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「……って、飛び出してきたはいいものの……」


 春を過ぎたと言っても、日暮れはまだ早いし、日が落ちればそこそこに寒い。


 せめて上着を持ってくれば良かったと両腕で体をさすりながら、千佳子(ちかこ)は頭上を見上げた。


「私、こういう状況、苦手なんだった……」


 頭上には花も葉も付けていない枝が広がり、背中には老木特有のゴツゴツとした幹の感触がある。


 日も沈んで街灯だけがぼんやりと闇を祓う中、千佳子は狂い咲きの桜の下で膝を抱えるように座り込んでいた。


「うー、玉ちゃんのバカ! 玉ちゃんの尻尾に埋もれてればこんなに寒い思いしなくても良かったのにぃー!」


 八つ当たりを叫んでも、反論も(あき)れの溜め息も聞こえてこない。分かりきっていることを思い知らされた瞬間、何だか寒さがグッと増したような気がした。


 千佳子は思いっきり息を吐き出すと両膝を抱えるように回した腕の中へ顔をうずめる。


 制服の胸ポケットに入っている玉藻からもらったお守りの存在を必死に確かめている自分が情けない。だけど無意識の内にすがっている自分を笑うことも怒ることも、今の千佳子にはできなかった。


「……おばあちゃん」


 ポツリと声がこぼれていたのはきっと、心細かったからだろう。


 もし祖母が存命であったならば、千佳子は今きっと、この桜の木の下ではなく、祖母の元に駆け込んでいただろうから。


 ──あらあら、今日はどうしたの? 千佳子ちゃん。


 そう思った瞬間、耳の奥に柔らかな声が(よみがえ)って、ジワリと目元が潤んだのが分かった。涙がこぼれないようにきつく目を閉じた千佳子は、より一層腕に力を込めて頭をうずめる。


 ──どうしてここにいてくれないの? おばあちゃん。


 千佳子には、物心つく前から、他人には()えないモノが視えていた。


 それが(あやかし)や神といったモノだと知ったのは幼稚園に入った頃。教えてくれたのはいつも千佳子を温かく見守ってくれていた祖母で、千佳子はその祖母に育てられた。


 両親がいないわけではない。共働きの両親は忙しくて千佳子を中々構ってくれなかったし、構ってくれる暇があっても視える千佳子を不気味がってなるべく距離を置いていた。


 物心ついてからずっとそうで、そんな親子関係を見かねた祖母が千佳子を引き取って一緒に暮らし始めたのが小学生の時だった。以降千佳子は祖母が亡くなる去年の春まで、祖母の家で暮らしてきた。


 祖母は、視える人ではなかった。それでも祖母は、千佳子が視るモノを受け入れてくれていた。


 千佳子が妖に怯えれば抱きしめて背中をトントンと叩いてあやしてくれた。『キラキラしたキレイな人がいる』と千佳子が言えば、『それはきっと神様だねぇ』と答えて千佳子に手の合わせ方を教えてくれた。


 千佳子は、祖母からヒトならざるモノ達への対処の仕方を学んだ。そしてそんな祖母は、視えないながらもヒトならざるモノ達に好ましく受け入れられていた。


『千佳子ちゃんが視る世界は、あたしらが見ている世界よりもずっと鮮やかなんだろうねぇ』と言ってくれた祖母の周りこそ、ヒトならざるモノ達が落としていくキラキラした光で鮮やかに彩られていた。そんな祖母も、祖母とヒトならざるモノ達が作り出す優しい光景も、千佳子は大好きだった。


 ……そんな祖母はもう、世界のどこにもいない。


「……苦しいよ、おばあちゃん」


 祖母の愛に包まれれば包まれるだけ、この目が異常なモノであることも、同時に知っていった。


 世間から見れば千佳子は異常で、気持ち悪くて、嘘つきだ。どれだけ千佳子にとって視えているモノが正しくても、視えない人間が大多数を占めている世界では千佳子の『正しいモノ』は正しくない。


「寒いよ、おばあちゃん」


 だから千佳子は必死に普通であろうとした。


 大好きな祖母は、千佳子が傷付けられても、爪弾きにされても悲しむ。だから、祖母を悲しませないために、千佳子は『普通』であることを必死に学んだ。


 祖母が存命であった頃は、それも苦痛ではなかった。祖母の元に帰れば、千佳子はありのままの千佳子でいられたから。『普通』の仮面を外して、ただの千佳子でいられたから。


 だけど、今は。


「……そっちに、逝きたい」


 視えることさえ口に出さず、誰にでもニコニコしておけば普通の子でいられる。高校に上がってからは友達だって作れた。


 人ならざるモノに近付こうとはせず、こちらが極力避けて通れば、追われたり(から)まれたりしてケガをすることだってない。


 どんなモノが視えても口にしないように。表情に出さないように。近付かないように。


 そうしていれば自分は、人並みの、普通の、ちょっぴり臆病な子に見てもらえる。


 ──でも、それって、何のため?


