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『白雪姫の継母』が、悪役令嬢に転生しました。

 

「白雪姫を害そうとした罪により──王命にて、今ここに火刑を執行する」


 熱い。


 焼けつくような灼熱が、足元から這い上がってくる。


 鉄の靴は真紅に染まり、皮膚を焼き、骨をも灼いてなお、容赦なく彼女の足を包んでいた。



「やめて……もう……!」


 どれだけ叫んでも、誰も止めてはくれない。

 王の命令。白雪姫の継母への刑罰。

 それが、この“燃える鉄の靴を履いて踊り、死に至るまで人々の前に晒される”という、悪役への最期だった。


 嘲笑が飛ぶ。

 蔑む視線が突き刺さる。

 彼女を美しいと讃えた人々はもういない。



「どうして……どうして、こんな……」


 かつて、鏡が映してくれたのは世界一美しい女の姿だった。


 だが、今、観衆の瞳に映るのは、焼けただれ、涙と汗でぐしゃぐしゃになった醜い自分。


『お前は、世界でいちばん、美しくない』


 ──誰かの声が、心の奥でささやいた。


「……私は……間違っていたの……?」


 白雪姫を憎んだ。

 若さを、無垢を、美しさを、何より“自分を超える存在”であることを認められなかった。

 だから、すべてを壊した。

 奪おうとした。殺そうとした。


 虚栄に囚われた女の末路。

 それが今の、この惨めな姿。



(せめて……)


 足が砕け、意識が遠のくなかで、彼女はひとつ、願った。


(もし、生まれ変わることができたのなら……違う生き方を──)


 その瞬間、視界が、真っ白に染まった。



 ◆


 熱いはずの痛みが、どこにもなかった。


 目覚めた瞬間、彼女は息を呑む。天井には金の装飾が施され、ふかふかの天蓋付きベッドに横たわる自分の身体は、軽く、健康そのものだった。


 ──ここはどこ?


 見知らぬ天井。異国の香。触れたシーツの感触さえ、記憶にない。



 ゆっくりと身を起こし、ベッド脇に立てかけられた鏡へ近づく。そこに映るのは、白磁の肌、波打つプラチナブロンドの髪、紫紺の瞳を持つ少女。


「……これが……わたし……?」


 あまりにも美しいその顔に、彼女は言葉を失った。


(前よりも若い……いや、これは別人?)


 ふと、焼け付くような痛みの記憶が脳裏をよぎる。鉄の靴。民衆の嘲笑。


 そして、最期に願った──


(せめて、もう一度だけやり直せるのなら……)


 ──その願いが届いたのだと、彼女は理解した。



「また、美しさを与えられたのね……でも、今度は──」


 その言葉に、かすかな決意がこもる。


「使い方を、間違えない」


 その時、控えめなノックが響いた。



「クラウディア様、朝のお支度のお時間です」


 クラウディア──


 その名を聞いた瞬間、胸の奥にすとんと何かが落ちる。思い出せなかった名が、今、この身体の中にしっくりと馴染んでいく。


(そうか……私は、今世ではクラウディア・エーベルシュタイン……)


 侯爵家の一人娘。

 悪名高き美貌の令嬢。

 社交界では“高慢で気まぐれな女”と囁かれ、笑顔ひとつで他人を蹴落とすとまで言われていた。


 ──そんな女が、もう一度人生をやり直すというのなら。


「……それでも、構わないわ」


 彼女は小さく微笑んだ。


「クラウディアとして、この人生を歩いてみせる」



 扉を開けて入ってきたのは、無表情で背筋の伸びた少女──リサ。


「おはようございます。ご気分はいかがですか」


 その後ろから続いて入ってきたのは、白髪をきっちり結った老女官──マティルダ。


「まぁまぁ、お嬢さまが朝から穏やかなお顔をなさっているなんて。これは雨でも降りますね」


「マティルダ……リサ……」


 その顔を見て、彼女は自然と安堵の息を吐いた。


 ──前の人生では、誰一人として、自分に最後まで寄り添ってくれる者などいなかった。


 この二人がいるなら、きっとやり直せる。


 たとえ“クラウディア”がどんなに悪名を背負っていても──


 彼女はそう思えた。



 ◆


 春の祝祭が始まり、社交界はきらびやかな活気に包まれていた。


 だが、その中心に立たされるクラウディア・エーベルシュタインの心は、氷のように冷たかった。


「相変わらず美しいこと。まるで人形のようね」

「でも、笑った顔を見たことがあるかしら?」

「媚びを売るような素振りをし始めたって、今さら遅いわよ」


 貴族令嬢たちの囁き声は、どこにいても聞こえてくる。いや、聞こえなくても視線が語っていた。



 ──ああ、これは、かつての私だ。


 誰かの靴を、ドレスの裾を、髪型の乱れを、値踏みして見下していた。

 今は、それを自分がされている側。


(人の視線が、こんなにも刺さるものだったなんて……)


