゆっくりと洗っていく。
「この子には、この子のやり方があるんや。健常な子と比べたらあかん」
剛が帰宅すると、冴子はその日の記録を読み上げた。
「今日は排尿五回、うんちは二回。ミルクは四時間ごとに八十。朝からちょっと咳き込んどるけど、熱はなし」
剛は、黙ってそれを聞きながら、自分の無力さに押し潰されそうになっていた。
*
直樹が一歳を迎えるころには、冴子の手帳にはすでに数百ページの記録が並んでいた。
「この子は、生きようとしてる。うちがそれ、信じんで誰が信じるんや」
そう言いながら、冴子は一日に何度も直樹に声をかけた。
「なおちゃん、えらいな。ばあばの声、わかるか? あんた、聞こえとるなあ」
やがて直樹が「あー」「うー」と声を出すようになった頃、その音は確実に冴子の声かけに呼応するものだった。
「聞こえとる。返事しとるやろ、剛。あの子、返しとるで」
剛はその場で膝をつき、直樹の手を握った。
「なお……父ちゃんや。……わかるか?」
その声に直樹は小さく「あっ」と声を出した。
冴子はその瞬間、剛の肩を叩いて泣いた。
「この子、生きるで。絶対、生きる」
*
二歳、三歳と歳を重ねるごとに、冴子の存在は一家の中心になっていった。
通院には必ず冴子が付き添い、福祉相談にも自ら出向いた。医師や看護師、リハビリ担当のスタッフたちの名前もすべて覚え、直樹の身体に触れる全員に、必ず「お願いします」と頭を下げた。
「この子は、まだ話せんけどな、ちゃんとわかっとる。だから、痛いことは前もって言うたって。びっくりさせたらあかん」
その言葉に、病院のスタッフも自然と冴子を“おばあちゃん先生”と呼ぶようになった。
地域の中でも冴子の評判は広がっていった。
ある日、訪問看護師がこう言った。
「ほんと、冴子さんの育児、教科書に載せたいくらいです」
「なんやそれ、笑わせんといて。うちはただ、孫がかわいいだけや」
そう言って笑った冴子の目尻には、深いしわと強さが刻まれていた。
*
直樹が四歳を迎えた誕生日。
冴子はいつもより少しだけ華やかなエプロンをつけ、手作りのケーキを焼いた。
「なおちゃん、ろうそく、ふーするで。いっせーの、ふー!」
直樹は肺に力をためて、短い呼気を吹きかけた。
ロウソクの火が、ゆらりと消えた。
剛は、何も言えずに目頭を押さえた。
冴子は、直樹の両頬に手を添えて、にっこり笑った。
「生きてる。それだけでええ」
祖母という枠を超え、母であり、看護師であり、教師であり、何よりも命の支えとして、冴子はそこにいた。
◆5.育児放棄の現実と冴子の支え
退院から数ヶ月が経った頃、家の中は目に見えて崩れ始めていた。
美智子の育児放棄は、もはや言い訳のしようがなかった。
最初は「慣れないから」と逃げていた彼女だったが、徐々に家にいる時間が減り、ついには朝から雀荘へ通うようになった。直樹のミルクの準備も、排泄の処理も、痰の吸引も、彼女が関わることはなくなった。直樹が泣いても、「また泣いとるわ」とテレビの音量を上げてやり過ごした。
剛は、仕事に逃げていた。美智子の言葉に言い返す気力もなく、職場での「家族を支える父親」という立場を保つことで、自分を保とうとしていた。
だが、冴子は見逃さなかった。
「このままやと、あの子はほんまに病気になってまう。うちがついとるからって、あんたらが逃げてええわけやない」
ある夜、冴子は剛を台所に呼び出し、茶碗を洗いながら背中越しにそう言った。
剛は、黙ってうなずいた。
*
冴子は、美智子に直接言葉をぶつけたこともある。
「なんでこの子に触れへんの。泣いたってええ、間違えたってええ。親やったら、向き合わなあかんやろ」
だが美智子は、灰皿に煙草を押しつけるようにして言った。
「もう、疲れたんよ。こんな人生、思ってなかった。こんな子、産むつもりなかった」
その言葉を聞いた冴子は、美智子の頬を張った。
音は小さかったが、台所にいた剛が息を飲むほど、重い空気が流れた。
「……うちは、この子が生まれてきてくれて、良かったって思ってる。あんたの代わりに、この子を育てる。せやから、出ていき」
それが、美智子との最後の会話になった。
*
美智子が家を出てから、冴子の毎日は激しさを増した。
朝5時に起き、直樹の体を拭き、体温を測り、ミルクを作り、薬を仕分ける。直樹は上半身は健康だったが、下半身はまったく反応がなかった。二分脊椎による神経の損傷と、水頭症による脳圧の管理――それらを踏まえた上で、日々のケアを一つずつこなしていく。
おむつ交換のたびに皮膚の異常を確認し、褥瘡ができぬよう慎重に寝返りを打たせ、痰の吸引を時間ごとに行う.