 ふと、そんな疑問が心の中にこぼれた。


 今までは、理由の真ん中に祖母がいた。でもその祖母は、もう世界のどこにもいない。


 ──そうだ。だから、死のうと……


 そう考えた瞬間、脳裏に白を纏うお狐様の姿が()ぎった。


「……バカじゃない? 私」


 最近、ほんの少しだけ息が苦しくなかったのは、千佳子の日常の中に玉藻が現れたからだ。


 ヒトならざるモノそのものである玉藻の前では、千佳子は『普通』を演じなくて良かった。それどころか玉藻は、千佳子が『普通』でいられない理由に価値があると言ってくれた。千佳子の目は稀少で、利用価値があるのだと。


 ……それがきっと、千佳子には嬉しかったのだ。


 たとえ利用するためであっても、千佳子がありのまま生きることを許してくれた存在は、祖母以来初めてだったから。


「玉ちゃんは、私を利用したいんだって、最初からちゃんと言ってくれてたのに……。何勘違いしちゃってんの、私……」


 利用価値があるから、存在を許してくれた。たとえ利用するためであったとしても、お守りを渡してくれた。祟り殺すのではなく、玉藻の力で守ってやると、玉藻は示してくれた。


 でもそれは利用するため、だ。


 玉藻は千佳子の目を利用できればそれでいい。千佳子が何を思っていようとも、玉藻にとってはどうでもいい。


 分かっていたはずだった。いや、分かったつもりになっていた。


 その思い上がりを玉藻との言い争いで突きつけられてしまったから、千佳子はあそこまで激情してしまったのだ。


「結局、全部全部、ただの八つ当たりじゃん……」


 ずっとずっと、纏わりついて消えてくれない寒気がある。小さな子供の頃から、真夏でも、真冬でも、変わらず千佳子に纏わりついて、決して消えてくれない寒気が。


 その寒気が『寂しさ』というものなのだと、千佳子はうっすら覚っていた。


 ──でも、私は。


 これが『寂しさ』だなんて、認めない。認めたくない。


 今感じている寒さが『寂しさ』であるならば、千佳子はずっと『寂しかった』ということになる。


 あんなに祖母に愛してもらっていたのに。あれだけ千佳子は満たされていたはずなのに。


「……おばあちゃん」


 すがるように呟いてから顔を上げる。枝を透かして見る空の端にはビルの影が映っていた。


 このグチャグチャな心を放り出したくて、寒さから開放されたくて、飛ぶことを選んだ場所。


 だけど結局そのグチャグチャからも寒気からも解放されることはなくて、千佳子は今、ここでこうして膝を抱えている。


「……だから……こんな思い、するくらいなら……」


 また溢れてきたグチャグチャを吐き出すように呟いて、グッときつく目を閉じる。


 その瞬間、背中を預けていた桜がフッと温もりを帯びたような気がした。その熱に呼ばれたかのように動いた風は、夜風に似付かない日差しの香りを帯びている。


 ──もう、放っておいてよ……


 自分を取り巻く空気にさえ自分の心を(ないがし)ろにされたような気がして、千佳子は面白くない気分で顔を上げる。


 その瞬間千佳子の目に飛び込んできたのは、柔らかい春の日差しだった。


「……えっ!?」


 思わず千佳子はガバリと跳ね起きていた。先程までの不貞腐れた気分はすでにどこかへ吹き飛んでいる。


「え、……えぇっ!? だって今、夜だったのに……っ!!」


 頬に当たる日差しは柔らかく、確かに温かい。頭上に咲き誇る桜の香りは微かに甘く、千佳子の手に触れながら落ちていった桜花の感触はしっとりと生花の艶を帯びていた。


 夢にしてはリアルすぎる感触に、千佳子は思わずキョロキョロと周囲を見回す。


 そこでようやく千佳子は、周囲の景色が見慣れた公園とはまったく違うものになっていることに気付いた。


「ここって……」


 枯れ草の中にポツポツと茂り始めた淡い若草の緑。周囲は一面田畑なのか、柔らかくほぐされた土が顔を見せている。遠く右手には建物の塊があって、視界に映る中で唯一その一帯だけが繁華な場所なのだろうということが分かった。一見してそうだと分かるくらい、周囲には桜と田畑しか見えない。


「もしかして……」


 ひとつの可能性に思い至った千佳子は、フラリと立ち上がると一歩前へ踏み出した。


 そんな千佳子のすぐ後ろから、不意に細い声が上がる。


「旅に出るとうかがいました。……本当なのですか?」


 その声にハッと千佳子は背後を振り返る。だが千佳子の真後ろには桜の幹しかない。


 どうやら桜を挟んだ反対側に誰かがいるらしい。


「今までこんなに熱心にお前さんを口説いてたってのに、急にこんなことを決めるなんて浮気じゃあないのかい? ってか?」


 答える声は、どこか軽薄にも聞こえる男の声だった。そんな男の声に女が戸惑うのが気配だけで分かる。


 相対している男には、余計にその戸惑いが分かったのだろう。不意にグッと空気が柔らかくなった。


「……すまねぇ。こんな大事な時に、こんな言い方はなかったわな」


 千佳子は桜の幹に体を隠すようにしながらそっと桜の向こう側を覗き込む。


「本当の話だ。俺ぁしばらく、ここを空ける」


 一面の田園風景を背景に立っていたのは、声からの想像を違えぬ一組の男女だった。女性は巫女服に身を包み、男の方は仕立ての良い着流しを纏っている。


 清廉そのものの巫女と遊び人だとひと目で分かる男という取り合わせはどこかアンバランスだが、不安に顔を曇らせる巫女と巫女を安心させるように微笑む男の間には、両者が互いに想い合っていることが分かる空気があった。


「どう、して……」


 わななく唇で必死に言葉を紡ぐ巫女の声は、細くも鈴を振るかのように美しい。


 その美しい声に、男の(まなじり)が泣き出しそうに下がった。


「……考えたんだ。今更ながら。……どうすりゃお前さんを、ちゃんと(めと)れるかって」


 一方、男の言葉を聞いた巫女は大きく目を(みは)る。


 そんな巫女の反応に背中を押されたのか、男は一度ゴクリと空唾を飲み込んでから続く言葉を口にした。


「知っての通り、俺ぁ豪商の放蕩息子だ。お前さんに出会うまで、ずっと親の金にあかせて遊び歩いてきた。だが……だが、真剣にお前さんと一緒になりてぇって思うようになって、こんなんじゃならねぇって、初めて思ったんだ」


 男の言葉には、心の底から紡がれていると分かる真剣味があった。男をここで初めて見た千佳子でさえその気迫が分かるのだ。男と恋仲にある巫女がそれに気付かないはずがない。


