善意の押し売り
Aは静かな男だった。目立たぬように生き、誰にも迷惑をかけず、そして誰からも干渉されないことを望んでいた。朝は決まった時間に起き、決まった時間に食事をし、決まった時間に仕事へ行き、そして決まった時間に帰宅する。休日は家で読書をするか、近所の公園を散歩するのが日課だった。そんなAのささやかな日常は、ある日突然、終わりを告げた。
それは晴れた日の午後だった。Aがいつものように公園のベンチで本を読んでいると、見慣れない男が近づいてきた。男はにこやかな笑顔を浮かべ、Aの隣に腰を下ろした。
「こんにちは」
男は明るい声で挨拶をした。Aは顔を上げ、軽く会釈をした。見知らぬ人間と話すのはあまり得意ではなかった。
「いい天気ですね」
男はさらに話しかけてきた。Aは曖昧に頷いた。男は気にすることなく、話を続けた。
「何か面白い本を読んでいるんですか?」
Aは本のタイトルを指で隠した。「まあ、普通の本ですよ」
「そうですか。ところで、あなたは何か困っていることはありませんか?」
男は突然、真剣な表情で尋ねた。Aは目を丸くした。「困っていること?別に何もありませんよ」
「そうですか。でも、人間は誰でも何かしら問題を抱えているものですよ。もし何か悩み事があれば、遠慮なく私に相談してください。私はいつでもあなたの力になりたいと思っています」
男はそう言うと、自分の名刺をAに差し出した。名刺には「善意普及協会 会長 B」と書かれていた。Aは戸惑いながらも、その名刺を受け取った。
「ありがとうございます」
Aはぎこちなく礼を言った。Bは満足そうに頷いた。「困ったことがあれば、いつでも連絡してくださいね。それでは、私はこれで失礼します」
Bはそう言うと、立ち上がって公園の奥へと歩いて行った。Aは手元の名刺を見つめた。善意普及協会?一体何をする団体なのだろうか。Aは疑問に思いながらも、すぐにそのことを忘れて読書に戻った。まさかこの出会いが、彼の平穏な日常を大きく変えることになるとは、この時のAは知る由もなかった。
それから数日後、Aの自宅に一通の手紙が届いた。差出人はBだった。手紙には丁寧な言葉で、Aの健康を気遣う言葉が綴られていた。そして最後に、「つきましては、近いうちに一度、あなたの生活状況について詳しくお話を聞かせていただきたいと思っております。もちろん、あなたのプライバシーは最大限尊重いたしますので、ご安心ください」と書かれていた。
Aは不気味に感じた。なぜ見ず知らずの人間が、自分の生活状況を知りたがるのだろうか。Aは手紙を無視することにした。
しかし、Bの「善意」はそれで終わらなかった。数日後、Aの職場にBが突然現れたのだ。BはAの上司に挨拶をし、Aのことを心配していると伝えた。上司はBの熱意に感心し、Aに「何か困っていることがあれば、遠慮なくBさんに相談するように」と言った。Aは困惑したが、上司の手前、何も言えなかった。
それからというもの、BはAの生活に頻繁に現れるようになった。Aの自宅に電話をかけてきたり、休日にAの家の前で待ち伏せしたりすることもあった。Bはいつも笑顔で、Aのことを心配していると言った。
「Aさん、最近少し元気がないように見えます。何か悩み事があるんじゃないですか?私に話してみてください。きっとあなたの力になれますよ」
Bはそう言って、Aの肩に手を置いた。Aは鳥肌が立った。Bの笑顔はどこか不気味で、その善意はAにとって重苦しい束縛でしかなかった。
Bの善意は、Aの日常生活のあらゆる面に及んだ。Aが趣味の読書をしていると、「もっと外に出て運動をした方が健康にいいですよ」と言って、無理やり近所のスポーツジムに連れて行こうとした。Aが静かに音楽を聴いていると、「もっと明るい音楽を聴いて、気分をリフレッシュしましょう」と言って、自分の好きな賑やかな音楽を大音量でかけ始めた。Aが一人で食事をしていると、「一人で食べるのは寂しいでしょう。私が一緒に食べてあげますよ」と言って、勝手にAの食事に加わってきた。
Bの善意は、Aの人間関係にも影響を与え始めた。BはAの友人や同僚に、「Aさんは少し内気なところがあるので、皆さんで積極的に話しかけてあげてください」と言いふらした。その結果、Aは周囲から過剰なほどに気遣われるようになり、ますます孤立感を深めていった。
AはBの善意に耐えかねて、何度かBに直接会って、「もう放っておいてください」と頼んだ。しかし、Bは全く聞く耳を持たなかった。「私はあなたのことを心配しているだけなんです。私の善意を無にしないでください」と、逆にAを責める始末だった。
Bの善意は、次第にエスカレートしていった。ある日、Aが家に帰ると、見慣れない家具が運び込まれていた。BがAの部屋を勝手に模様替えしたのだ。「あなたの部屋は少し暗いので、明るい色の家具にしました。これで気分も明るくなるでしょう」と、Bは満足そうに言った。Aは怒りを通り越して、呆然とするしかなかった。
またある日、Aの銀行口座に身に覚えのない金額が振り込まれていた。Bからのメッセージには、「Aさんの生活が少しでも楽になるように、ささやかですが援助させていただきます」と書かれていた。AはすぐにBに電話をかけ、お金を返そうとしたが、Bは「遠慮しないで使ってください。私はあなたの幸せを願っているんです」と、頑として受け取らなかった。
