1.公爵令嬢ティアーナ・ヴァルモンド
「ん…」
日が昇るより少し前、部屋の主が広いベッドの上でゆるりと目を覚ます。長い手足をベッドの中で思う存分伸ばしてから上体を起こすと同時に、寝室のドアが控えめノックされる。
「ティアーナお嬢様、お目覚めでしょうか」
「おはようルナ、今日の朝はチーズバケットとポタージュにしてって伝えてくれる?」
部屋の主、ティアーナは専属メイドのルナに希望を伝えながらベッドを降りて、優雅な足取りで寝室のドアを開けた。ルナは主の姿を見てから改めてお辞儀をする。
「畏まりました、お召し物は如何されますか」
「もう着替えるわ」
ティアーナはそのまま自室のウォークインクローゼットに足を踏み入れた。もちろんルナも追尾する。
「今日は確か課題発表会があるのよね…じゃあこれにしようかしら、ベルト出して、…うん、決めたわ」
「お似合いでございますが、今日はまた一段と攻めの姿勢にございますね」
「ふふ、いい女だからね」
着るものを見繕ったティアーナは就寝用の服をそのまま脱いで完全に裸になる。繊細なレースのショーツを履き、同じ色の肩紐のないビスチェを宛てがう。後ろのホックはルナが手早く留めていき、そのまま胸に肉を集めるように寄せると、美しいシルエットの出来上がりだ。
仕上げにガーターストッキングを履いてベルトで留め、細かな調整をすれば、スレンダーだが長身を生かしたバランスのいいメリハリのある体が現れる。
「やっぱりローレンはいい仕事をするわね」
「ええ、そして着こなすお嬢様もまた素晴らしいです」
「いつもありがとう、さあ行くわよ」
扇情的な下着の上に制服を着れば、どこからどう見ても上品な貴族の娘がそこに立っている。主人の美しい姿をメイドは賞賛し、支度を終えたティアーナが自室のドアを開け放つと、既に仕事を始めていた使用人たちが一斉にお辞儀をする。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、今日もみんなよろしくね」
「はい!」
ティアーナは全員を労いながら、一日のエネルギー補給のために食堂へ向かった。
馬車に揺られて到着した学院の正門には、この国の由緒正しき貴族たちの子女がやはり馬車を降りてくる姿が見えた。
「お嬢様、本日は午後から来客予定です。と言ってもローレンですが」
「ええ、承知しているわ、今日は講義が終わったら直ぐに帰宅するから、アーネストさん、帰りもよろしくね」
「かしこまりました、お嬢様」
「お気を付けて、お嬢様」
「ありがとう、では行ってきます」
馬車の運転手アーネストとルナに挨拶をして、ティアーナは優雅に馬車から足を降ろし、そのまま背筋を伸ばして学院の玄関をくぐった。すれ違う子女たちがティアーナを見て感嘆を漏らしたりひそひそと何かを話したり、反応は様々だが彼女自身は一切気にしない。
そんなに言いたいことがあるなら直接言えばいいのに、という言葉も投げ掛けない。
本当にどうでもいいからだ。
学院のクラス分けは普通科においては特に決まりはなく、ティアーナのような公爵家からまだ爵位を授与したばかりの男爵家まであらゆる家格の人間が混在する。
ただし平民は余程の事情がない限りは入学しない。その場合も平民は後継人の貴族のツテを使いその家の名前を借りて入学する。
故に、ティアーナに畏れ多くも声をかける下級貴族が現れたとしてもそれは不思議な事ではない。ただし、本当に貴族としての教育を受けているのなら、おいそれと上級貴族に声をかけないのが不文律だ。
(次は数学ね…)
ティアーナは学院内において懇意に話をする相手もなく、自分に用もなしに声をかけてくる人間もなかなか現れないため1人で行動するのが常だ。家同士の付き合いでつるんだり、既に婚約者同士という生徒たちもこの貴族社会では特段珍しくもない。公爵令嬢であるティアーナにも婚約者が居ておかしくないのだが、とある事情により彼女の隣を歩けるパートナーは未だ不在だ。
ふと、廊下が騒がしいことに彼女は気づく。
視線を遣らずとも分かる。隣のクラスの公爵令嬢、エリザベス・ダンクエッテが歩いているだけだ。
エリザベスは幼少の砌にこの国の王太子であるラファエル・フォン・テッツェリアと婚約を結んでいる、やはり由緒正しき貴族の娘だ。