「俺自身が、今までの行いで人様に後ろ指を差されるのは仕方がねぇ。だが、桜守(さくらもり)の巫女として一生懸命務めを果たしてきたお前さんを、俺のせいで後ろ指差されるような立場には置きたくねぇんだ」


 巫女は男を真っ直ぐに見上げて、静かに男の言葉に耳を傾けていた。ただ己の胸元に置いた手だけが、何か痛みをこらえるかのようにギュッと胸元を握りしめる。


「桜守の巫女は、生涯(みさお)を立てなきゃならんっていう役割じゃあねぇ。逆に誰かに(とつ)いだからと言って降りれる役割でもねぇんだろ?」

「……はい」

「お前さんは、一生桜守の巫女だ。お前さんはこの村から出ていけねぇ。だったら俺も、ここで暮らしてかなきゃならん。お前さんと一緒に、人様の中で堂々と暮らしていくには、俺はきちんと、誰からも認められる真っ当な人間にならねぇといけねぇ」


 男の両の手がグッと硬く拳の形に握りしめられる。巫女が胸元で握りしめた手と同じように、その手も何か痛みをこらえているようだった。


「今更この村で『真っ当に働くから俺を使ってくれ』なんて言っても、誰も使っちゃくれやしねぇ。それに……俺もきっと、お前さんや俺の家族に甘えちまう。だから……」

「……村の外に、出る、と?」


 男が語り始めてから、巫女が初めて口を開いた。固い声に男は迷いを振り切るように頷く。


「お袋の実家のツテを頼った。浪速(なにわ)の廻船問屋に、奉公に出る話がついてる。まぁ、俺ぁもうこんな歳だ。名目は『奉公』じゃなくて『修行』だな」


 迷いや心残りを振り切るかのように、男はカラリと笑ってみせた。


 無理やり浮かべた笑みだということ見れば分かる。だがその笑みには今までになかった強さがあった。


「俺ぁお前を幸せにしたい。俺と結婚したことで、不幸になんかさせたくない。村のみんなに祝われる中、お前さんには綺麗な白無垢着てもらって、堂々と花嫁道中して、俺ンとこに来てほしい」


 その言葉に、ついに巫女の瞳から涙がこぼれた。白く柔らかな頬を伝って弾けた涙は、光と桜花が散る中へ消えていく。


 男はそんな巫女に笑いかけると、握りしめていた拳をほどいた。そっと伸ばされた指先は、巫女の目元から優しく涙をぬぐっていく。


「必ず、帰ってくる。みんなに認められる真人間になって、お前さんの元に帰ってくる。だから」


 待っていちゃあくれないか。


 その言葉とともに、千佳子の視線の先にあった景色は弾けて消えた。


「っ!?」


 桜吹雪に視界を閉ざされた千佳子は思わず腕で顔を庇う。


 しばらくして風が収まったのを感じてから腕を外してソロリと目を開くと、さっきまで確かに二人が立っていたはずである場所には淡く茂った下草の緑だけが見えた。


 ──どういうこと?


 思わず千佳子は二人がいた場所へ一歩踏み出す。


「……御霊木様」


 その瞬間、今度はさっきまで千佳子がいた場所から、鈴を振るような声が聞こえてきた。


「どうか彼をお見守りください。彼が無事に修行の旅を終えて、無事にこの村へ帰ってきてくれますように、どうかお見守りください」


 千佳子はまた桜の幹の影から声がする方を覗く。


 今度そこにいたのは巫女だけだった。桜の幹に片手を添え、もう片方の手を拝むように立てた巫女は、静かな声で呟くと桜を見上げる。先程から変わらず満開の花を咲かせている桜は、巫女の視線に答えるかのようにヒラリ、フワリと桜花を散らした。そんな光景を見つめた巫女は切なげに顔を歪めるとそっと額を桜の幹に預ける。


「……っ!」


 そんな一連の動きを見てしまった千佳子は思わず巫女へ声をかけようと身を乗り出す。


 だが千佳子が何かを言うよりも、巫女の姿が桜吹雪となって弾けて消える方が早かった。


 ──そうか、これは、桜の記憶なんだ。


 また桜を挟んだ反対側に気配が生じるのを察した千佳子は、ようやくここで何が起きているのかを覚る。


 ──私は、桜と桜守の巫女が紡いだ記憶を垣間見てるんだ。


 千佳子が桜の幹を回り込むごとに、桜花が舞っては散るごとに、画面をコマ送りにするかのように目の前の景色は変わっていった。


 桜が散っていく。葉が茂っている季節も巡った。桜の葉が鮮やかに紅葉して、寒々しい景色の中に淡雪が舞う。


 だがあの男は、ずっと姿を見せない。季節の巡りが何度回って、何度桜が咲いて、散っていっても。


 時折、待ち続ける巫女の元に村人がやってくる景色も見えた。


『巫女様、いつまで待ち続けるつもりなんだい』

『こんなことは言いたかないけどね、あいつは根っからの遊び人だ。巫女様は騙されたんだよ』

『もう何年待ったんだい? いい加減目を覚ましておくれ。巫女様を嫁に迎えたいって男なんざ、他に何人もいるじゃあないか』

『はぁ……。恋に目を曇らせちまったばっかりに爪弾きにされちまって。哀れだねぇ』

『さっさと目を覚まして血を残していれば、こんな村八分みたいに扱われることもなく、こんな桜の下で、(ひと)り寂しく野垂れ死ぬこともなかっただろうに……』


 誰に何を言われようとも、最後まで巫女は穏やかな表情のまま首を横へ振り続けた。白皙(はくせき)の美貌が衰え、誰にも見向きもされなくなり、最後には気が狂った老婆扱いをされるようになっても、巫女は桜の木の下で、ずっと男を待っていた。


