妻の顔を見て二度笑っただけだった。
一ヶ月ほど前、友人に「目尻にカラスの足跡の如く、くっきりと皺が浮き上がっているわよ」と言われた。
このショックが解ってもらえるかしら?
友人だけなら聞かなかったこと気づかなかったことにできたけれど、一週間ほど前に夫にも同じことを言われてしまった。
それから夫と顔を合わせられない……。
夫が仕事から帰ってきても迎えに出られないし、食事も一緒に取ることができなくなってしまった。
鏡の中の自分を見るとため息が自然と漏れる。
夫も私のこの顔を見て笑っていた。
鏡に映るのはもう昔の私ではない。
同じ年の夫は渋みが増していい男だと言われるのに、同じ年なのに女としては終わりだと言われる。
同世代の男性にも振り向いてもらえなくなって父親と同い年ぐらいの人からしか、声が掛からなくなってしまった。
たったそんなことと思われるかもしれないけれど女として価値が失くなって、女として腐っていくような気がする。
ちょっと前までは夫の視線に熱があったと思う。
でも今は夫の視線には熱がない……。
一緒のベッドに寝ているけど、私に手が伸びてくる回数がぐっと減った。
夫はもしかしたら若い女の子に入れあげているのかもしれない。
そういえば夫の帰りが最近遅いような……気がする。
「アラン。最近旦那様のお帰りが遅いのではなくて?」
「いえ。いつもと同じだと思いますけど?」
「やっぱり……遅いのね?! 若い女がいるのね!!だと思っていたわ!!」
「奥様?! 私の言葉を自分勝手に解釈するのはおやめください。奥様のご様子がおかしいと旦那様がご心配しております」
「旦那様が私のことなど心配するはずがないわ! だって旦那様は私の顔を見て笑うのよ!」
「えっ? それは楽しい話をしていただけではないのですか?」
「ちっとも楽しい話ではないわ!! 私の顔を指差して笑ったの!!もう旦那様の前に顔を出せないわ。もう死にたい……」
「奥様!! 何をおっしゃいます!!」
「もう放っといて!!」
「お、奥様?! お待ちくださいませ!!」
私は夫人として失格だと言われようとも人前に顔を出すことが恐ろしくなって、執事のアランの前から逃げ出した。
部屋に閉じこもり、侍女のマーサが何度も部屋の扉をノックするけれど返事をすることもできなかった。
アランが夫の帰りを首を長くして待っていた頃、私はベッドの中でシーツを被って小さく丸まって涙をこぼしていた。
夫に愛想を尽かされ、このまま落ちぶれて死んでいくのを待つだけなのだと一人、嘆いていた。
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奥様のことが心配で、旦那様が帰ってくるのを待ちわびていて、気が付いた。
奥様が言っていたように確かに旦那様の帰りがいつもより遅い。
やっと帰ってきた旦那様を少し非難するような声で出迎える。
「お帰りなさいませ。旦那様……? いつもより帰りが遅いですね?」
「えっ? そ、そうか?そんなことはないと思うが……」
なんだか旦那様のご様子がおかしい。
「旦那様? まさか本当に奥様が仰っていた通り、浮気されているのですか?!」
「な! ま、まさか!! 私は浮気などしていないっ!!」
「ですが奥様は旦那様が若い女性と浮気している確信があるようでしたが……」
「エレーナが私が浮気していると言っていたのか?!」
「いえ、正確には若い女がいるのね!! でした」
「アラン!! 私は本当に浮気などしていない!!」
「私にそのような弁解は必要ありません。上手に浮気なさるのならかまわないのです」
「いやいやいや。本当に浮気などしていない!!」
「ですから弁明は奥様になさってくださいませ。奥様は死にたいと仰っていました。不幸な結果にならないように奥様とちゃんと話し合ってきてください」
「だが、エレーナは最近私に会ってくれないんだ!」
「旦那様が奥様の顔を指さして笑うからでしょう!!」
「何のことだ?」
「奥様が仰っていました。旦那様に顔を指を差されて笑われたと」
「覚えがない……」
「それから奥様は旦那様の前に現れなくなったのではないですか?」
「いや、本当に覚えがないんだが……」
「奥様が死にたいと思うくらい傷ついていらっしゃるんですよ?」
「死にたい? ……いや、本当に覚えがないんだが……」
「旦那様。奥様と最後にお話になったときのことをよく思い出されたほうがいいと思います。きっと、旦那様が奥様を傷つけるようなことを言われたのだと思います」
「最後に会った時? 本当に覚えがないんだ……が、……あれ? もしかして?」
「なにか思い当たることがあるんですね?」
「いや、ほら、最近エレーナが笑うと目尻にカラスの足跡のような笑い皺が出来るって言った……」
「旦那様……」
「違う!! 私はその笑いジワが出来る程笑うエレーナが可愛いと思って……」
「女性に皺だとか、最近太ったとか、年取ったねとか言ってはなりませんと小さい頃から教えていませんでしたか?」
「えぇ……皺は言われたことはないと思うが」
「言ってはいけないワードだと解りますよね?」
「すまない……」
「私ではなく奥様に謝られたほうがいいと思いますよ」
「とりあえずエレーナのところに行ってくる」