それでも冴子は一度も弱音を吐かなかった。
「この子には、生きる力がある。見てみい、この目の色。ちゃんと、生きようとしてる目ぇしとる」
直樹はやがて「あー」「んー」といった音で返事をするようになり、冴子が顔を覗き込むと、薄っすらと笑うこともあった。
「なおちゃん、笑うてくれたなあ。……かわええなあ」
その声に、剛はようやく息を吐いた。
「……母さん、ありがとう」
冴子は、それに首を振っただけだった。
「礼なんかいらん。うちはこの子のばあちゃんや。それだけや」
*
三歳を迎えるころには、冴子の介護記録は三冊目に突入していた。通院記録、排泄・摂取記録、症状ごとの発生時間、医師の言葉の逐語録——どれもびっしりと文字で埋め尽くされていた。
それを見た訪問看護師が感嘆した。
「すごいですね、ここまでできるご家庭、なかなかないです」
「うちは専門家やない。けど、孫の命かかっとるんや。そんだけや」
冴子は決して取り乱さず、病院でも「おばあちゃん先生」と呼ばれるようになっていた。
だが、冴子が何よりも信じていたのは、直樹自身だった。
「この子が生きとるのは、この子が生きたいって思っとるからや。うちはそれに応えとるだけや」
直樹は三歳半の頃、初めて「ばーば」とはっきり口にした。
冴子は、その場で泣き崩れた。
「ありがとうなあ……。ばあばのこと、覚えてくれてるんやなあ」
その声は震え、部屋にいた剛までもが目頭を押さえた。
*
直樹が四歳を迎えた日、美智子はついに離婚届に判を押し、二度とその家には戻らなかった。
その日、冴子は静かに言った。
「……これでええ。うちがこの子の母親になる」
その決意は、もう誰にも覆せなかった。
冴子は、育児放棄という現実の中で、絶対的な支柱としてそこに立ち続けていた。
◆6.初めての笑顔
四歳の誕生日を過ぎて間もない頃、直樹の表情が、ふとした拍子に変わった。
冴子はその変化に、すぐに気づいた。
「なおちゃん、今、笑うた?」
直樹は、恥ずかしそうに目をそらした。
「……うん、ちょっとだけ」
その返事に、冴子は胸が熱くなった。
普通に話せる直樹は、上半身の自由もあり、冴子の問いかけには明瞭な言葉で返してくれるようになっていた。しかし、“笑顔”だけは、これまで一度として冴子が明確に目撃したことがなかった。
泣くことはあった。うなることもあった。短く笑うような声は聞こえることもあったが、それが「笑顔」であるかどうか、冴子には確信が持てなかった。
その日は違った。
直樹の顔は、確かにほころんでいた。
*
冴子はすぐに日記に書き留めた。
「四歳一ヶ月六日、直樹、鏡を見て初めて笑顔らしき表情」
文字が揺れていた。冴子は、手の震えを抑えられなかった。
「なおちゃん、もう一回、笑ってくれへん?」
直樹は少し考え込むような顔をしてから、口元を上げた。
「あは……ばあば、見てたの?」
「見とったよ。ずっと見とった。あんたの顔、ずっとや」
それからの数日間、冴子は鏡を毎朝直樹の顔の前に置いた。
「今日も、自分に『おはよう』言うてみ?」
「おはよう、なおき」
その言葉と同時に、直樹の口元が自然とほころぶ。
その笑顔は、もう疑いようがなかった。
*
冴子と剛は、その日の夕方、居間で話していた。
「なお、笑えるようになったんか?」
「うん。言葉に合わせてな、顔まで動くようになってきた。声だけやのうて、表情もついてきた」
「……すごいな」
「この子、笑う準備はもうとっくにできとったんや。ただ、笑う理由がなかっただけや」
剛は何も言わなかった。ただ、小さくうなずいた。
*
その後、冴子は直樹との「会話」に、少しずつ遊びの要素を取り入れていった。
「なおちゃん、ばあばの顔、どう思う?」
「しわ、いっぱい」