 ──本当に、約束通りに、ずっと待ってたんだ。


 巫女の姿が消えた後には、穏やかに咲き誇る桜の木だけが残された。


 誰もいない、誰も帰ってこない、桜の木だけが。


 ──信じていたから。……愛して、いたから。


 心の中に独白がこぼれ落ちた瞬間、千佳子の目から涙がこぼれていた。


「え、あ……」


 とっさに何が起きているのか、千佳子には理解することができなかった。気付いてからも涙はボロボロとこぼれていって止まってくれない。


 泣くつもりなんて、なかったのに。


 ──寂しい。


 不意に、散華(さんげ)()む。


 その静寂の中に、ポツリとその言葉は落ちた。


『寂しい』


 最初、千佳子はその言葉が自分の胸の奥からこぼれた声なのかと思った。


 だが違う。耳を震わせず、頭に直接響く声だが、これは千佳子の声ではない。


『どうして、帰ってきてくださらないの』


 細く、だが鈴を振るように美しい声は、桜の下で待ち続けて、ついに儚くなった巫女のものだ。


『約束をした。だからきっと帰ってきてくださる。だってあなたは、わたくしとの約束だけは、決して反故(ほご)にしなかった』


 信じ続けること。


 それがあなた様の決心に応える、わたくしの唯一の(すべ)でした。この村に留まり続けなければならない宿命を負ったわたくしが、唯一成せる愛の形でした。


 それなのに、わたくしは、その術さえも取れなくなってしまった。


 ──……どうして。


『こんなに待っているのに、帰ってきてくださらないの……?』


「……っ!!」


 悲しみに、胸が捩じ切られそうな思いがした。


 何よりも想う人の喪失。向けている感情は恋慕と思慕で違うかもしれないが、千佳子にはその痛みが分かる。


 分かってしまうから、痛み同士が溶け合って、どちらの悲しみなのかが分からなくなってしまう。侵食されてしまって、体を無くした巫女の代わりに千佳子が泣いている。


「……っ、どうして……っ、どうしてぇ……っ!」


 このままではいけないと、心の中で誰かが叫んでいる。だが同時に、このまま悲しみの海に溶けて消えてしまいたいとも思う。


 溶け合って、グチャグチャになって、もう何が何だか分からない。涙を止めてしまったら、きっと千佳子は弾けてしまう。


「どうしてぇ……っ!!」

『どうしてぇ、帰ってきてぇ、くれなかったのぉ……?』


 だがそんな衝動は、不意に聞こえてきたネチャリと粘り気を帯びた声に凍り付いた。


 ヒヤリと背筋を氷塊が滑り落ちる感覚に千佳子は弾かれたように背後を振り返る。止まらない涙を散らしながら振り返れば、美しさだけしかなかった世界が端からドロリと濁った闇に侵食されていた。


『さぁて、どうしてだろうねぇ?』


 その闇の中から、()()が進み出てきて形を結ぶ。


 黒い(よど)みの中から現れた(もや)は、ぼんやりとヒトの形を取った。何となく着物を纏った少女だということは分かるが、細かい所は周囲を覆うように漂う黒い靄のせいではっきりとは分からない。


 だが視えなくても、ひとつだけ分かることがある。


 ──マズイ。


 決してこれ(・・)に関わってはいけない。


 これ(・・)は、千佳子が()てきた中で、一番ダントツにヤバくて禍々(まがまが)しいモノだ。


『さぁ、おいで? (わらわ)も一緒に探してやろう』


 その少女が、靄の向こうから千佳子を招く。


 千佳子は反射的に両手で口を覆うときつく奥歯を噛みしめた。視線は外して、少女の足元辺りに意識を向ける。


 ──無意識にでも応えたら、一発で喰われる。


 背筋を流れ落ちる冷や汗が止まらない。立っているだけでやっとだ。膝が震えて逃げ出すこともできそうにない。


 ──多分、あれだ。あれが今まで、桜に近付く人達を喰っていたんだ……!


『寂しいのだろう? 苦しいのだろう? 妾がその念から解放してやろうぞ』


 ──応えなければ、時間は稼げる。だけど、そこからどうすれば……


 千佳子は少女から意識をそらしたまま必死に頭を回す。だけどいい考えは何も思い浮かばない。『あの少女が消えるまでこのまま耐え続ける』というのはあまりにも下策だ。


 何か、何か策は。手段は。


 ──どうすれば……!


 パニックになりそうな心を必死に落ち着けて考え続ける。


 その瞬間、フワリと何か白いものが千佳子の傍らをすり抜けて前に出た。ハッとそれに意識を向けた千佳子は、次の瞬間思わず両手を伸ばして叫ぶ。


「ダメ……ッ!!」


 白いものは、巫女装束の袂だった。


 桜から吸い出されたかのように、巫女は少女に招かれるがまま、フワリ、フワリと少女の方へ近付いていく。その顔に表情はなく、瞳も虚ろだった。


 そんな巫女の色を失った唇からポツリと言葉がこぼれていく。


 ──サミシイ。


 その形に巫女の唇が動いた瞬間、靄の向こうで少女の唇の両端がキュッと吊り上がる。細かい表情など分かるはずがないのに、なぜだか千佳子にはそれが分かった。


 同時に、覚る。


 ──あいつの狙いは、最初から桜守の巫女だったんだ……!


 少女が呼んでいたのは千佳子ではなく、巫女だった。


 それが分かった瞬間、千佳子は巫女を追うように前へ出る。だが目一杯伸ばされた千佳子の手が巫女装束の袂を握るよりも、靄の中から伸びた触手が巫女を巻き取る方がわずかに早い。


 触手が巫女に触れた瞬間、ジワリと巫女が纏う純白の小袖が色を変えた。淡く燐光を放っていた巫女の体は、触手に触れた所からジワリジワリと闇に染まっていく。


 そんな己に、巫女は気付いていないようだった。


 ──サミシイ……サミシイ……


 徐々に闇に染まっていく唇は、他の言葉を忘れてしまったかのように、ひたすら寂しい、寂しいと繰り返す。


 ──どうすれば……っ!?