 夜会の場でも、変わろうとした。

 微笑み、礼儀を尽くし、心から挨拶した。

 けれど、返ってくるのは冷たい視線と軽薄な作り笑い。



「ねえ、見た? あれで“変わった”つもりらしいわよ」

「この前まで高慢だったくせに、今さら好かれたいの? 可哀想」


 空気が重い。

 立っているだけで、息苦しい。


 だが、それでも彼女は微笑みを崩さなかった。


(……そう。これが、今の私の立場)


 怒りが、込み上げる。

 だが、それ以上に胸に広がったのは、凍てついたような理解だった。


(また私は──誰かを見下し、今、見下される側になった)


 彼女は背筋を伸ばし、その場を静かにあとにする。


 微笑みは消え、足取りはゆるやかで、どこまでも孤独だった。



 屋敷に戻ったクラウディアは、まっすぐ自室へと向かった。


「お帰りなさいませ、お嬢──」


 出迎えようとしたマティルダの言葉を、手を挙げて静かに制する。


「……ごめんなさい。今日は、少しひとりでいたいの」


 それだけ言って、背を向けた彼女に、マティルダは深く何も問わず、ただ一礼して見送った。


 部屋に戻ると、クラウディアは重く扉を閉めた。

 そしてゆっくりとドレスのボタンを外し、化粧を落とし、身軽になった身体を椅子へと沈める。


 ──鏡の前。


 そこに映るのは、淡く紅を引いた瞼、紅潮した頬、けれどどこか張り詰めた笑顔の名残り。



「……手遅れだったというの? また、私……駄目だったの?」


 つぶやく声が、震えていた。

 気づけば頬を伝う涙が、静かに膝に落ちる。


「それでも……まだ、変わりたいのに」


 顔を覆って、声を上げて泣いた。

 夜の静寂に、嗚咽だけが微かに響いた。


 ──あの夜、焼け焦げた鉄の靴の中で願ったこと。


 “もう一度やり直せるのなら、今度は違う生き方をしたい”


 それは、ただの希望だった。

 でも、今は違う。


 鏡の中の自分を、もう一度見つめる。



「私は……私を、まだ赦せない。でも、それでも──」


 少しだけ、唇を噛みしめる。


「それでも私は、誰かを愛せる人になりたい」


 その言葉が、部屋の空気にゆっくりと染み込んでいく。



 翌朝。


 クラウディアは鏡の前に立ち、目元の腫れを隠すようにそっと化粧を施す。


 リサが部屋に入ってきたとき、彼女はすでに椅子に座り、髪をきちんと結い終えていた。


「……おはようございます」


 クラウディアは、微笑んでいた。


 その笑顔は、どこかぎこちなく、それでも確かな強さを宿していた。



 ◆


「お嬢さま、たまには人前にお姿をお見せになってはいかがです?」


 そうマティルダに勧められたのは、前日のことだった。


「この機会に、あなたがどれだけお変わりになったかを少しずつでも皆様に……」


 確かに、隠れてばかりでは何も変わらない。


 ──だからこそ、クラウディアは出向いた。


 あくまで“視察”という名目で、無理をしてまで表に出てきたわけではない。そんな言い訳を胸に抱きながら、彼女は貴族主催の慈善市へと足を運んだ。



 慈善市とは、貴族たちが庶民のために資金を募り、品物を出品して販売する社交と奉仕が入り混じった催しである。


 出品されるのは使用しなくなった小物や布製品、本など様々で、貴族たちの“人柄”や“育ち”が問われる場としても知られていた。



 春の陽差しがやわらかく降り注ぐ広場。

 絹のテントが揺れ、香り立つ焼き菓子と音楽が空気を彩っている。


 深紅のドレスに身を包み、人々の間を歩くクラウディアは、ひとつの屋台の前に足を止めた。


 そこでは、平民の夫婦が手作りの布人形を並べて売っていた。妻と見られる女性が懸命に声を張り上げている。



「これ、ウチの子たちが作ったんです! 一つ一つ違う表情なんですよ!」


「まあ……よくできているわね」


 クラウディアはしゃがみこみ、丁寧に一つの人形を手に取った。


「この子、少しだけ怒っている顔ね。でも、それも可愛いわ」


 夫婦は揃ってぽかんとクラウディアを見上げ、やがて安堵の笑顔を浮かべた。



 そのやりとりを見ていた貴族たちが、遠巻きに囁く声を潜めないまま広げていく。


「見て、平民と話してるわよ」

「昔は使用人ですら突き飛ばしていたのに」

「今さら慈善だなんて、何のつもりかしら」


 そんな声が、あちこちから聞こえてくる。


(……慣れたわ。今さら傷つきはしない)


 心の中で言い聞かせ、クラウディアはそっと会場を抜けようと踵を返した——そのときだった。



「きゃっ!」


 小さな影がぶつかってきた勢いで、クラウディアの体はぐらりと揺れ、次の瞬間には地面に倒れていた。


「い、いた……」


 転んだ衝撃に顔をしかめながら、ふと胸元に目をやると、そこにしがみつくように小さな少女がうずくまっていた。


「ご、ごめんなさい……!」


 震える声。

 真っ白なドレスに泥がつき、大きな瞳に涙が浮かんでいる。


(……この子、白雪姫にどこか似ている)


