参
「………………」
「あの……ゴメンって、玉ちゃん」
「…………………………」
「千佳子、思い知ったか! 我ら狐は執念深いのだ! 恐れ多くも玉藻様のおみ足を踏みつけるなど、今度こそ生きては帰れねぇと思え!」
「う……、ゴメンって。黙らせなきゃと思ったら、つい……」
ソロリと視線を上げてみるが、玉藻は千佳子と視線を合わせようとはしない。それどころか千佳子との間に壁を作るかのようにモソモソと尻尾が移動してくる。
だがこの数日の間で段々その尻尾の本数が減っている所から察するに、玉藻の怒りは徐々に薄れつつはあるのだろう、多分。
そもそも、あの場からお社に戻った直後、玉藻は千佳子に背中を向けて尻尾バリケードを作っていたのだ。それを思えば格段に玉藻の怒りは解けつつある。
「足、わざと踏んだのは悪かったと思ってるよ、玉ちゃん。……本当だよ?」
何と言葉をかけたものかと、千佳子は迷いながら口を開いた。
せっかくここまで態度が軟化してきたのだ。ここで下手な言葉をかけて再び尻尾バリケードが固くなっては困る。
「でも、あそこであれ以上変なことを口走って、あの場にいた人達に変人認定されちゃったから困るでしょ? 玉ちゃんはこれからも、ここの土地神様としてやっていくわけなんだし。土地の人達の信心を集めるためにも、まずはちゃんと信頼関係を築けるように、えっと、社会的信頼? をとりあえずゲットしないと」
千佳子が言葉を重ねると尻尾と尻尾の間からチラリと玉藻の瞳がのぞいた。わずかにすがめられてはいるが、その瞳の中に怒りの感情は見えない。
だがいつものように無感情のまましんと凪いでいるわけでもないように思えた。瞳孔が縦に裂けた銀の瞳は、何かの感情に満たされて、深い森に抱かれた湖のように静かながらも揺れている。
──まさか、玉ちゃん……拗ねてる?
その感情の色を推し量っていた千佳子は、自分の推量に思わず目を丸くした。
玉藻の感情の起伏は決して激しくない。むしろ千佳子はこのひと月、足を踏んだ時以外で玉藻の表情が大きく変わる所を見たことがなかった。何を言われても、何をされても、柳に風とばかりに受け流す玉藻は、よく言えば穏やか、悪く言えば何事にも無関心で冷たいといった様相だったのだが。
「……………………」
千佳子の視線に気付いた玉藻は、瞳をすがめたまま視線を足元に落とした。珍しく片膝を立てて座った玉藻の足は、千佳子に踏まれた甲が露出している。
そんな足を労わるかのように、これみよがしに尻尾の一本がソヨソヨと撫でた。
──あ! これ、絶対拗ねてる!! 拗ねてるんだ神様のくせにっ!!
「玉ちゃん! 御祭神ともあろう者が、たかが人間の小娘に足を踏まれただけで何日も拗ねるなんてみっともないんじゃないっ!?」
「たかが人間の小娘ごときが神のおみ足を踏むこと自体が間違いなんだろっ!!」
「源ちゃんは黙っててっ! ほら! 祟り殺すなり何なりしてもいいから、早く私と源ちゃんの話を聞いてよっ!!」
このままでは埒が明かない。
そう判断した千佳子はワサワサと動く尻尾の間に容赦なく腕を突っ込むと暖簾をかき分けるようにして尻尾の壁を取り払う。その光景に千佳子の傍らにいた源が『ヒェッ!』と悲鳴を上げながら固まったが、千佳子はそれもキッパリと無視した。
──これが祟られるレベルの不敬だって言うならさっさと祟ればいいじゃん、まったくもうっ!