 もはや千佳子は直接巫女に触れられない。千佳子はあくまで視えるだけで、他はごくごく一般的な女子高生だ。あそこまで闇に侵食されてしまった巫女に無理やり手を伸ばせば、千佳子まで一緒に呑まれてしまう。


「……っ!」


 どうすればいいのか。どうするべきなのか。


 千佳子は手段を求めて周囲に視線を走らせる。


 その時になってようやく、千佳子は周囲の変化に気付いた。


「桜が……っ!」


 光に溢れていたはずである世界は一面闇に染め上げられていた。


 まるでその闇を一心に吸い上げたかのように、桜は闇の中で一際黒い花弁を咲かせている。そこには神々しさも清らかさも何もなかった。ゾクリと背筋を震わせるような、あの靄の中に立つ少女と同質の瘴気がヒラヒラと桜花が舞い落ちるたびに周囲に拡散されていく。


 ──まさか、巫女が呑まれたから、桜も影響を受けてるのっ!?


 千佳子の背筋に走る悪寒が止まらない。


 まるでそれに気付いているかのように、靄の中で少女が(わら)った。


『ほれ、巫女よ。あれは違うか? あれはお前が欲した男ではないのかえ……?』


 少女は嗤ったままフワリと腕を上げた。まるで黒い袂が舞うかのように、その動きに合わせて靄が動く。その示す先へ、巫女はゆっくりと表情のない顔を巡らせた。


 千佳子は強ばる体を叱咤すると必死に巫女の視線の先へ顔を向ける。


 黒に支配された世界は視界が効かない。だがなぜか少女が示した辺りだけはぼんやりと薄明るく光が灯り、その先を見通すことができた。


 その景色の中に、動く人影が見える。


「っ……!!」


 人影の向こうに、ぼんやりとブランコの影が見えた。目をこらせばシーソーの影も見える。あの瘴気の先は現実世界の公園に繋がっているのだ。


 その公園の中を、フラリ、フラリと人が歩いてくる。


 まるで何かに魂を奪われてしまったかのように。……まるでこちらに見惚れているかのように。


 ──桜に呼ばれてる……!?


 千佳子のように視える者でなければ、いくら異界と現実世界が近くなっていようともこちらの世界に入り込むことはできない。そこに異界の入口が口を開けていることさえ気付けないはずだ。


 だがこちらの世界にいるモノにとって、その境界を越えることは息をするよりもたやすいことであるはず。


「……────」


 青年を見つけた巫女の唇が、名を呼ぶかのようにわずかに震える。


 闇に染まった白小袖が、青年を求めてフワリと動いた。


「ダメッ!! その人はあなたが待っていた人じゃないっ!!」


 それを見た瞬間、千佳子は弾かれたように飛び出していた。巫女が手を差し伸べる先へ飛び込み、青年の姿を隠すように大きく腕を広げる。


「目を覚まして!! そんなヤツの言いなりになっちゃダメッ!!」


 まだ巫女は染まり切っていない。桜に依った巫女の念を利用して事件を起こしているのは靄を纏った少女だ。巫女は利用されているだけにすぎない。


 だが今ここで、巫女自身が手を伸ばしてしまったら。


 ──待っていた、だけなのに。


 ただひたむきに、愛しい人を待っていただけなのに。約束を果たそうとしていただけなのに。


 そそのかされて、人を手にかけて、闇に同化してしまうなんてあんまりだ。悪しき存在に堕ちてしまうなんて、悲しすぎるじゃないか。


 この闇に染まってしまったら、もう二度とあの男には再会できない。


 そんな予感が、千佳子にはあった。


 ──そんなの絶対ダメッ!!


 だが千佳子の思いに反して巫女の動きは止まらない。フワリと小袖の袂を払った手が千佳子に向かって伸びる。ずっと虚ろだった瞳が、邪魔をする千佳子を映してキッと吊り上がり、そのまま(まなじり)が切れ上がって血の涙がこぼれた。


「っ……!!」


 ──あ、マズイ。


 声がこぼれたが、もう遅い。金縛りにあったかのように千佳子の体は動かないし、巫女との距離が近すぎる。


 今までずっと避けてきたこと。ヒトならざるモノという脅威。


 それが具体的な『死』という形になって、千佳子に襲いかかる。


『そもそも、(ぬし)は本当に死にたいのかえ?』


 頭が真っ白になる。


 その瞬間耳の奥で響いたのは、この桜の下で初めて身を震わせた時にも蘇った、あの問いだった。


「……玉ちゃん」


 祟り殺されるなら本望。


 ずっとそう言い続けてきた言葉が、土壇場になって反転する。


 恐怖で頭が真っ白になった瞬間、千佳子の脳裏をよぎったのは、新雪のようにすべての穢れを拒絶する白だった。


「玉ちゃんっ!!」


 気付いた時には叫んでいた。


 一方的に八つ当たってお社を飛び出してきたことも、自分達は利害関係でしか繋がっていないのだということも忘れていた。何なら名前を叫んでいる自覚さえなかった。


 諦めたつもりになっていたのに、無意識のうちにすがっていた。


 そんな千佳子の絶叫は、神の耳に届く『本気の願掛け』となっていたのだろうか。


『ッ、ァァァァァァァァァァァッ……!!』


 バシンッと、音よりも衝撃波と言った方が正しい鋭い音が千佳子を叱咤した。同時に掠れた不気味な咆哮が千佳子の体を揺さぶる。


 その衝撃にふらついた千佳子の体は、後ろから伸ばされた腕にポスリと抱き留められた。思っていた以上にしっかりした胸板の感触に顔を跳ね上げるのと、制服の胸ポケットに熱を感じるのは、ほぼ同時。