 クラウディアは息を呑んだ。


 少女の髪は淡い金色で、まるで春の陽光をそのまま閉じ込めたようだった。


 周囲が静まり返る中、クラウディアはゆっくりと起き上がり、その小さな体をそっと抱き寄せた。



「大丈夫よ。怪我はない?」


 少女はきょとんとした顔でクラウディアを見上げる。


 その頬に泥がついているのに気づいたクラウディアは、そっと指先でそれを拭いながら、優しく微笑んだ。


「あなたの可愛い顔に泥がついたら、もったいないわ」


 その瞬間、少女の表情がぱっと明るくなった。


「……ありがとう、お姉さま!」


「お……姉さま……?」


 クラウディアは軽く面食らったが、すぐに苦笑する。


(お義母様と呼ばれることはあっても、お姉さまと呼ばれるのは初めて……まぁ、それでいいわ)



 会場のあちこちから、どよめきが起こる。


「あのクラウディアが……子どもを抱きしめた?」

「嘘でしょう……見間違いじゃないの?」

「しかも笑ったわよ、今……!」


 騒めく声の中、クラウディアは少女の手を取って立ち上がる。



「さあ、あなたのご両親はどこかしら?」


 少女は元気よく答えた。


「わたし、エリナ! エリナ・フォン・グリムベルグ! お父さまは、あそこ!」


 その指さした先には、重厚な軍服姿の男がこちらを凝視していた。


 クラウディアは内心で、静かにため息をついた。


(……なんだか、面倒なことになりそうね)



 ◆


 数日後、クラウディアのもとに一通の書状が届いた。


 差出人は、公爵レオポルト・フォン・グリムベルグ。



『先日は、娘エリナが粗相をいたしましたこと、父としてお詫び申し上げます。本人がどうしても、再びクラウディア嬢にお会いしたいとせがむもので──ご迷惑でなければ、ひとときだけでも、お茶会の席をお設けいただけますと幸いです』


 丁寧な筆跡。

 だが、文面の端々から滲み出る“父親としての恐縮”が見て取れた。


「……娘にせがまれた、ね」


 クラウディアは苦笑しながら、書状を畳んだ。



 そして当日、屋敷にはふわふわのドレスに身を包んだエリナが、大きな包みを抱えてやってきた。


「お姉さま! これ、私が作ったの!」


「まぁ……あなたが?」


 差し出された包みの中には、いびつな形の焼き菓子が詰められていた。

 明らかに手作りのそれは、リンゴの香りを漂わせながらも、どこか不穏な見た目をしていた。


 使用人たちが息を呑む中、クラウディアはひとつをつまんで口に運んだ。



「……うぐっ……」


 一瞬、表情が引きつった。


(なぜ、リンゴが……こんなにも酸っぱいの……まさか毒? いや、そんなまさか)