昔は付き合いがなかったこともないが、エリザベスが王太子婚約者に制定されてからは付き合いも疎遠になった。家族ぐるみで仲がいいわけでもないので、ティアーナ自身も彼女に近づくことはない。
時折エリザベスからの何かを探る視線は感じるが、それが何を意味するのかも知りながら、ティアーナは無関係の立場を貫く。
あれでは大名行列ね…と騒がしい廊下よりも、彼女は手元に置いた手帳に意識を向ける。基本的なスケジュールや覚えておきたいこと、ふと思いついたことは手帳に留めるのが習慣だ。書けば頭に馴染み、出力も早くなる。
いくつか思案したことを手帳に書き込んで綴じると、もう次の講義の時間が差し迫っていた。
日が空の1番高い場所に鎮座する頃、学院での授業は終わる。
短いように思うが、貴族子女は学院だけでなく家で専属の家庭教師を雇っている者が大半のため、午後に当たる時間は補習のような個別授業や同好の士が集まる委員会などの細分化された動きが多い。
家での予定が決まっているティアーナは手早く荷物をまとめて、制服のスカートを軽く叩いて席を立つ。
「あ、あの…ティアーナ様、本日はお帰りですか?」
彼女の後ろの席に座っていた伯爵家の娘が声をかける。ティアーナは振り返ってから「ええ、また明日」と微笑んで教室を出るために歩き始めた。
伯爵家の娘―――ミッチェルは、優雅だが他人を寄せつけない公爵令嬢に顔を覚えてもらおうと意を決して声をかけたのだが、手酷く無視されるどころか微笑まれたことでこっそり顔を赤くするのはここだけの話。
「あら、ティアーナ様ごきげんよう」
家の馬車が到着するまであと少し、と計算して廊下を歩いていたティアーナだが、涼やかだがどこか含みのある声に呼ばれ立ち止まり、振り返ってからそのままカーテシーを取った。
声の主は―――先程の大名行列の主役、エリザベスだ。取り巻きの娘たちも3人ほどいる。彼女は将来王族への輿入れが決まっている身のため、誰も口には出さないが学院内でも立場は特別なものという認識である。なので家格そのものが同じ公爵家であっても、そこはティアーナも淑女として弁えていた。
「エリザベス様、ごきげんよう」
「随分早いお帰りなのね?」
「はい、自宅での用事がありますゆえ」
「そうなの、忙しいわねえ」
なんてことのない会話だ、しかしエリザベスはほんのりと悪意のこもった言い方でティアーナに居丈高な態度を見せつける。
「たまには貴方も放課後にお茶会を開いたら?」
「ご助言ありがとうございます」
取り巻きたちは言葉こそ発せず意地の悪そうな笑顔を見せているが、どの娘たちもティアーナよりは家格の低い伯爵家以下の者たちばかりだ。
質問されたことに答えるだけのティアーナにそれ以上は求めず、「ではまた」とエリザベスが立ち去るまで話しかけられた側はその場から動かず礼をし、やっと姿が消えたところでまた廊下を歩き始める。
まるで何事もなかったかのように、足取りはやはり優雅だった。
帰宅してからは来客の到着まで授業の復習と予習を進める。
ティアーナには家庭教師はいない、授業を聞いて自分で学習すれば事足りるほど頭脳明晰だ。過去に家庭教師も淑女教育も担当がいたが、とある一件で自分には不要と結論づけてまるごとクビにした。
授業間の課題発表会では教師陣から優良の評価を得たので、やはり勝負の日はランジェリーをきちんと揃えて正解だったわ、とティアーナは独りごちる。
そこに、メイドのルナの声がドア越しに「お嬢様、ローレンが見えました」と伝えてくる。その言葉にティアーナは「入って」と返事をかけた。
「このデザインがいいわね、生地ももっと薄いといいのだけれど」
「これ以上ですか?あまり薄すぎると万が一殿方に見られてしまった時に欲情を煽ってしまいそうですが…」
「私に不用意に近付く男なんて滅多と現れないわよ。余程周りが見えていないのか、自分を見えていないのかのどちらかね」
ティアーナはお抱えデザイナーのローレンとデザイン画や試作品を見ながら話し合いをする。どれも今日身につけているランジェリーと形は似ているが、デザインも使われる生地もまた違うものばかりだ。主の希望にローレンは貞操の心配をするが、当の本人がいいと言い切るのだからそれ以上は言わない。
