勝者の涙
D は壇上に立ち、歓声を浴びていた。戦争に勝利した国の大統領として、彼の姿は誇り高く、威厳に満ちていた。しかし、その瞳の奥底には、誰も気づかない影が潜んでいた。
祝賀会場は熱気に包まれていた。シャンパンが注がれ、勝利に酔いしれる人々の笑い声が響く。国歌が流れ、全員が声高らかに歌い始める。
D も口を開いた。しかし、彼の唇から漏れ出たのは、自国の歌声ではなかった。
かすかに、ほとんど聞こえないほどの小さな声で、D は敗戦国の国歌を口ずさんでいた。
幼少期、D は敗戦国で数年を過ごしたことがあった。両親の仕事の都合だった。そこで得た友人たち、体験した文化、そして心に刻まれた思い出。それらは全て、今や「敵」となった国のものだった。
D の心は引き裂かれていた。祖国への忠誠と、かつての第二の故郷への愛着。勝利の喜びと、破壊された街々への後悔。
国歌が終わり、D はマイクの前に立った。そこで彼は、準備していたスピーチを忘れ、心の底から湧き上がる言葉を口にした。
「我々は勝利しました。しかし、この勝利に真の勝者はいません。戦争で失われたものは計り知れません。敵国とされた人々の中にも、愛する家族がいて、大切な故郷がありました。今こそ、和解と再建の時です」
会場が静まり返る。D は続けた。
「私は、かつて敵国で暮らしたことがあります。彼らの文化を学び、友人を作りました。そして気づいたのです。我々は、憎み合うには余りにも似ている存在だと」
D の目に、光るものが宿る。それは涙だった。勝者の涙。しかし同時に、人間性を取り戻した者の涙でもあった。
「これからは、勝者も敗者もありません。ただ、共に歩む仲間があるのみです」
会場からはどよめきが起こった。しかし、次第にそれは拍手に変わっていった。小さく、そして大きくなっていく拍手。
D は壇上から降りた。彼の背中は、これまでになく軽く感じられた。
戦後の道のりは険しいだろう。しかし、真の平和への第一歩を、D は踏み出したのだった。