「こうしている間にも町の人は困ってるんだよっ!? みんなに信仰してもらいたいなら、さっさと事件を解決しなきゃ!」
尻尾バリケードを取り払われた玉藻はプイッと千佳子から顔をそむけてしまう。だが頭上の三角耳がピクピクと千佳子の言葉に反応していることに千佳子はすでに気付いていた。
「あのね、あの桜なんだけど。かなり古いって話だったけど、樹齢500年近い山桜なんだって。この辺りがまだ村だった時代からあそこに植わってたらしいよ」
玉藻が聞いてくれているならばそれでいい。
千佳子は玉藻の尻尾をかき分けた姿勢のまま、この数日で調べてきた話を玉藻に聞かせることにした。そんな千佳子の態度についに抵抗を諦めたのか、玉藻の尻尾がスルスルと二人の間から撤退していく。
「あの公園って、あの桜を守るために作られたらしいよ。ビルの空き地に公園ができたわなくじゃなくて、桜を避けるように土地を使っていったらああなったらしいの」
パッと見ると間のビルを取り壊した跡地に公園を造ったように見えるが、実際の成立を紐解くとあの周囲に真っ先にできたのはあの公園であるらしい。調べている間にそういう噂を聞いて、気になったから図書館や役所でも調べてみた。結果、確かにそうであるという裏付けも取れている。
「桜が帯びていたのは『境界』の役割であったようです、玉藻様」
キャンキャン千佳子に喰ってかかってはいたものの、源も玉藻へ調査結果を報告する隙を伺っていたのだろう。
千佳子の隣で居住まいを正した源は、千佳子が口を閉じると先を続けるかのように口を開く。
「元々あの桜は、この一帯が小さな集落であった時代に、村の内と外の境界を示すために植えられていた木だったそうで。その木の下で村から旅立つ者を見送った者が、相手の無事を祈って願掛けをする風習から『見送りの桜』と呼ばれていたそうです。村を守り、また旅立つ村人の安全を守る霊木として、巫が立てられる存在であったと」
そんな源の言葉を隣で大人しく拝聴していた千佳子は、脳裏に蘇った光景に思わず声を上げた。
「あぁ! だからあの桜にみんな願掛けするんだね!」
声を上げた時には、ポンッと右の拳が左の手のひらを叩いている。
千佳子のそんな分かりやすい『納得ポーズ』に玉藻がようやく反応を見せた。
「千佳子、主、何か知っておるのかえ?」
「お花見の時にね、見かけたことがあるの。桜を拝んでる人」
そんな玉藻に改めて視線を据えながら、千佳子は両手を宙に伸ばした。右手は壁に触れるかのように前へ伸ばして広げ、左手は胸の前で指を揃えて立てる。
「こうやって幹を片手で触りながら、もう片一方の手をこうやって立てて拝んでね。『誰々が元気に過ごせますように』とか『誰々がどこどこの支店でも上手くやっていけますように』とか、ちゃんと声に出してお願い事をするの。で、最後にみんな『向こうで元気に過ごして、いつかはここへ無事に帰ってきてくれますように』って言葉を結ぶんだよね」
実際にその仕草を真似しながら説明すると、玉藻と源が『なるほど』という表情を見せた。桜が帯びていた役割を探ってきた源も、具体的なおまじないの内容や、そのおまじないが今でもされていることまでは知らなかったらしい。
「そっか、そういうお願い専門の場所だったんだね、あそこ。だからみんな願掛けしてくんだね」
「時代が下って村が町と呼ばれる規模に成長し、境界が外へ膨れて場所が変わったため、境界を示すという役割はあの木から外れました。ですが桜へ念を向ける儀式……願掛けの場所としての権能は今でも残されているようです」
自分の言葉に思わず頷く千佳子の隣で源が報告をしめくくる。
そんな二人の前で、話を聞いていた玉藻は少し考え込むような表情を見せた。とりあえず自分達が話すべきことを話し終えた千佳子と源は、押し黙ったまま玉藻の言葉を待つ。
「……恐らく怪異を起こしておるのは、その桜に依った念であろうな」
玉藻は懐から扇を抜くと、右手で扇を握り、反対側の手の平へ先を落としながら唇を開いた。ポン、ポン、と柔らかく扇で手のひらを叩くのは、どうやら考え事をしている時の玉藻の癖であるらしい。どこか遠くを見つめながら言葉を紡ぐ玉藻は、考えを口に出すことで己の思考を整理しているようにも見える。
