記憶のパズル
エヌ氏は、裏通りにある「メモリー・クリニック」の診療台に横たわっていた。 白衣を着た医師が、複雑な機械を操作しながら尋ねた。 「本当に、すべて消してしまってよろしいのですか?」 「構わん。全部だ」 エヌ氏は断言した。 「不愉快な記憶、良心の呵責、後悔……。そういったものが、夜ごと私を苦しめるんだ。精神衛生上、良くないだろう?」 「医学的には、嫌な記憶も人格形成に必要な要素ですがね。……まあ、お客様が望むなら」
医師はスイッチを入れた。 ブーンという低い音と共に、エヌ氏の脳内から、特定の「パズルのピース」が抜き取られていく。
まずは、会社の金を横領した記憶。 (消去完了) 次に、その罪を部下のケー氏になすりつけ、彼を懲戒解雇に追い込んだ記憶。 (消去完了) さらに、金を持って逃げるために、恋人を冷酷に捨てた記憶。 (消去完了)
施術が終わった。 エヌ氏は起き上がり、大きく伸びをした。 「おお……なんて素晴らしい気分だ!」 頭の中にかかっていた霧が晴れ、心は羽のように軽い。 今の彼には、自分がなぜ金を持っているのか、細かい経緯は思い出せない。だが、そんなことは些細な問題だ。 確かなことは、自分は法を犯した覚えもなく、誰かを傷つけた覚えもない、一点の曇りもない潔白な人間だということだ。 「先生、ありがとう。私は生まれ変わった気分だ」 エヌ氏は弾むような足取りでクリニックを出て、帰路についた。
街の風景が輝いて見えた。 すれ違う人々が、みんな自分の友人であるかのような錯覚さえ覚える。 家に帰り、ソファでくつろぎながら、彼はワイングラスを傾けた。 「人生とは、なんと美しいものか。私には悩みもなければ、敵もいない」 彼は本心からそう信じていた。自分の過去を直視できる、清廉潔白な善人としての自信に満ち溢れていた。
その時だった。 ドンドンドン! 玄関のドアが、激しく叩かれた。 「おい! いるのは分かっているぞ! 出てこい!」 怒号が聞こえる。
エヌ氏は首を傾げた。 (人違いだろうか? 私のような善良な市民に、恨みを持つ者などいるはずがない) 彼は余裕の笑みを浮かべ、ドアへと向かった。 誤解なら、話せば分かるはずだ。今の私の目を見れば、私が嘘をつくような人間ではないと、誰でも理解してくれるだろう。
ガチャリとドアを開ける。 そこには、数人の男たちが立っていた。 先頭にいるのは、血走った目をした部下のケー氏だ。手にはナイフが握られている。後ろには、鬼の形相をした元恋人と、手錠を持った刑事たちの姿もあった。 彼らは全員、エヌ氏に対して殺意に近い憎悪を向けていた。
しかし、エヌ氏は慌てなかった。 彼は、仏のように穏やかで、邪気のない、完璧な「善人の笑顔」を彼らに向けた。 「やあ、皆さんお揃いで。何か私にお困りのことでも?」
そのあまりにも無垢で、悪びれない笑顔を見た瞬間、ケー氏の理性が音を立てて切れた。 エヌ氏にとって、この後に起こる惨劇は、まったく理解不能な「理不尽な災難」でしかなかった。 彼は刺されるその瞬間まで、自分がなぜ罰せられるのか分からず、「世の中にはおかしな人たちがいるものだ」と同情さえしていたのである。
(了)