「やれ、面妖な」


 そんな千佳子の視界を、鮮烈な白が焼く。


「普段わしにあれほど祟り殺されることを望んでいながら、いざ祟り殺されるのを前にすると恐れを抱くか」


 跳ね上げた視界の中に、上下逆さまで見ても秀麗だと分かる白皙(はくせき)の美貌があった。意地悪く銀の瞳を細めたお狐様は、千佳子の頬を両手で挟むと言葉を続ける。


(ぬし)の本当の望みは『死』ではない。頑是(かんぜ)なさ(ゆえ)の浅慮を自覚し、これからはわしのために生に励めよ?」


 蠢く白と、ゆらめく狐火の青。


 あの日と同じ、幽玄の景色。


 違う所を上げるならば、あの日白かった桜が今は漆黒に染まっていて、千佳子が尻尾の中ではなく玉藻の腕の中にいることくらいか。


「何せ主は、わしの加護を受けた第一号であるが故に」


 周囲を満たす闇とどこまでも対極にある白に目を(みは)る千佳子の前で、玉藻は国なんて簡単に傾けられそうなくらい、(あで)やかに笑っていた。


「お前にそう簡単に死なれては、わしも困るのでな」

「玉ちゃん……?」


 とっさに玉藻の名を叫んではいたが、本当に玉藻が来てくれるとは思ってもいなかった千佳子は、言葉をなくしたまま呆然と玉藻を見上げることしかできない。玉藻に言われた言葉をきちんと受け取る余裕さえなかった。


「どうやって……」


 ただそう問うだけで精一杯だ。


 そんな千佳子に玉藻はピクリと眉を跳ね上げる。


「言うたであろう。その守りにはわしの力が込められておる。わしと主を繋ぐ通路の役割もすると。今宵主が狂い咲きの桜を張り込むならばと、気を凝らしておったのじゃ」


 玉藻は千佳子をチラリと流し見ると手にした扇で口元を隠しながらわずかに瞳を細めた。銀の瞳に青白い燐光が舞い、視線にゾクリと背筋が粟立つかのような毒花の艶が宿る。


「さて、これを祓えば(しま)いじゃ。予定は狂ったが、さっさと片付けようか」


 その笑みはそのまま瘴気を纏った巫女と少女に据えられた。一度打ち払われた扇がバッと闇の中に青白い火の粉を散らす。


 その音にハッと我に返った千佳子は、慌てて口を開いた。


「待って玉ちゃんっ! まさかあのまままとめて祓っちゃうつもりっ!?」

「まとめても何も、元凶は()()で間違いなかろうて」

「そうなんだけど違うっていうか! 黒幕はあの後ろの靄っていうか女の子だけで桜守の巫女は利用されてるだけなのっ!」


 千佳子の言葉に動きを止めた玉藻は不機嫌そうに千佳子を見下ろす。その瞳には『またぞろ面倒なことを言い出しおったか』という感情が隠すことなく広げられていた。普段はあれでも狐という獣の本性を隠していた方だったのか、今の玉藻の目には千佳子が初めて見る獰猛な色が宿っている。


「あの巫女は、桜に依った念なの! 桜の記憶って言うべきか、とにかく無害なのっ!」


 怖い、と。素直にそう思った。


 それでもその恐怖をグッと飲み込んで、千佳子は必死に言い募る。


「巫女の根底にある『寂しい』『悲しい』っていう思いを靄が利用してるだけなの。靄さえ祓えれば巫女は桜に帰してあげられる。だからあの靄だけを何とかしてっ!」

「怪異に巻き込まれてわしをこんな場所まで引っ張り出した挙句、更にはそんな面倒なことまで言うのかえ?」

「私、加護第一号なんでしょっ!? これくらいのワガママ叶えてくれたっていいじゃんっ!!」


 見て見ぬフリを、したくない。


 千佳子と同じ世界を視ている、玉藻の前では。本当の自分を偽らなくてもいい、玉藻の前では。


 千佳子の目に価値があると言ってくれた、玉藻の前では。


「それにっ! 玉ちゃんはこの町の土地神様なんでしょっ!?」


 千佳子はキッと瞳に力を込めると玉藻を真っ直ぐに睨み上げた。


「みんなの信心を集めたいんでしょっ!? この土地に生きているモノも、ただ存在しているだけのモノも、全部ひっくるめて救えてこその土地神様なんじゃないのっ!?」


 ワガママであってもいい。八つ当たりであってもいい。


 それでも、引きたくない。


「何とかしてよっ!! 玉ちゃんっ!!」


 千佳子に視線を落とす玉藻の瞳の中では、変わらず青い燐光が舞っていた。その燐光は玉藻がスッと瞳をすがめた瞬間、一瞬だけ勢いを増す。


「……加護と信心は利害の一致。物事の表と裏」


 睨み合いに先に折れたのは、いつものごとく玉藻の方だった。


 すがめられた瞳が降りてきた(まぶた)に隠される。フーッと深くこぼされる吐息には、微かに青い狐火がまとわりついていた。


 だが玉藻は不機嫌ながらも指先だけの動きで広げた扇を閉じ、一旦攻撃の構えを解く。


「確かに、主が()く言葉もまた真理」

「! じゃあ……!」

「ただし、わしだけがここまで労を()るのは、やはり割に合わぬ」


 千佳子は希望に顔を輝かせる。そんな千佳子を囲い込むかのように、銀の狩衣の袂がフワリと舞った。


「主がそれを望むのであれば、主もそれに見合うだけの働きをしてみせよ」


 そしてそのまま玉藻の腕は千佳子を(ふところ)に引き込むように動く。より強く千佳子を引き寄せた玉藻は、千佳子が玉藻の胸に背を預けるような体勢を整えさせると、後ろからゆるりと千佳子の体に腕を回した。