「桜は元々、神が依りやすい。霊木となりやすい木じゃ。そこに人の念が長い時を掛けて折り重なっていけば、神とも妖ともつかぬモノに化けもしよう。十中八九、原因はそこにある」
「え……、でも待ってよ、玉ちゃん。そんな化けるモノになってたら、私が気付かないはずがないじゃん。桜が原因なんじゃなくて、桜に悪いヤツが憑いてるとか、そういう可能性ってないの?」
玉藻の今の言葉は『桜そのものが悪い』と言っているように聞こえる。
千佳子は何となくその言葉に違和感を覚えた。
「私、毎年あの公園でお花見してたけど、今まで何かを感じたことってなかったよ? そういう『念が折り重なって化ける』ってやつってさ、ある日いきなりポンッと化けるんじゃなくて、徐々に徐々にって感じで妖になっていくんじゃないの?」
何だか、心の中がじゃりじゃりする。
何が千佳子にそんな感情を抱かせているのかまでは分からない。ただ、千佳子の直感は玉藻の言葉に『否』を突き付けた。
玉藻は以前、千佳子の目を利用したいと言っていた。妖を視る目は希少だから、と。
そんな『不思議』を視通す目を持った千佳子の直感だ。無視していいものだと千佳子自身は思わない。実際問題、この目のせいで寄ってたかってくる妖を千佳子はこの直感だけを頼りにかわしきってきた。自分の勘は当たると、千佳子は自信を持っている。
「今年はお花見をしてないから分からないけど……。でも! おばあちゃんとお花見に行った時、私、何も感じなかったもん。最近になって何か悪いモノが取り憑いたとか、そういう感じじゃないの?」
その直感に従って、千佳子は言葉を続けた。
同時に脳裏を過ったのは、去年まで欠かさずに行っていた祖母とのお花見の光景だった。
子供の声だけが響く、長閑な昼下り。春のゆったりした空気の中、ハラハラと散る桜を祖母と二人、言葉を交わすこともなく、ただ静かに見つめていた。
そんな祖母との時間は、自分の特殊な目を気にしないでいられる、とても貴重で心穏やかな時間で。
「だから、あの桜自体が、悪さをしているとは思えないよ……」
そんな時間を作り出してくれたあの桜が、悪いものであるとは思いたくなかった。いや、悪いモノであるはずがない。
「……桜に別のモノが憑いているという可能性が、全くないわけではなかろう」
千佳子の言葉を静かに聞いてくれた玉藻は、纏う空気と同じくらい静かな声で言葉を紡いだ。そんな玉藻の言葉に千佳子は思わず顔を輝かせて玉藻を見上げる。
だが視線の先にあった玉藻の瞳は、いつの間にか鏡のように凪いでいた。そこについさっきまで見えていた、人並みの感情を湛えた柔らかな揺らぎは一切見えない。
「じゃが、そうであったとしても、主の目で視ればそれも分かろうて」
まるで凍て付いた真冬の湖面を見るかのような。全てを拒絶するかのような硬さだけがそこにはあった。
しんと凪いだ声さえも、普段と変わらないはずなのに、なぜか千佳子を突き放しているように聞こえる。
「……っ、でも……っ!」
千佳子は思わずキュッと制服の胸元を握り締めた。
痛むのはその奥だ。そんなことをした所でこの痛みは消えない。それを分かっていながらも、千佳子は胸元を掴む手を緩めることができなかった。
「多分、違うもん……っ!」
「何が」
「桜自体じゃないよ、きっと。他に原因があるはず……っ!」
それが自分の目で視た結果なのか、直感と言うべきものなのか、ただの私情でしかないのかも分からない。
だが千佳子の心は、あの桜自体が悪ではないと全力で叫んでいる。
「それは、何か根拠があっての言葉なのか」
だが玉藻はその勢いで動かせる相手ではなかった。
千佳子の激情に駆られた声に叩かれても一切揺れ動くことはない声は、ただ静かに真正面から、千佳子本人でさえ判別できていない場所を容赦なく抉っていく。
「それとも、主の願望なのか」
「……っ!」
「願望であるならば、愚かなこと。願いに縋っているだけでは、真実を見誤る。解決できる事柄も解決できん」
玉藻が言っていることは、冷たいけれども正しい。それは千佳子にだって分かっている。
──でも……っ!!