 周囲の空気が凍りかけたそのとき、クラウディアはゆっくりと目を細めて微笑んだ。


「ふふ……甘ったるいお菓子には、食べ飽きてましたの」


「ほんとっ!? よかったぁぁ!」


 エリナはぱあっと顔を輝かせて、クラウディアに抱きついてきた。


「また作ってくるね、お姉さま!」


「……ええ、楽しみにしてるわ」



 クラウディアの返事に、使用人たちは静かに騒然とした。


「クラウディア様が……全部食べた……?」

「むしろ褒めた……!」

「奇跡だわ……!」


 そんなざわつきを他所に、エリナは無邪気に質問を重ねてくる。



「ねえ、お姉さま、どうしてお口に赤いの塗ってるの?」


「それはね、より美しくなるためよ」


「ふえぇ……! わたしも塗ったらお姉さまみたいになれるかな……?」


「ふふ、それにはまだ十年早いわね」


 クラウディアはそう言って、そっとエリナの髪を撫でた。



 部屋の隅でメイドたちがそろって震えている。


「ご、ご機嫌……ですね……」

「むしろ私たちの方が緊張するんですが……」


 お茶会の席は、予想に反して、あたたかな笑いに包まれていた。



 そんな雰囲気の中、扉がノックされる。


「失礼いたします。グリムベルグ公爵閣下がお迎えに参りました」


 その声に、クラウディアが振り返るより先に、エリナが椅子から飛び降りた。


「お父さまーっ!」


 駆け出していくその勢いのまま、廊下へ飛び出していく。


 慌ててクラウディアも立ち上がると、扉の外には軍服姿の男性が静かに立っていた。



「……このたびは、娘が世話を掛けました。重ねて、感謝申し上げます。クラウディア嬢」


 レオポルト・フォン・グリムベルグ。エリナの父であり、公爵としての威厳を湛えた鋭い眼差しの持ち主だったが、その瞳の奥にはどこか情の深さが滲んでいた。


 口数は少なく、言葉選びもどこかぶっきらぼう。だがその一言一言は、誠実で真っ直ぐだった。



 クラウディアは涼やかに一礼した。


「ご機嫌よう、公爵閣下。娘さんは……大変、肝が据わっていらっしゃるようで」


「……この子は天使の顔をしてますが、腹の据わりようは下手な士官より上です」


 呆れたような声に見えて、どこか誇らしさも混じっている。まるで、厄介だが目に入れても痛くない娘の話をする父親のそれだった。


 エリナはというと、父の手を引いて「ねえねえ、お姉さまね、わたしのアップルパイ全部食べてくれたの! 笑ってくれたのよ!」と無邪気に喋り続けている。


 レオポルトは娘の饒舌ぶりに、まるで訓練中の兵士に振り回されるかのような顔で一度だけ眉をひそめ、クラウディアへと頭を下げた。



「あの子が、誰かにここまで懐くとは思いませんでした。妻がこの世を去ってから、常にふさぎ込んでいたので……感謝します、クラウディア嬢」


「まあ。それは名誉なことですわ」


 応じながら、クラウディアはふと彼の横顔を見る。

 寡黙で無骨、だが言葉選びには品がある。不思議な男だと思った。



「この子のためにもと、再婚を勧められるのですが……誰も彼もが公爵夫人という立場を狙っているのがあからさまで。エリナを愛そうという令嬢は誰一人いない」


 ふいに、そんな本音が漏れた。


 クラウディアは小さく片眉を上げた。


「……私は元より、愛など知りませんの。それに公爵夫人の座を狙うつもりもありませんわ」


「でしょうな」


 言葉は棘があるのに、不思議と嫌味にならない。


 ふとした沈黙。けれど、それは気まずさではなく、どこか穏やかな間だった。



「……娘が、またお世話になるかもしれません。その節は、どうかよろしく」


「歓迎いたしますわ。唯一私と仲良くしてくれるご令嬢ですもの」


 二人の間に、わずかな微笑みが交わる。


 まだ恋とは呼べない。けれど、それは確かに、何かの始まりだった。



 ◆


 その後、クラウディアの周囲に、わずかな変化が起き始める。


「この前の慈善市で見たのよ。あのクラウディア嬢が、子どもを抱きしめていたの」

「笑ってたのよ。目元が、ふわっとしてて……まるで別人だったわ」


 驚きと戸惑い、そして好奇。

 社交界で彼女の名を口にする者たちの声色は、ほんの少しずつだが変わっていった。



「冷酷令嬢の仮面を脱いだってことかしら」

「それとも……あれが本当の顔だったの?」


 中には、目を細めて静かにその変化を見守る者もいれば、快く思わない者もいた。



「まぁ、結婚もしていないのに、子どもの扱いが上手いなんてねぇ」


 皮肉屋で知られる侯爵夫人が、わざとらしい笑みを浮かべてクラウディアに話しかけてきたのは、次の夜会でのことだった。


「えぇ、子どもじみた貴族の扱いも、手慣れておりますのよ?」


 クラウディアが即座に切り返すと、侯爵夫人の頬がぴくりと引きつる。


「すっかり毒が抜けたかと思いましたのに……!」


「えぇ、毒の扱いは得意ですの。こっそり仕込むことは、特に」


 にっこりと微笑んで侯爵夫人の持つワイングラスを見つめるクラウディア。


「……っ!」


 彼女は顔を引きつらせ、ワイングラスをそっとテーブルに戻した。


 近くでやりとりを見ていた若い貴族たちは、笑いをこらえるのに必死だった。


 クラウディアはそのまま、何事もなかったように杯を傾ける。


 ──少しずつ、ほんの少しずつ。


 確かに変化は訪れていた。



「……でも」


 舞踏会の隅、カーテンの陰。


 クラウディアは胸元を押さえて、そっと呟いた。


「また、すべてが壊れたら……どうしよう」


 変わりたいと願い、変わろうとしている。


 けれどその先にあるものが、また失望で終わるのではないかという不安が、心の奥に巣食っていた。


 その不安すらも、隠すように。


 クラウディアは、今夜も美しく、そして凛として笑った。



 ◆


 その同じ舞踏会会場──


 セシリア・ランベールは、煌びやかなドレスに身を包み、完璧な笑みを浮かべながら貴婦人たちの輪の中心にいた。


「まぁ、可愛らしいこと。子どもと心を通わせるなんて、クラウディア嬢もずいぶんと“変わった”のですわね」


 その口調は柔らかく、声は澄んでいた。

 だが、グラスを持つ指先には、力がこもっていた。



(ふざけないで……あの女が、いまさら“変わった”ですって?)


 クラウディアの評判が持ち直し、しかもレオポルトが──元はセシリアが婚約者と狙っていた彼が──最近彼女に視線を送る様子まで目に入ってくる──

 それが、何より気に食わなかった。


(どうしてあなたが、許されるの?)



