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百物語  作者: 冷やし中華はじめました


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記憶の商人

霧に包まれた街の片隅に、「J's Memory Emporium」という看板を掲げた小さな店があった。そこでは、人々の記憶が売買されていた。


店主のJは、無表情で客を待っていた。彼の目は、数え切れないほどの記憶を見てきたかのように、深く、そして虚ろだった。


ある日、中年の男Kが店に足を踏み入れた。


「いらっしゃい」Jの声は、まるで遠い過去からの反響のようだった。


Kは躊躇いがちに尋ねた。「ここで...記憶を売れると聞きました」


Jはうなずいた。「そうだ。どんな記憶を売りたいのかね?」


Kは深いため息をついた。「私には...苦しい記憶があるんです。妻との離婚の記憶です。それを消したいんです」


Jは無感情に答えた。「分かった。だが、忘れてはいけない。記憶を失うことは、自分自身の一部を失うことだ」


Kは首を振った。「構いません。この苦しみから解放されたいんです」


Jは小さな装置を取り出した。「では、目を閉じて、その記憶に集中してください」


Kが目を閉じると、Jは装置を彼の頭に当てた。一瞬の光と共に、Kの表情が和らいだ。


「終わりました」Jが言った。「代金は10万円です」


Kは晴れやかな表情で支払いを済ませ、店を後にした。


翌日、若い女性Lが店を訪れた。


「記憶を買いたいんです」と彼女は言った。


Jは棚から小さな球体を取り出した。「これは、パリでの素晴らしいデートの記憶だ。恋人と過ごした完璧な一日の思い出だよ」


Lは目を輝かせた。「素敵!それをください」


「警告しておく」とJは言った。「他人の記憶を自分のものにすることには危険が伴う。その記憶は、あなたの本当の経験ではない」


しかし、Lは聞く耳を持たなかった。彼女は代金を支払い、その記憶を受け取った。


数日後、Kが再び店を訪れた。彼の表情は混乱に満ちていた。


「どうしたんだ?」とJが尋ねた。


「私...何かがおかしいんです」Kは困惑した様子で答えた。「妻との思い出が消えてから、自分が誰なのか分からなくなってきたんです。大切な何かを失ったような...」


Jはため息をついた。「警告したはずだ。記憶は単なる出来事の集積ではない。それはあなたのアイデンティティの一部なのだ」


その時、Lも店に駆け込んできた。彼女の目は涙で潤んでいた。


「この記憶...嘘です!」彼女は叫んだ。「パリでのデートの記憶...素晴らしかったけど、でも私のものじゃない。私はそこにいなかった。この幸せは...偽物なんです」


Jは無言で二人を見つめた。そして、ゆっくりと言った。


「記憶は両刃の剣だ。喜びも苦しみも、すべてがあなたを形作っている。それを操作することは、自分自身を失うリスクを冒すことなのだ」


Kは震える声で尋ねた。「では、私たちはどうすれば...」


Jは棚から別の装置を取り出した。「これで元の記憶を戻すことはできる。だが、覚えておけ。一度失った記憶は、完全には元に戻らない。影のようなものが残る」


LとKは互いに顔を見合わせ、そしてうなずいた。


「お願いします」二人は同時に言った。


Jが装置を作動させると、二人の表情が変化した。喜びと苦しみ、そして懐かしさが入り混じった複雑な表情だった。


「これで終わりだ」Jは言った。「代金は...不要だ。これは教訓としよう」


二人が去った後、Jは店の奥に向かった。そこには無数の記憶が詰まった球体が並んでいた。Jは自分の頭に装置を当て、ゆっくりと目を閉じた。


「私も...自分の記憶を取り戻す時が来たのかもしれない」


霧の街に、小さな光が灯った。それは、失われた記憶が蘇る瞬間の輝きだった。


(了)

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