「こら!」
「でも、やさしい顔。だいすき」
そのやりとりに、剛が思わず笑い出した。
「なお、おまえ……そんなこと言えるようになったんか」
「うん。僕、ちゃんと話せるし、ちゃんと見てる」
「……そうやな」
剛は、冴子と直樹の間に割り込むようにして、ふたりの手を取った。
「笑顔、ありがとな」
*
訪問看護師がやってきた日、直樹は最初から最後までにこにこしていた。
「なおちゃん、今日はずっと機嫌ええね」
「うん。お姉さん来るの、わかってた」
「わー、すごい。今日は何してたの?」
「パズルと、ひらがなれんしゅう。あと、鏡で笑うれんしゅう」
看護師は思わず吹き出した。
「えらいなあ。笑顔のれんしゅうって、大人でもむずかしいよ」
「でも、ばあばが、『笑顔はくすりや』って言ったから」
その言葉に、冴子の目が潤んだ。
「そうや。なおちゃんが笑うたら、ばあば、元気になるんやで」
*
笑顔は、やがて家族の日常に欠かせないものになっていった。
食事のとき、トマトを嫌がる直樹に冴子が言う。
「笑いながら食べたら、トマトもあまなるで」
「ほんま?」
「やってみ?」
直樹は眉間にしわを寄せながら、笑顔をつくってトマトを口に入れる。
「……にがいけど、おもしろい味」
「ほらな。味が変わるんや」
*
四歳七ヶ月。直樹は冴子に絵をプレゼントした。
そこには、笑っているばあばと直樹が並んで描かれていた。
「これ、ばあば。こっち、ぼく」
「うわあ……なおちゃん、これ、ばあば一生のたからもんや」
「ずっといっしょに、わらってような」
「うん。ずっといっしょや」
*
笑顔が生まれたこと。それは、冴子にとっても、剛にとっても、何より直樹自身にとって、生きる理由のひとつになっていた。
そして、直樹が自分の「生きる意味」を、自分の言葉で語れる日が、そう遠くないことを、冴子は感じていた。
◆7.歩行の兆し
医師の言葉と、祖母の直感
直樹が五歳を迎えた春。庭のつつじが一斉に咲き誇る中、冴子は、いつものようにリビングの床に敷いたマットの上で直樹のリハビリをしていた。
下半身麻痺。医師からは「歩行の可能性は限りなく低い」と何度も言われてきた。
けれど冴子は、諦めなかった。歩ける・歩けないではなく、「立とうとする力」を引き出すことが大切だと信じていた。
「なおちゃん、今日は背筋、しっかりしてみよか」
「うん、がんばる」
直樹は上半身を支えにして、肘を突きながら少しずつ体を持ち上げる。
その姿勢を維持するのは、簡単ではなかった。
けれど冴子は、手を差し出すことなく、そっと見守った。
*
ある日、冴子は小児科のリハビリ担当である理学療法士・柴田と相談した。
「下半身は感覚も動きもないです。でも、体幹と腕の力で、移動動作は覚えられるかもしれません」
「ハイハイの発達も抜けてるけど、座位保持はしっかりしとるし、上半身の筋力はかなりあるやろ?」
「はい。椅子からベッドに手を使って移れるようになってきてます」
「それやったら、パラポディウムやな」
「……立位補助器?」
「そう。下肢に装具つけて、骨盤と膝を固定するんや。で、体重をかけて“立たせる”だけでも、視野が変わる。脳が、“歩く”ことを想像し始めるんよ」
冴子は、その提案に即座にうなずいた。
*
パラポディウムが届いた日、直樹は初めて“立った”。
もちろん、自力ではなかった。背中には支柱があり、足には装具、肩には補助のストラップ。
けれど、それでも彼の視線は、床よりも高い場所にあった。
「なおちゃん、どう? 立っとるよ、今」
「……うん。すごい。なんか、ちがう」
「そうやろ? おとなの世界に入った気がするやろ」
直樹は、少しの間黙ってから、はっきりと答えた。
「ぼく、ここからあるきたい」