 セシリア・ランベール。

 表向きは慈善活動にも熱心で、礼儀作法も完璧な公爵令嬢。

 だが、その仮面の裏では貴族社会の裏情報を操る女狐だった。


 夜になると、彼女の屋敷の書斎には暗い影が出入りし、貴族の不始末や秘密を金と脅しで掌握していた。



「事故に見せかけて、少しだけ子どもを攫ってもらえればいいの。傷つける必要はないわ。ほんの些細な“教訓”を味わってもらうのよ」


 仮面舞踏会の帰り、黒ずくめの男にそう囁く声は甘く、それでいて毒を含んでいた。



 狙いは、クラウディアとエリナの関係を断ち切ること。

 加えて、レオポルトの目を自分に向けさせるための布石でもあった。


 同時に、セシリアはもう一つの手を動かしていた。


 ──かつてクラウディアが使用人に辛く当たっていた頃の逸話を、あたかも最近の出来事であるかのように脚色した噂話を流し、レオポルト・フォン・グリムベルグの耳に届くよう仕向けていたのだ。


 すべては、王家に最も近い“理想の淑女”として、自分が頂点に立つため。



 ◆


 そのころ、クラウディアはエリナと庭園のベンチに腰掛けていた。


 春の風が髪を揺らし、花の香りが穏やかに包む中、少女は小さな声で呟く。


「ねえ、クラウディアお姉さま……エリナとお話しするの、楽しい?」


 クラウディアは一瞬、言葉に詰まり──そして、笑った。


「えぇ。こんなに楽しいものだったなんて、前は知らなかった」


「えへへ、エリナも!」


 エリナは嬉しそうに笑いながら、小さな手でスカートの裾をきゅっと握った。

 その仕草が妙にいじらしく、クラウディアの胸の奥に柔らかな温もりが広がる。



「じゃあさ……」


 エリナは、そっとクラウディアに抱きついた。


「クラウディアお姉さまは、私のお母さんになってくれたらいいのに」


 その言葉に、クラウディアは凍りついたように動きを止めた。


 次の瞬間、頬に、ひとすじの涙が伝っていた。


 あたたかな、涙だった。



 ◆


 数日後、社交界にじわじわと広がりはじめた一連の噂が、クラウディアの耳にも届くようになった。


「ねえ、聞いた? クラウディア嬢って、昔あのメイドに……」 「しかも、公爵家の後ろ盾を利用して王家の婚約者に返り咲こうとしてるんですって」


 どこからともなく囁かれる声。

 内容はまことしやかで、しかもどれも微妙に事実と食い違っている。



 ──過去の侮辱的発言が今になって掘り返される。

 ──寄付金の一部を私的に流用したという噂が広まる。

 ──さらには、エリナとの関係すら“好感度を上げるための演技”とささやかれた。



(馬鹿な……誰がこんな……)


 クラウディアは怒りというよりも、呆然とした。どれも根拠のない話ばかり。だが、精巧に練られたそれらは、否定する前に信じさせてしまう“巧妙さ”を持っていた。



 ──さらに追い打ちのように、レオポルトの元に一通の封書が届けられる。


 差出人不明。

 だが、その内容は精巧な筆致で書かれた“クラウディアの情愛を綴る偽の書簡”だった。



「……これは……」


 レオポルトは書簡を見つめ、わずかに目を細めた。

 その手の内にある文字列は、確かにクラウディアの文体を模している。

 まるで王家への未練をにじませるような、巧妙な誘導文句が散りばめられていた。


(まさか、クラウディア嬢が……いや、しかし──)


