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百物語  作者: 冷やし中華はじめました


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顔のない世界

A氏は生まれながらの相貌失認者だった。彼の世界には、顔という概念が存在しなかった。人々は声や髪型、体型で識別されるぼんやりとした存在でしかなかった。


ある日、革新的なウェアラブルデバイス「Face Reader」が発売された。眼鏡のように装着し、人工知能が相手の表情を分析して、装着者の視界に感情を示すアイコンをオーバーレイ表示するというものだった。


A氏は興奮して購入した。長年の悩みが解消されるかもしれない。そう思った瞬間から、彼の人生は思わぬ方向へと急転回していった。


最初の数日間、A氏は新しい世界の扉が開いたかのような高揚感に包まれていた。同僚の B さんが笑顔で挨拶してくれたことを初めて認識し、上司の C さんが眉をひそめながら書類を読んでいる様子も把握できた。


しかし、すぐに予想外の問題が浮上し始めた。


ある会議の場面。A氏は熱心に自分の企画案を説明していた。すると、同僚たちの表情アイコンが次々と変化し始めた。


「困惑」「不快」「退屈」


A氏は動揺した。どの部分が悪かったのか。なぜ皆がそんな反応をするのか。彼には皆目見当がつかなかった。


発表を最後まで終えると、上司のCさんが口を開いた。


「なかなか面白い案だね。もう少し詰める必要があるけど」


A氏は混乱した。Cさんの表情アイコンは「興味」を示していたが、他の同僚たちの反応とは明らかに食い違っていた。


この日以降、A氏は常に他人の表情を気にするようになった。しかし、表情と言葉の不一致、そして自分のどの言動に対する反応なのかを理解できないもどかしさに苛まれ続けた。


ある日、A氏は親友のDさんとカフェで待ち合わせた。


「久しぶり!元気にしてた?」


Dさんの表情アイコンは「喜び」を示していた。A氏は安堵のため息をつきかけたが、すぐに気を取り直した。


「ああ、まあね。最近は仕事が忙しくて...」


A氏が言葉を続けようとした瞬間、Dさんの表情アイコンが突如「悲しみ」に変わった。A氏は慌てて言葉を切った。


「ど、どうしたの?」


Dさんは首をかしげた。「え?別に何もないよ。それで、仕事の話を聞かせてよ」


A氏は困惑した。Dさんの表情アイコンは「興味」に戻っていた。しかし、さっきの「悲しみ」は何だったのか。自分の言動のせいなのか、それとも全く関係のない何かを思い出したのか。


会話が進むにつれ、A氏は次第に疲れを感じ始めた。Dさんの表情アイコンは刻一刻と変化し、その度にA氏は自分の言動を必死で振り返った。しかし、どの言葉がどの表情を引き起こしたのか、まるで掴めなかった。


「ねえ、最近どうしたの?なんだか落ち着きがないみたいだけど」


Dさんの声に、A氏は我に返った。


「あ、ごめん。ちょっと気になることがあって...」


A氏は躊躇いながらも、Face Readerのことを打ち明けた。Dさんは驚いた表情を見せたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。


「へえ、そんなすごいものがあるんだ。でも、A、人間関係って表情だけじゃないよ。言葉、仕草、状況...全部がミックスされたものなんだ」


Dさんの言葉に、A氏は深く考え込んだ。確かに、表情だけでは人の本当の気持ちは分からない。むしろ、表情という新しい情報が加わったことで、人間関係はより複雑になってしまったのかもしれない。


その夜、A氏は自宅で鏡を見つめていた。Face Readerを外すと、そこには以前と変わらない、特徴のない顔があった。しかし、今や彼の心の中には、無数の表情アイコンが乱舞していた。


翌日、A氏は決意を固めてオフィスに向かった。


「おはよう、みんな」


同僚たちが振り返る。A氏はゆっくりとFace Readerを外した。


「実は、僕には相貌失認という障害があるんだ。みんなの顔の特徴を覚えられないんだけど...でも、それぞれの声や仕草、個性は十分に分かる。これからは、そういう僕のままで接してもらえたらと思う」


一瞬の静寂の後、温かい拍手が沸き起こった。A氏は安堵の笑みを浮かべた。Face Readerなしでも、確かに彼はみんなの反応を感じ取ることができた。


それ以降、A氏の人間関係は以前よりもずっと豊かになった。表情という一つの要素にとらわれず、全体を見る目を養ったからだ。時折、Face Readerを使うこともあったが、それはあくまで補助的なものでしかなかった。


A氏は考えた。テクノロジーは確かに私たちの生活を豊かにする。しかし、人間の複雑さや多様性を完全に理解することはできない。大切なのは、お互いの違いを認め合い、コミュニケーションを取ろうとする姿勢なのだと。


Face Readerは机の引き出しにしまわれた。A氏の世界は、再び顔のない人々で溢れた。しかし今度は、それぞれが豊かな個性を持つ、かけがえのない存在として輝いていた。

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