冴子はその言葉に、涙をこらえながらうなずいた。
「いけるよ。歩けるかどうかやない。歩きたいって気持ちが、大事なんや」
*
パラポディウムに慣れてきた頃、直樹はわずかに前後に揺れるようになった。
手すりを掴み、片手を放し、手を前に出す。
その動きは、足が一歩前に出るのを補う“代替行動”だった。
柴田は言った。
「この揺れが、“歩く”っていう行動の第一歩なんですよ」
「なるほど……自分の体の中にある“動くイメージ”を呼び起こすんやな」
「ええ。直樹くん、めっちゃ意識してます。すごい集中力です」
冴子は感無量だった。
*
それからというもの、冴子は直樹に「足を意識させる」声かけを徹底した。
「なおちゃん、足にも“こんにちは”って言ってみ?」
「こんにちは、あしさん」
「動かんかもしれへん。でも、ちゃんとあるんや。そこに“ある”ってことが大事やねん」
「うん。ぼくの足、ここにいる」
毎朝、冴子と直樹は足に触れ、マッサージをした。
冷たい足先。感覚はないはずなのに、直樹は言った。
「ばあばの手、あったかい」
その言葉を聞いたとき、冴子の心はふるえた。
たとえ神経がつながっていなくても、心はちゃんと“つながっている”――その証だった。
*
秋になり、直樹はパラポディウムでの歩行訓練に加え、両腕を使っての「いざり移動」も覚えた。
床を這うようにして、自力で目的の場所まで移動する。
「ばあば、みてて! ぼく、トイレまでいけるよ!」
「おおー、すごいやん!」
冴子は拍手した。
「なおちゃん、足が動かんでも、こうして動けるってすごいことや。自分の力で進めるって、ほんまに大事なことなんよ」
「うん。あるけなくても、ぼく、うごける」
*
その日から、直樹は「歩く」という言葉を、「自分の力で動く」という意味で使うようになった。
「今日、幼稚園で『あるいた』」
「どうやって?」
「いざりで。マットの上、さいごまでいった」
それを聞いた剛は、仕事帰りに買ってきたプリンを差し出した。
「なお、がんばったな。これ、ごほうびや」
「わーい! ありがと!」
冴子は剛を見つめ、小さくうなずいた。
父と子がつながっていく様子に、胸がじんとした。
*
歩行の兆し。それは、筋肉や神経だけではなく、直樹の「こころ」と「ことば」、そして周囲の「まなざし」が育てたものだった。
いつか本当に歩ける日が来るかもしれない。来ないかもしれない。
それでも、直樹は確かに「歩こう」としていた。
その姿こそが、なによりの証だった。
◆8.未来の輪郭
直樹が五歳半を迎えた頃、家庭裁判所から一通の通知が届いた。
「母親・美智子との離婚が正式に成立」
その文面を見た冴子は、長く張り詰めていた糸がふっと緩むのを感じた。
「これで、ほんまに……なおちゃんの人生が始まるんやな」
直樹はまだその言葉の重さを理解していなかったが、冴子と剛の間に漂う静かな安心感は、彼の心にも伝わっていた。
それは“家族”が、ようやく形になった瞬間だった。
*
離婚成立後、冴子は一つの決断を下した。
「このまま、この家で直樹を育て続けるのは限界や。もっと、静かで、安全な場所へ行こう」
剛もその意見に賛成した。
「職場には事情を話す。少し遠くなるけど、毎日帰れる距離や。なおの環境を第一に考えよ」
それから約一ヶ月後、三人は県をまたいだ郊外の町に、古い一軒家を借りて引っ越した。
自然に囲まれた小さな家。段差の少ない玄関、広めの浴室、庭には少し手を加えればスロープも設けられる。
「ここが、新しいおうち?」
直樹が玄関の引き戸を見上げてそう尋ねた。
「そうや。今日から、ここが“家族の場所”になるんや」
冴子の言葉に、剛もうなずいた。
「三人で、新しい毎日をつくっていこな」
*