 彼の中で、疑念と信頼がせめぎ合う。


 その影響は、すぐに社交界に広がった。



「やっぱり、あの女は変わってなんかなかったのよ」

「外面だけ取り繕って、結局は出世のことしか考えてないのよ」

「一度悪女は、永遠に悪女──よ」


 クラウディアの周囲は、再び冷たい視線と嘲笑に包まれていく。



 ◆


 そして事件は、ある静かな午後に起こった。


 エリナがクラウディアの屋敷で過ごした帰り道、専用の馬車に乗り込んで間もなく──


 道の脇から突然現れた黒衣の男たちが、護衛を突破しようと襲いかかってきた。



「エリナ様をお守りしろ!」


 護衛騎士とメイドたちが必死に応戦し、騒ぎに気づいた近衛詰所の兵士たちも駆けつけたことで、誘拐は未遂に終わる。


 しかし、その騒動の中で、エリナは落馬しかけて肩を打ち、軽い打撲を負った。


 ──知らせを受けたレオポルト・フォン・グリムベルグは、剣を抜かんばかりの勢いで屋敷へ駆けつけた。



「いったい何があった! 誰の差し金だ!」


 その怒号に、屋敷中の空気が凍りついた。


「幸いエリナ様のお怪我は軽傷でしたが……」


 使用人の報告を受けるも、レオポルトの顔から怒気は消えない。



「なぜクラウディア嬢の屋敷の帰りに? 偶然か、あるいは──」


 その問いが、翌日の社交界でさらなる疑念を呼ぶ。


「やはり、あの女と関わると不幸が起こるのよ」 「なにか狙ったのかしら。でもまさか子どもを利用するなんて」


 憶測と中傷が渦巻くなか、クラウディアは何も弁明しなかった。



 その晩、彼女は誰もいないサロンでひとり、蝋燭の炎を見つめていた。


「私のせいだ……私が嫌われいたばかりにエリナを危険な目に……」


 かすれた声でつぶやき、手元のティーカップを強く握りしめる。

 震える唇。


「誰かを愛せる日が来ると思っていたのに……」


 静かに、またひとすじ、涙が頬を伝った。



 ◆


 翌日、クラウディアは公爵邸を訪れ、レオポルト・フォン・グリムベルグと面会した。


 応接室の空気は張り詰めていた。だが、クラウディアの声は静かで澄んでいた。



「レオポルト公爵。……あなたとエリナ様の将来のためにも、私は距離を取るべきですわ」


 レオポルトはその言葉に、わずかに目を見開いた。


「……それは、誰かに責められたからか?」


「いいえ。私自身の選択です。──このままでは、あなた方にまで迷惑が掛かる。そうなれば、私はきっと後悔します」


 沈黙。


 レオポルトは何かを言いかけたが、やがてそれを飲み込み、無言でうなずいた。


「……わかった。だが、私は君を信じている」


 その言葉にクラウディアはわずかに微笑み、そして深く一礼した。



 屋敷に戻ると、クラウディアは静かに後始末を始めた。


 マティルダとリサが駆け寄り、その姿に戸惑いと悲しみを浮かべる。


「クラウディアお嬢様……それは、エリナ様のためにご用意していたものでは……!」


 マティルダが目を潤ませながら声を上げ、リサも俯いて拳を握りしめていた。


 クラウディアは、しばし沈黙したまま小さく笑った。



「今度こそ、誰も傷つけずに身を引きたいの。……それが、私に残された、最後の贈り物だから」


 そう言って、クラウディアは机の引き出しから、包み紙にくるまれた小さな箱を取り出した。


 それは、エリナの誕生日のために、夜通し裁縫し、何度も指先を針で刺しながら仕上げた手作りのぬいぐるみだった。


 思いのこもったそれを、クラウディアはしばし胸に抱きしめた。



「……渡す資格なんて、私にはありませんわ」


 そう呟き、ゆっくりと暖炉へと歩を進める。


 薄絹に包まれた贈り物を、クラウディアはそっと炎の中に差し出した。


「これで、いいの……」


 炎が柔らかく包み込むようにぬいぐるみを飲み込んでいく。その光が、彼女の頬を優しく照らした。


「やはり私には、“独り”がお似合いなんですわ」


 ひとりごとのように、静かに呟いた。


 だがその表情に浮かんだのは、悲しみではなく、どこか安らぎにも似た覚悟の色だった。



 ◆


 そのころ、貴族街の裏通り──。


 フードを深く被ったひとりの人物が、黒装束の男から小さな巻物を受け取っていた。


「これが、あの女が雇っていた傭兵の記録か?」


「ええ。名を変え、顔を変えて渡り歩いてきたが、過去に複数の誘拐事件に関与しています。……証人も一人、確保できました」


 フードの男──ミラージュは、静かに頷いた。


「次は、書簡の筆跡を偽造した文官だ。あれも口が軽い。裏を取れば足がつく」



 そして数日後。


 クラウディアの知らぬところで、匿名の手紙と証拠がレオポルトのもとに届く。

 中には、傭兵の供述と、偽造に使われた印章の写し、そして文官の証言録が添えられていた。


 封筒の裏に、ただ一言──


『誠実な者には、誠実な真実が味方します』


 それを読みながら、レオポルトは思い返す。


 ──クラウディアが、エリナと接していたときのあの姿。

 ──別れの際に見せた、あの静かな微笑みと、胸に秘めた決意の眼差し。


「……彼女は、嘘のつける人ではなかった」


 重く、しかし確信に満ちた声だった。



「クラウディアお姉さまは、悪くないもん!」


 屋敷にエリナの泣きじゃくる声が響く。


「エリナは、エリナはね、お姉さまが大好きなの!」


 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、父に訴えるエリナ。

 レオポルトは無言でその頭を抱き寄せた。


(あの人は、逃げたのではない。守るために身を引いた)