「まあ何かあってもお嬢様にはルナもいますからね…そういえば今日は何をお召しに?」
「ヌードカラー、動きやすくて背筋もよく伸びたわ。やっぱり伸縮性のある生地は動く時に最適よね」
「それは何よりでございます、汗ばむ季節用に風通しの良い生地もまた揃えましょう」
「ええ、また頼むわね」
ティアーナが服の下側に身につけるもののほぼ全てが、このローレン・シャモールという新進気鋭のデザイナーによって生み出されている、ということは社交界で知るものはいない。
ドレスや小物は母が懇意にするドレスメーカーが優先のため、自分が好きにできる場所は限定されている。しかし、既に国内では成人として認められている14歳をとっくに迎えているため、今後の装いは自分で決めることも可能だ。
この国の貴族令嬢の定番といえばプリンセスラインのドレスなのだが、ティアーナ自身が飽き飽きとしている。当然細々とした刺繍や柄、生地の重なりなど着る人間によって違いはあるが、そもそもの型が同じなのだ。
『新しいファッション』を世の中に出すにはタイミングが必要なことも承知している公爵令嬢は、暫くは自分が楽しめれば十分だとして、現状は大人しくしている。現状は、だが。
「ローレン、いつもありがとう」
「もったいないお言葉にございます。お嬢様の美しい体を保つ必需品として私の作品が手助けできること、誠に光栄にございます」
「ええ、これからもよろしくね。というわけで、ここにあるデザインは全て作って、色はあなたに任せるから。あともうひとつ、前に2人で考えてみたあのドレスの制作に取り掛かっている?」
ティアーナの言葉にローレンは顔を上げる。デザイナーを志した時から温めていた新しいデザインのドレスたちを主人が作れと言ったことに、歓喜と緊張を混ぜた嬉しそうな笑顔を見せた。
「ええ、型取りは完全に終わっておりますが…よろしいのですか?」
「備えあれば憂いなし、よ」
「かしこまりました、1ヶ月後に納品致します」
ティアーナとローレンの話し合いが終わり、再び部屋に静寂が訪れる。
ルナが「お茶をお淹れ致します」と部屋から出るのを見て、ティアーナは腕を伸ばしてストレッチをした。
普段の所作を優雅にするためには、やはり柔軟な体が必要なのである。
「さて、もう少し…」
そう呟いて、再度机に向かいペンを手に取った。
夜。湯浴みを終えたティアーナが身につけるのは、極薄い生地で作られたベビードールだ。大切な部分だけ少し厚みのあるレースに隠されているが、艶かしい腰も、そして胸や尻のラインまでレースに透けて倒錯的な雰囲気を醸し出す。ルナはその均整のとれた主人の体をうっとりと見て、「やはりお嬢様のお姿は素晴らしい」と心の中で絶賛した。
この世界において下着とは、言わばただの布でしかない。貴族が身につける下着ですらデザインはどことなく野暮ったいのだ。彼女たちは外側を取り繕って着飾る方が大切だと思っているし、それが決して間違いでもないが、ティアーナは根本の考えが違う。
美しさとは、その人間が生まれてから自らの手で得てきた努力の結晶。
持って生まれた才能や美貌もあるだろう、しかしどれほど素晴らしい原石も磨かなければ輝くこともなく、使われなければ無用の長物に成り果ててしまう。
ティアーナは美は永遠ではないことを知っているが、常に更新されていくということも知っている人間だった。
「お嬢様、ガウンをお召しください」
「もう少しだけよ、ねえ、どうかしら?」
「それはもう、大変お似合いでございます」
ルナにガウンを着せられながら、ティアーナは鏡に映る自分の体を眺める。うん、今日もとてもいい女だったわね、私。
長身で細身、吸い付くような肌に薄手のランジェリーを身に纏うその姿はとても15歳とは思えないほどの美しさ。
それが、公爵令嬢ティアーナ・ヴァルモンドである。
「それじゃ、寝るわね」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
ルナが寝室の扉を閉じる。ティアーナはベッドに潜り込んで、明日は何を着ようかしら、と微睡みの中で考えながらゆっくりと眠りについた。
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