「主の目でわしの力を導け。主が祓いたいモノと守りたいモノの境界を、主の力で引くのじゃ」


 語りながら玉藻はユルリと右腕を上げた。その指先には閉じた扇が握られている。さらにその扇が指し示す先には、瘴気に侵食されつつある巫女と靄を纏う少女があった。


 まるで扇が指し示す先に導火線でも伸びているかのようにユルリと青白い狐火が燃え上がる。


 その今にも飛びかからんとするような狐火を見た瞬間、千佳子は弾かれたように玉藻を見上げていた。


「導くって……っ!?」

「視よ。そして視覚の中に意志の線を引け。浄化の炎が焼き払う先を、主の目で見定めよ」


 どうやって、と続くはずだった言葉は、玉藻の言葉にさえぎられた。


 空いていた左手がスルリと頬を撫で上げるかのように動き、フワリと千佳子の視界を奪う。とっさに千佳子はその手から逃れようと身をよじるが、女のように細くて綺麗な手をしているくせに玉藻の手は千佳子が暴れても小揺るぎもしない。


 ──ちょっ……! そんなに力が入ってる感じもないのに……っ!!


「わしが加護を与えた第一号にならば、それくらいのことは容易にできようて」


 突然のことに驚く千佳子の耳元で、(つや)を含んだ声が低く(ささや)く。


 その瞬間、まるで耳から染み込んだ言葉が(えが)き出すかのように、闇に閉ざされた千佳子の眼裏(まなうら)にぼんやりと景色が浮かび上がってきた。


 広がる瘴気の靄と、靄に取り込まれかけている巫女。さらにその後ろで(わら)う少女。


 一見先程までと同じにも見える光景。唯一違う所は、先程までは片鱗しかなかった青白い狐火がすでに玉藻と千佳子を取り込まん勢いでメラメラと燃え上がっている所だった。


 燃え上がる狐火で明るくなった視界に驚いた千佳子は思わず目を丸くする。


 そんな千佳子の視界の端で、もう待ち切れないとばかりに狐火が燃え上がる。まるで玉藻の尻尾の一尾であるかのように伸び上がった炎は、真っ直ぐに巫女に向かって(あぎと)を剥いた。


 ──ダメッ!!


 千佳子はとっさに手を伸ばすとその炎の先を払いのけていた。


 現実ならばそんなことをした所で炎が消えることはないし、そもそもこの位置から手を伸ばしても届くはずがない。


 だが千佳子の視界の中の炎は、千佳子の手に弾かれたかのように行き先を変えた。一度炎の海の中に返っていった切っ先は、また別の場所から巫女に襲いかかろうと再び形を作る。


 ──どうすればいいのこれっ!? 払い()けてるだけじゃいつまでたっても(らち)が明かないし……っ!


 生まれては消え、また消えては生まれる炎の切っ先を手で払い続けながら千佳子は巫女へ視線を凝らした。


 玉藻は、千佳子が境界を決めろと言っていた。祓いたいモノと守りたいモノの境界を決めろと。


 ──私が指示を出せば、私の言うことを聞いてくれるってこと? 玉ちゃんの狐火が?


 不安と半信半疑で心を揺らしながらも、千佳子は打開策を求めて巫女に視線を凝らす。


 その瞬間、スマホのカメラでズームをかけたかのように千佳子の視界はギュンッと巫女にフォーカスされた。鮮明なままいきなりドアップにされた巫女の胸元を、ゾワゾワと黒い虫が這うかのように瘴気が侵食していく。


 ──え、キモチワル。


 ドアップになっている分、気色悪さも格段に強い。だがその気色悪い視界のおかげで、瘴気が液体のように巫女に染み込んでいるわけではなく、虫が服の上を這うように侵食が進んでいることが分かった。


 つまり瘴気は個体で、まだ巫女と分離している。


 境界が、ある。


 ──このキッショい虫だけ焼いて、桜守の巫女は守る!


「っ!」


 力を導くとは具体的にどういうことなのか、千佳子には分からなかった。だから千佳子は己が決めた境界を強く意識したまま、伸ばした右人差し指を鋭く振り下ろす。


「いっけぇぇぇえええっ!!」


 飛びかかる先を求めて暴れ回っていた狐火は嬉々として顎を剥いた。その切っ先が千佳子の指先を伝うようにして真っ直ぐに巫女に向かって伸びていく。


『──────────ッ!!』


 そこまで見届けた瞬間、断末魔の叫びが千佳子を叩いた。


 ハッと我に返ると、目元を覆っていた玉藻の手はいつの間にか外されていた。目がくらむほど明るくなった視界の向こうで、玉藻の狐火が靄を押し包むかのように燃え上がっている。


 ──巫女は……っ!?


 思わず前のめりになる千佳子を引き止めるかのようにグッと玉藻の腕に力がこもる。思わず千佳子が玉藻を振り仰いだ瞬間、ケタケタと耳障(みみざわ)りな笑い声が千佳子の耳を叩いた。


 今度は声が聞こえた方を振り返ると、狐火に焼かれながらも靄を纏う少女が嗤っている。


 その声にゾクリ千佳子の背筋が震えた。


 ──何、あれ……


 笑い声を上げながらも、狐火に焼かれた少女の姿は崩れていった。ケタケタという笑い声はそれでも続いていたが、やがて一際高く燃え上がった狐火に声までもが焼き尽くされる。


 最後に玉藻がバッと広げた扇を振り抜くと、狐火も瘴気もパッと青い燐光となって消えていった。


 その最後の最後の燐光が消え去った瞬間、真っ黒な何かがコンッ、コロンッと微かな音を立てながら地面に落ちる。(まり)が跳ねるかのように数度、テンッ、テンテンッと地面を跳ねた鉱石は、宙に微かに漂っていた瘴気を吸い込むと静かに動きを止めた。