 そんな確信が、胸に灯る。



 そして少しの時が経ち──王都の貴族院にて。


 公的な審議の場に、厳しい面持ちのレオポルト・フォン・グリムベルグが現れた。

 その隣には護衛に囲まれた傭兵と、青ざめた文官が従っていた。


 静まり返る会場に、レオポルトの低く重い声が響く。



「本日ここに提出する証拠は、我が家の名を賭けて提出するものだ」


 彼の手には、傭兵の供述書、偽造に使用された印章の写し、そして文官の証言録があった。


「セシリア・ランベール嬢の名で依頼された、誘拐未遂および名誉棄損に関する一連の指示と、その裏付けを持ってきた」


 ざわめきが広がり、やがてそれが驚愕の静寂へと変わる。


 傭兵がうなだれたまま事実を語り、文官が震える声で命令の詳細を述べる中、レオポルトの視線は一度も揺れなかった。



「この件を放置すれば、我が国の正義そのものが揺らぐ。我々は、真実を軽んじてはならない」


 その言葉に、重みがあった。


「……これが真実だ」


 静かに、それでいて威厳に満ちた一言が場内に響き渡った。


 セシリア・ランベールの女帝のような笑顔が、見る間に崩れていく。

 その瞳には、初めて本物の恐れが宿っていた。



「セシリア・ランベール嬢。あなたの行為は、王家および貴族社会の信義を著しく傷つけるものである」


 審議官の厳しい声が会場に響いた。


「よって本日をもって、あなたは社交界からの永久追放処分とする。王家を欺いた罪、その重みをよく理解するがいい」


 セシリアはその場に崩れ落ちた。

 誰一人として、彼女の元に駆け寄る者はいなかった。



 貴族たちは、早速手のひらを返した。


「やはりクラウディア嬢は見事だったわね」

「最初から、あの子を信じていれば良かったのに」


 そんな勝手な言葉が、次々と飛び交う。

 だがその中心に、当の本人の姿はなかった。



 クラウディアは、審議の最後列──誰の目にも留まらない場所に、そっと立っていた。


 セシリアが静かに連行されていくその姿を、遠くから見つめる。


「……あの人がいつか、かつての私のように救いを得られますように」


 そう呟いた元悪役クラウディアの声は、誰にも届かない。

 けれどその祈りのような願いは、どこまでも静かに真っ直ぐだった。


 そのとき。



「……貴女は時折、罪人のような顔をする」


 低く落ち着いた声が、背中越しにクラウディアの耳を打った。


 クラウディアは振り返る。そこに立っていたのは、威風堂々たる姿のレオポルトだった。


「何が貴女をそこまで追い詰めるのか分からないが……ひとりで背負うには、少し重すぎるだろう」


 その声は優しくも鋼のようにまっすぐで、彼の瞳は迷いなくクラウディアだけを見つめていた。


 差し伸べられた手は、ごつごつしていて、それでも温かい。


 クラウディアの胸がきゅっと鳴る。まるで長く張り詰めていた弦が、ふっと緩むように。



「……どうして、私を救おうと」


 小さく呟いたその声は震えていた。


「気づくのが遅くなってすまなかった。だが、これからは遅れずにそばにいる」


 その不器用な言葉に、思わず唇が緩む。



「いいえ、これは私の責任でした。……でも」


 そっと手を差し出す。


「誰かと歩く未来も、悪くないと思い始めたところですわ」


 触れ合う掌が、互いの鼓動を伝える。


 光差す扉の向こうへ──その先に待つ未来へと、ふたりは歩き出した。



 ◆


 社交界の混乱がようやく収束し、季節は柔らかな春の風を運んでいた。


 その日、クラウディアは公爵家の一室で、正式な書類にペンを走らせていた。



「これで、完了です。クラウディア・エーベルシュタイン嬢、あなたは正式にエリナ様の後見人として認められました」


 文官の言葉に、クラウディアは静かに頷く。


「ようやく……私にも、守るべき存在が与えられたのね」


 呟くように口にしたその声には、確かな喜びと、わずかな照れが混じっていた。


 そのとき、扉が開く音がして、小さな足音が駆け寄ってきた。



「クラウディアお姉さま!」


 エリナが弾けるような笑顔で飛び込んでくる。彼女の手には、小さな花のブーケが握られていた。


「はい、これ。お祝いにって、お庭で摘んだの!」


「まぁ……ありがとう、エリナ」


 クラウディアが花を受け取ると、エリナは少し頬を染めながら、おずおずと口を開いた。



「ねえ……もう、“お姉さま”じゃなくて、“お母さま”って呼んでもいい……?」


 その瞬間、クラウディアの目が大きく見開かれた。


「……え?」


 エリナは恥ずかしそうに、でもまっすぐにクラウディアを見上げている。


 返す言葉がすぐには見つからなかった。

 だが数秒後、クラウディアはゆっくりと頷いた。


「……好きにお呼びなさい」


 その声は、どこまでも優しく、どこか泣き笑いのようだった。


 背後でそのやり取りを見守っていたレオポルトが、静かに言葉を漏らす。


「……二人の仲を心配する必要はなさそうだな」


 その言葉に、クラウディアはエリナの頭をそっと撫でながら、微笑みを返した。



 ◆