「ひたすら謝って、可愛いと思ったということをお伝えになってくださいね」
旦那様が階段を駆け上がって行くのを見送って、私は調理室に今日のお食事は遅くなりそうだと伝えに行くことにした。
調理室は旦那様が帰ってきた知らせが伝わっていたので、戦争状態になっていた。
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アランにお説教されてエレーナの部屋の前に立ち、扉をノックしたけれどエレーナは返事をしなかった。
マーサが私の背後でウロウロしている。
「マーサ! エレーナは部屋にいるのか?」
「いると思います。何度もお声をかけているのですが、返事をしてくれないのです。時折鼻を啜る音は聞こえてくるので、間違いなくいらっしゃると思います」
ノブを回しても鍵がかかっているのか開かない。
「マーサ。私の執務室の机の真ん中の引き出しに鍵束が入っているから持ってきてくれ」
「かしこまりました」
「エレーナ!! 今帰ったよ。扉を開けてくれないか? もう長いことエレーナの顔を見ていないよ!! 心配なんだ。顔を見せて!!」
ノックと声がけを交互に行いエレーナに呼びかける。
一向に反応がなくて、まさかもう死んでしまったのではないかと気が気じゃなくなった。
「エレーナ!! なにか返事だけでもしておくれ!! 本当に心配になってきたよ!!」
「旦那様!鍵束をお持ちしました」
「ありがとう」
たくさんある鍵から目当ての鍵を探し出して、鍵を差して扉を開けた。
部屋にはエレーナの姿がなくて、心臓がドキドキした。
「奥様!!」
マーサがエレーナを見つけたようでベッドに向かって声を掛けている。
私もベッドに駆け寄ってエレーナに声を掛ける。
「エレーナ!!」
ベッドの上で小さく丸まっている姿が痛ましく見えてくる。
よく見ると小さく震えて、時折しゃくりあげているように見える。
シーツを剥ごうとしたら小さく抵抗された。
「マーサ、ここは私に任せてくれないか?」
マーサは小さく頷いて部屋から出ていった。
小さく丸まっているエレーナの頭の位置を確認して、私もベッドに乗り上がった。
シーツを被ったままのエレーナの頭を私の膝の上に乗せ、頭を何度も撫でてやる。
「エレーナ。私は君を傷つけてしまったんだろうか?私は決してそのようなつもりはなかったんだ」
頭を撫でながら返事を待ってみたけれど応えはなかった。
「エレーナ。愛しているよ。顔を見せて。もう長い事顔を見ていない」
「いやっ!! 旦那様は私を見て笑うもの!!」
「笑ったりしないよ!! 可愛いから笑顔になってしまうだけだよ。ほらシーツから出てきておくれ」
「旦那様は私にはもう飽きて若くて可愛い女の子に入れあげているのでしょう?!」
「私が今も入れあげているのはエレーナだけだよ!! 本当に私は浮気なんかしていないからね!!」
「信じられないわ……」
「私の愛を疑わないでくれ。本当に、愛しているのはエレーナだけだよ」
そろそろとエレーナが顔を出してきたのでくしゃくしゃになった髪を整えるように撫でてやった。
シーツから顔を出したエレーナの顔はそれは酷い有様だった。
泣いたことで目が腫れ、化粧はところどころ剥がれ落ちていた。
その顔がおかしくて思わず声を上げて笑ってしまった。
エレーナは目を見開いてから酷く傷ついた顔になり、大粒の涙をポロポロと零した。
「ちがう!違うんだ。今笑ったのは……」
エレーナの顔がおかしかったからと言ったらまずいことに気が付いて言葉を止めた。
エレーナから地を這うような低い声が漏れ出た。
「出ていって……顔も見たくない」
「エレーナ!!本当に違うんだ!」
「二度も言わせないで。出ていって」
「誤解だよ」
「誤解じゃないわ。私の顔を見て笑ったわ」
「そうだけど、エレーナが泣いて目を腫らしていて、化粧が所々剥げているんだ! 自分で鏡を見てごらんよ」
エレーナの目がつり上がっていくのが見て取れた。
手鏡を渡して自分の顔を見ろと示すと手鏡の中の自分を見て、私を見た。
手鏡を投げつけられた。
私の顔に当たって落ちた。
「出ていって。顔も見たくない」
「エレーナ!!」
「マーサ!! マーサ!!」
「はい。奥様」
「この人をこの部屋から追い出して!!」
マーサは実力行使で主人である私を追い出した。
まさか本当にたったあれだけのことで離婚されるとは思いもよらなかった。
他所よりも仲の良い夫婦だと思っていた。
たった二度、顔を見て笑っただけで誰が離婚されると思う?
エレーナのことを愛しているから離婚届にサインするのを頑として断った。
愛していると何度も伝えた。
離婚したくないと泣いて縋り付いた。
マーサに説得してくれと頼んだ。
アランにも説得してくれと頼んだ。
使用人にも頼んだ。
エレーナはうんとは言ってくれなかった。
話し合うこともなく、無言で離婚届を差し出すだけだった。
一年間「離婚はしない」と言い続けた。
けれどエレーナは口を利いてくれなくて、何度破っても離婚届を私に押し付けるだけだった。
私にはもう為すすべも無くなって、離婚届にサインした。
エレーナに資産の半分を持っていかれた。
先祖代々受け継いできた別荘も奪われた。
愛している妻の顔を見てたった二度笑っただけで。