幸福度100%の街
H は窓の外を見つめた。完璧に整えられた街並み。通りを行き交う人々の顔には、みな穏やかな微笑みが浮かんでいる。
彼の右手首には、全ての市民が着用を義務付けられている「幸福メーター」が光っている。針は100%を指している。
街の至る所に掲げられた電光掲示板が、今日も同じメッセージを流している。
「幸福は義務です。不幸は犯罪です。」
H は深いため息をついた。メーターの針が一瞬、わずかに揺れる。彼は慌てて、政府推奨の「幸福強化剤」を一錠、口に放り込んだ。
だが、心の奥底でわだかまる違和感は消えない。
「これって、本当に幸せなのかな…」
その日の午後、H は公園のベンチに座っていた。周囲の人々は皆、幸せそうに談笑している。
突然、彼の目に異変が飛び込んできた。一人の少女が泣いているのだ。
H は驚いて少女に駆け寄った。「大丈夫? 何かあったの?」
少女は涙ながらに語った。「私のペットのロボット犬が壊れちゃったの…」
H は困惑した。悲しみは不幸の兆候だ。このまま放っておけば、少女は幸福維持法違反で逮捕されてしまう。
「ねえ、君の幸福メーターは大丈夫?」
少女は右手首を見せた。そこには何もない。
「私、メーターをつけてないの。だって、本当の気持ちが分からなくなるから」
H は息を呑んだ。メーターなしで生きるなんて、考えたこともなかった。
「でも、それじゃ捕まっちゃう…」
少女は微笑んだ。「大丈夫。私には、本当の幸せがあるから」
その時、警笛が鳴り響いた。幸福維持局の車が近づいてくる。
H は咄嗟に少女の手を取り、茂みに隠れた。
車が通り過ぎるまでの数分間、H の頭の中は混乱に支配されていた。少女の言葉が、彼の中で何かを揺さぶっている。
「本当の幸せ…か」
その夜、H は決意した。幸福メーターを外すことにしたのだ。
指先が震える。メーターを外した瞬間、アラームが鳴るかもしれない。それでも、彼は覚悟を決めていた。
カチリ、という小さな音と共に、メーターが外れた。
何も起こらない。
H は初めて、メーターなしで世界を見た。色彩が鮮やかに見える。空気の匂いが強く感じられる。そして、心の中にある複雑な感情の渦。
彼は街に出た。メーターなしで歩くのは、まるで裸で歩いているような感覚だ。
道行く人々を見る。皆、幸せそうだ。いや、違う。よく見ると、目は虚ろだ。笑顔の奥に、何か空虚なものを感じる。
H は公園に足を運んだ。そこで再び、あの少女に会った。
「どうだった? メーターなしの世界は」
H は答えた。「怖かった。でも、生きている感じがした」
少女は嬉しそうに頷いた。「それが本当の幸せだよ。喜びも、悲しみも、全部含めて」
その時、公園に幸福維持局の車が何台も押し寄せてきた。
H は覚悟を決めた。逃げるつもりはない。
係官たちが近づいてくる。H は大きな声で叫んだ。
「幸せってなんだろう? 考えたことありますか?」
係官たちが足を止める。
「幸せは、上から与えられるものじゃない。自分で見つけるものなんだ」
H の言葉に、周囲の人々が集まってきた。何人かが、おそるおそる幸福メーターを外し始める。
係官たちは困惑の表情を浮かべている。
その夜、街のあちこちで、人々が自分の本当の気持ちについて語り合う光景が見られたという。
完璧に管理された幸福な街で、小さな革命が始まっていた。