 数日後、王宮の大広間では、建国を祝うパーティが盛大に開かれていた。


 貴族たちの華やかな衣装が並ぶ中、レオポルト・フォン・グリムベルグはひときわ威厳に満ちた姿で壇上に立っていた。


 その視線が、会場の奥に立つクラウディアを真っ直ぐに捉える。


「本日は、皆の前でひとつ、重大な発表をさせていただきたい」


 ざわめきが広がる中、彼は一歩、壇上から降りた。


 ゆっくりと、クラウディアのもとへと歩を進める。



「クラウディア・エーベルシュタイン嬢」


 彼女の目の前で立ち止まり、跪く。


「あなたに、正式に求婚いたします」


 その場が、息を呑むように静まり返った。


「私の傍らにいてほしい。ただそれだけでいい」


 その言葉は短く、しかし誰よりも強く、誠実だった。


 クラウディアは驚きに目を見開き、一瞬戸惑いを見せた。

 けれどすぐに、頬を紅潮させ、少し潤んだ瞳で彼を見つめた。



「……今度こそ、心から愛し、愛される未来を選びたい」


 そう告げる声は、かすかに震えていた。


 そしてその瞬間、会場の空気が一変する。


 最初はぽつり、ぽつりと──


 やがて大きな拍手が広がり、貴族たちの間に、ほんの少しの敬意と、あたたかな空気が流れた。


 セレモニーのあと、夜の庭園でふたりきりになったクラウディアとレオポルト。



「君を、心から愛している。だから……これからの人生を、一緒に歩んでくれ」


 レオポルトがそっと差し出した手を、クラウディアは静かに取り、その胸元に額を寄せた。


 その手の温もりは、もう、独りではないと教えてくれた。



 ◆


 夜風が心地よく吹く夜、クラウディアはひとり、バルコニーに立って星空を見上げていた。


 静寂の中、ふと背後に気配を感じて振り返ると、そこには黒衣の男──ミラージュが立っていた。



「随分と、お似合いでしたよ。未来を共に歩むお二人の姿」

「……あなたは……誰?」


 クラウディアが護衛を呼ぼうとしたその時、ミラージュは静かに仮面に手をかけ、ゆっくりと外した。


 初めて目にするその顔──若き青年の姿に、クラウディアは息を呑んだ。


 整った輪郭に、どこか懐かしさを感じる瞳。

 だが、その表情に覚えはない。



「貴女がかつて、唯一心を許した存在……そう、あの“魔法の鏡”に宿っていた精霊です」


 クラウディアは目を見開いたまま、息を呑んだ。


「あなたが、どうしてここに……?」

「貴女が変わると信じていました。あの世界の終わりで、貴女が流した最後の涙を、私は見ていた。だから……この世界に導いたのです」


 彼の声は静かで、優しく、どこか切なげだった。



「しかしもう役目は終わりました。これからは、貴女自身の力で生きていけるはずです」


 ミラージュが背を向け、夜の闇へと溶けようとしたその瞬間。


「待って」


 クラウディアは一歩、彼に近づいた。


「ありがとう。……今なら分かるの。美しさとは、心の在り方。私、ようやくその言葉を、鏡なしで信じられるようになりましたわ」


 ミラージュは足を止め、振り返る。

 その瞳に、一瞬だけ、誇らしげな光が宿った。


「それなら……私は、もう何も言うことはありません」


 風が吹き抜けたとき、彼の姿は静かに、星々のきらめきの中に消えていった。



 クラウディアは目を閉じて、胸に手を当てる。


 もう鏡はいらない。


 今の自分を、ようやく好きになれる。


 ──そう思えた夜だった。



 ◆


 春の柔らかな陽射しが差し込む庭園で、クラウディアはエリナと一緒に小さなテーブルを囲んでいた。


 白いエプロン姿のクラウディアが、真剣な表情でパイ生地を伸ばし、隣ではエリナが手いっぱいに粉をまぶして笑っている。



「お母さまのアップルパイ、大好き!」


 エリナがそう叫びながら粉まみれの手を掲げると、クラウディアもつられて笑った。


「そう言っていただけるなら、準備した甲斐がありましたわ」

「お母さま、レモンも混ぜていい?」

「ええ、でも……分量を守るのが、おいしいお菓子の秘訣ですのよ?」


 そのやりとりの横で、窓辺から二人を見守っていたレオポルトは、思わず小さく息を吐いた。



「……これが平穏というものか」


 そう呟いた声には、どこか不器用な幸福が滲んでいた。


「お母さま、ちょっとこっち見て〜」


 エリナがいたずらっぽく笑いながら、粉のついた指でクラウディアの頬をちょんとつつく。


「まあ……エリナったら。また洗い直しですわね」


 けれどその声は、どこまでも優しかった。


 かつて“悪役令嬢”と呼ばれた女が、今はこうして家族の中で笑っている。


 庭には、焼きたての甘い香りと、笑い声が絶えず響いていた。



 ◆


 かつて、誰よりも美に執着した女がいた。


 だが今、彼女は微笑んでいる。


 隣に家族がいて、自分の心が美しいと信じられるから——


 これが、クラウディア・エーベルシュタインの物語。


 そして、彼女の本当の幸せの始まりだった。





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