「……終わっ、た……?」


 石が動きを止めてからもしばらく息を潜めて様子をうかがっていた千佳子は、神々しさを取り戻した空気を数度吸い込んでからおずおずと口を開く。


 その声を聞いた玉藻は、清らかな色を取り戻した桜の花びらを浴びながら静かに背後を振り返った。


「いや、まだ終わりではない」

「え?」


 玉藻の視線の先を追うように千佳子は顔を巡らせる。


 その瞬間、グラリと千佳子の足元が揺れた。


「わっ!?」

「あの者の旅路に、まだ決着がついておらぬゆえに」


 そんな千佳子を、玉藻がもう一度深く懐に抱き込んで支えてくれた。さらに玉藻は視線の先と千佳子が向かい合うようにゆっくりと体勢を整えてくれる。


「あ……」


 体ごと玉藻の視線の先へ振り返った千佳子は、そこにいた人物に小さく声を上げた。


「巫女様……」


 振り返った先にいた巫女は、地面に座り込んでいた。両膝と両手を地についてペタンと座り込んだ巫女は、己の身に何が起きていたのか分かっていないらしい。ぼうっとしたまま己の手に視線を落とした巫女は、パチパチと目を(しばたた)かせている。


「この者、余程ここへ未練を残しているらしい。ここまで来ると、もはや念と言うよりも魂そのものじゃ。その想いの強さと、魂に備わっていた巫女としての霊力をあやつに狙われてしまったのであろうて」


 玉藻は千佳子を支えたまま、軽く扇を一閃した。扇の軌跡に生み出された狐火と桜花が、風の中にホロホロと姿を崩していく。


「もう、旅立っても許されよう。約束は今、果たされる」


 その光が(こご)って、今度は人影を作り出した。


 それが誰であるのか理解した瞬間、千佳子は思わず鋭く息を呑み、喉が勝手に声を上げる前に両手で口を塞ぐ。


 ──あの人……!


 そんな千佳子の前で、現れた人影は男の姿を取った。頬がやつれ、洒落っ気が消えているが、その男は巫女が待ち続けていた男に間違いない。


 男の方も男の方で、何が起きたのか分かっていないのだろう。だが立ちすくんだまま周囲を見回していた男は、座り込んだ巫女を見つけた瞬間、大きく目を見開くとまろぶように巫女へ駆け寄っていく。


 男の荒れてひび割れた指が、巫女の肩に触れる。


 その瞬間、弾けた光景があった。


 ──これ、は……


 荒波に揉まれる船内。


 ようやくたどり着いた見知らぬ町。


 慣れない環境で必死に働くも、毎日のように飛ぶ罵声。それでも歯を食いしばって必死に働くうちに周囲には笑顔が増えていった。


 飛ぶように季節が過ぎていく中、周囲には次第にともに汗を流して笑いかけてくれる仲間の顔が増えていった。そしてチラリ、チラリと、そんな男を睨む主の顔も、垣間見える頻度が上がっていく。


 そして、次のお役目を果たせば、晴れて故郷に戻れるとなった日のこと。


 その日は、稀に見る嵐の夜だった。


 主は男に多額の金子の運搬を火急の仕事として命じた。仲間に『こんな日に仕事に出るなんて』と止められたが、断れば断ったでまたいらぬ角が立つ。


 男は同行を申し入れてくれた仲間達の身を気遣い、単身で使いに出た。


 そんな男の背後から迫る刃。奪い取られる金子。目の前に迫る濁流……


 そこで、流れる光景は途切れた。


「そんな……」


 千佳子の唇から、押さえきれなかった声が零れ落ちていた。


「帰ってこなかったんじゃなくて、帰ってこられなかったってこと……?」


 真面目に働いて、向こうの仲間達にも認められる真人間になっていたのに、店主に(ねた)まれて殺された。嵐の夜に刺されて濁流に突き落とされたならば、恐らく死体は上がらなかったはずだ。きっと店の金を持ち逃げしたことにして、巫女が待っていた村へも(しら)せのひとつも出さずに済ませたに違いない。


『すまない……すまなかった……』


 男は巫女をかき抱くと涙を流して謝罪の言葉を口にしていた。


 巫女はきっと千佳子と同じ光景を見たのだろう。驚きに見開かれた瞳が細められ、(まなじり)から涙が伝う。だがその涙は悲しみに凍えた涙ではなく、嬉しさに溢れた温かい涙だった。


『約束を……守って、下さったのですね』


 美しい涙とともに、巫女の手が男の背中へ回る。その言葉に男は巫女を抱きしめたまま何度も何度も頷いた。


(はな)、遅くなったが、祝言を挙げよう。俺の嫁さんになってくれるかい?』


 男の言葉に巫女はギュッと目を閉じた。それでもまだ涙はとめどなく溢れてくる。そのまま巫女はコクリと小さく、だがしっかりと頷いた。


 その瞬間、サァッと風が吹きすさぶ。二人の姿を隠すかのように、桜花が一斉に舞い上がった。


『ありがとう』


 その向こうから聞こえてきたのは、巫女の声だったのか、男の声だったのか。


 桜花の散華(さんげ)が消えた瞬間、二人の姿は千佳子の視界から消えていた。だが千佳子の目には桜花模様の白無垢の袂が翻る様がはっきりと視えた気がした。


 ──良かった、あなたの寂しいは、もうないんだね。


 その景色に、千佳子は思わず微笑んでいた。


 ──今度こそ、ずっとずっと、二人一緒に末永く……


 千佳子の意識も、桜花と一緒になってフワフワと揺れる。


 気付いた時には千佳子は、温かい気持ちを抱いたまま深い闇の中へ意識を手放していた。


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