引っ越してからの日々は、以前にも増して穏やかだった。
冴子は地域の福祉支援員とつながり、訪問リハビリや通所型の療育施設を紹介してもらった。
直樹は週に二度、その施設に通い始めた。
ただ、その頃に入園した保育園では、直樹には友だちが一人もできなかった。
車椅子での生活や、思うように動けない身体に、周囲の子どもたちはどう接すればよいのかわからなかったのだ。
「なおきくんは、いつもひとりでお絵描きしてるね」
「お歌の時間も、隅のほうで見てるだけやね」
先生たちはできる限り寄り添おうとしてくれたが、日常的な関わりの中で自然と輪に入っていくのは難しかった。
冴子は、その様子を見て胸を痛めた。
「なおちゃん……さびしくないか?」
「ううん。ぼく、だいじょうぶ」
けれど、夜眠る前になると直樹は時折、ぽつりとつぶやくことがあった。
「……ぼくも、いっしょにあそびたかったな」
その言葉に、冴子は掛ける言葉を失った。
*
春が来た。
直樹は、地域の小学校の普通学級に入学した。
「支援」ではなく「共に学ぶ」ことを選んだその挑戦に、冴子も剛も不安と期待を抱えていた。
けれど、直樹はたくましかった。
一年生から五年生までは、補助の先生のサポートを受けながら、周囲の友だちと同じ教室で学んだ。
「なおきくん、漢字テスト、満点やん!」
「ほんまや、がんばったな!」
「ありがとう。おぼえるの、たのしいもん」
教室では時折、足の不自由さゆえに動きづらい場面もあったが、友人たちが自然に手を貸してくれた。
「なおき、ノートとったるで」
「ありがとう! ぼく、読むとこ声出すから、いっしょにしよ」
そんなふうにして、直樹は自分のやり方で学びの輪の中に加わっていった。
保育園時代には一人もいなかった“友だち”が、ここで初めてできたのだった。
*
六年生に進級した春、学校から冴子のもとに相談があった。
「なおきくん、今後の中学進学を見据えて、一年間だけ特別支援学級で、個別の準備を進めてはどうでしょう」
その提案を、冴子も剛も、直樹自身も受け入れた。
「新しいこと、もっとできるようになるなら、やってみたい」
そう言った直樹の表情は、希望に満ちていた。
その一年間、直樹は自立活動の時間を通じて、車椅子での自力移動訓練や、ICT機器の操作、自分の身体についての学習を深めていった。
*
直樹は、将来について語るようになった。
「ぼく、将来は、ひとのためになるしごとがしたい」
「どんなこと?」
「ぼくみたいな人が、楽しく生きられるようにするしごと」
「ええなあ。なおちゃん、きっとできるで」
「だって、ばあばがいっしょにおってくれるもん」
その言葉に、冴子は何も返せなかった。
涙が、頬を伝っていた。
*
直樹の未来は、まだ不確かな形だった。
けれど、確かにその「輪郭」は、少しずつ浮かび上がってきていた。
歩けなくてもいい。誰かと同じでなくてもいい。
自分の言葉で、自分の夢を語れる――それこそが、生きている証だった。
冴子も剛も、直樹の描く未来を信じていた。
「なおちゃん、これからも、いっぱい話聞かせてな」
「うん。ぼくの夢、もっともっと、ふくらむから」
第一章 完
僕は、生まれつき「下半身麻痺」という個性(障がい)を持っていますが、外国語にも興味を持っているので、僕の作品には日本語はもちろん、「外国語21言語」を用いて書きたいと思っていますので、以後お見知りおきを。
(詳細対象21言語=アメリカ&イギリス英語・アラビア語・イタリア語・インドネシア語・ウクライナ語・ギリシャ語・スウェーデン語・スペイン語・チェコ語・ドイツ語・トルコ語・ハンガリー語・フィンランド語・フランス語・ベトナム語・ポーランド語・ポルトガル語・ロシア語・韓国語・中国語(簡体字&繁体字)