諦めたくない。
そう願った瞬間、千佳子の脳裏に妙案が閃いた。
「そうだ! じゃあ、実際に桜が狂い咲いてる所を見に行こうよ!」
弾かれたように顔を上げながら、千佳子は閃きのままに叫んだ。そんな千佳子の声が煩かったのか、玉藻の眉間にうっすらとシワが寄る。
「お昼にはその原因が視えてないだけかもしれないじゃん! もしかしたら原因となるモノは昼間は他の場所にいて、夜、桜を咲かせるためにあそこにやってきるのかもしれないじゃない」
そんな玉藻をひたと見据えて、千佳子はこの提案の有用性を説明した。今度は理論を以って玉藻を動かせるように。
「ほら、私達が桜の木を見に行った時、普通に子供が遊んでたでしょ? つまり昼間は全然大丈夫で、それをご近所さん達も分かってるんだよ! あの桜は、深夜にだけ化けるんだよ、きっと!」
「確かに、それならば一理あるな」
「私達は夜の桜を直に見ていない。きっと夜に直に視れば、今の私達に見えていないモノが視えるはず!」
説得に対する手応えを感じた千佳子は両手を握りしめてグッと前に乗り出した。我知らず引き込まれているのか、千佳子と玉藻のやり取りを息を詰めて見守っていた源まで体が前のめりになっている。
「だから、張り込もう、玉ちゃん! 私が自分の目で視て、裏で糸を引いてるヤツをを必ず見つけ出してみせるから! だから……っ!」
「なぜわしが同行する前提なのじゃ」
だがそれでも、玉藻の瞳の氷がとけることはなかった。
「主が何に固執しておるのかは知らん。じゃが、桜自体が原因であろうとも、桜に依った何かが原因であろうとも、祓えばこの一件は解決しようて」
すげなく答えた玉藻は口元を隠すように扇を広げるとその影で分かりやすく嘆息した。その吐息の中にはわずかに苛立ちのような気配が滲んでいる。
「かのヒトの子の願いは、狂い咲きの桜の一件の解決。真相を解明することは願われておらん。願われておらん所まで労を執っておっては身が持たんわ」
その言葉に、千佳子の中の何かが音を立てて凍り付いたような気がした。
だが玉藻はそんな千佳子には興味を示さない。注視することもなく視線を流した玉藻は源を見遣る。玉藻の視線を受けた源はハッと我に返ったかのように姿勢を正した。
「源、町の人間に伝えよ。怪異を祓うで用意をせよと」
「は。はぁ、しかし……そのぉ」
歯切れ悪く答えながら、源はチラリ、チラリ、と千佳子を盗み見る。
そんな源の仕草と意図に気付いているはずなのに、玉藻はそっけなく指示を続けた。
「どうせならば人前でやって、わしへの求心力を高めたい」
「『ぱふぉーまんす』というやつですか?」
「そうじゃな」
主である玉藻にそこまで言われては源も動かざるを得ない。『心得ました』と呟くように答えた源は、チラチラと千佳子を気にしながらもパタパタと部屋を出ていく。
後に残された玉藻は壁際に寄せてあった文机を手繰り寄せると、何事もなかったかのように書類仕事を始めた。小筆や硯が触れ合うカチャカチャという微かな音だけがお社の中に響く。
「ねぇ、玉ちゃん」
何を言いたいのかも分からないまま、千佳子は玉藻に呼びかけていた。だが書類仕事の準備を進める玉藻の指先は動きを止めようとはしない。
「玉ちゃんは本当に、そんな気構えでみんなから信心を集められると思ってるの?」
唇からこぼれる千佳子の声は、妙に平坦で感情の色がなかった。『あ、私、今怒ってるわ、これ』と、自分を客観視する自分が小さく呟く幻聴が聞こえたような気がする。
「事件が解決すればそれでいい? そこにある事情はどうでもいい? それってつまり、そこにある気持ちもどうでもいいってこと?」
千佳子はユラリと顔を上げて玉藻を見遣る。
対する玉藻は相変わらず千佳子のことなんて見てもいない。ただフヨリと揺れた尻尾の一本が、千佳子を追い払うかのように『シッシッ!』と揺れる。
それを見た瞬間、千佳子は久しぶりに脳内で『ブチッ!!』という音が響くのを聞いた。
「もういいっ!!」
バンッと両手を床に叩き付け、その反動を利用するように立ち上がる。ギッとありったけの力を込めて玉藻を睨み付けてやるが、憎らしいことに氷雪のごときお狐様は千佳子のことを見てすらいなかった。
「加護第一号の私の気持ちさえ考えてくれない玉ちゃんなんかに信心なんて集めらんないんだからっ!! バカにされた相手を信じたり頼ったりしようなんて思わないんだからっ!!」
千佳子の怒号に、どこか別の場所にいる源が『キャウッ!?』と悲鳴を上げて飛び上がったのが分かった。
だけどこの怒りは止まらないし、止められない。
「玉ちゃんのバカッ!! 玉ちゃんなんか独りで寂しくお社にこもって自分勝手に事件の解決でも何でもしてればいいんだっ!!」
千佳子の大声にパタリと玉藻の耳が伏せられる。
完全拒否の姿を見せつけられた千佳子は、足音も荒く玉藻のお社を後にした。