Bの善意は、もはやAにとって悪夢でしかなかった。BはAの人生を完全に支配しようとしていた。Aは自分の意思で何かをすることも、考えることさえもできなくなっていた。Bの善意の重圧に押しつぶされそうになりながら、Aは絶望的な気持ちで日々を過ごしていた。
そんなある日、Aは街で偶然、Bと同じように誰かに「善意」を押し付けている男を見かけた。男はBと同じように笑顔で、相手に自分の価値観やライフスタイルを押し付けようとしていた。その光景を見た瞬間、Aは悟った。Bのしていることは、決して特別なことではない。世の中には、自分の「善意」を他人に押し付けることを生きがいとしている人間が、少なからず存在するのだ。そして、彼らは自分の行為が相手にとってどれほど迷惑であるかに、全く気づいていない。
Aは深い絶望感に襲われた。Bの善意から逃れることは不可能なのではないか。このままでは、自分の人生は完全にBに支配されてしまう。Aは、何とかしてこの状況を打破しなければならないと強く思った。
ある日、AはBに電話をかけた。「あの、少しお話があるのですが」
Bはいつものように明るい声で答えた。「どうしましたか、Aさん。何か困ったことでもありましたか?」
「いえ、そうではありません。実は、あなたに感謝の気持ちを伝えたくて」
Bは嬉しそうに言った。「そうですか。それは嬉しいですね。どんなことですか?」
「あなたが私のことをいつも心配してくれて、本当に感謝しています。あなたの善意のおかげで、私は本当に助かっています」
Bはますます喜んだ。「そんな風に言っていただけると、私も嬉しいです。これからも、何か困ったことがあれば、遠慮なく頼ってくださいね」
「はい。それで、あなたにささやかなお礼をしたいのですが、近いうちに一度、食事でもご一緒できませんか?」
Bは二つ返事で承諾した。「もちろん喜んで。いつがいいですか?」
Aは具体的な日時と場所を指定した。そして、電話を切った後、静かに微笑んだ。
約束の日、Aは指定されたレストランでBを待っていた。時間通りにBが現れ、いつものように笑顔でAに挨拶をした。
「やあ、Aさん。お久しぶりですね。今日は楽しみにしていましたよ」
「こちらこそ。今日は来てくれてありがとうございます」
二人は席に着き、食事をしながら会話を楽しんだ。Bは相変わらず、Aのことを心配する言葉を繰り返したが、Aはそれを笑顔で受け流した。
食事が終わり、デザートが出てきた頃、AはBに言った。「実は、あなたにお渡ししたいものがあるんです」
そう言って、Aは鞄から小さな箱を取り出した。Bは興味津々で箱を受け取った。
「これは何ですか?」
「開けてみてください」
Bが箱を開けると、中には精巧な作りの小さな人形が入っていた。それは、笑顔で誰かに何かを差し出している男の人形だった。
「これは…?」
Bは不思議そうに人形を見つめた。Aは穏やかな口調で言った。「これは、私があなたをモデルに作った人形です」
Bは驚いた表情を浮かべた。「私をモデルに?どうしてですか?」
「あなたはいつも、誰かに何かを与えようとしていますよね。あなたのその善意は、本当に素晴らしいと思います。だから、私はあなたを尊敬の念を込めて、この人形にしたのです」
Bは感動した様子で人形を見つめた。「こんな素敵なプレゼントをありがとうございます。大切にします」
「どういたしまして。ところで、この人形には一つだけ特別な機能があるんです」
「特別な機能?」
「ええ。この人形は、あなたが善意を誰かに与えようとすると、少しずつ重くなっていくんです」
Bは興味を示した。「へえ、面白いですね」
「そして、もしあなたが誰かに善意を押し付けようとすると、その重さはどんどん増していって、最後には持ち上げることができなくなるんです」
Aはそう言うと、にこやかに微笑んだ。Bは一瞬、顔をこわばらせたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「そうですか。それは面白いですね。でも、私は誰かに善意を押し付けるようなことはしませんよ。私はただ、困っている人を助けたいだけなんです」
「もちろん、そうでしょうね。ただ、時にはあなたの善意が、相手にとって重荷になることもあるかもしれません。そんな時は、この人形が教えてくれると思いますよ」
Aはそう言って、Bに人形を渡した。Bは少し複雑な表情をしながらも、人形を受け取った。
その後、Bは以前ほどAの生活に干渉することはなくなった。時折、電話や手紙で連絡してくることはあったが、その内容は以前よりもずっと控えめなものになった。Aは、Bが人形の重さを意識するようになったのかもしれないと思った。
しかし、数ヶ月後、Aは街で偶然、以前よりもさらに大きな人形を抱えているBを見かけた。人形は以前の人形よりもずっと精巧に作られており、その表情はどこか苦しそうに見えた。Bは重そうな人形を抱えながら、それでも誰かに笑顔で話しかけていた。
Aは遠くからその光景を見つめながら、静かにため息をついた。善意の押し売りは、決してなくなることはないのかもしれない。そして、その重さに気づくのは、いつも押し付ける側ではなく、押し付けられる側なのだ。Aはそう思いながら、人混みの中に姿を消した。




