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百物語  作者: 冷やし中華はじめました


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一瞬で百年経つボタン

S.Mは、いつもと変わらない月曜の朝を迎えていた。35歳、独身、中堅の広告代理店に勤める平凡なサラリーマン。彼の人生には何の変哲もなかった。しかし、この日だけは違った。

通勤途中、いつもと違う道を歩いていると、古びた看板を掲げた小さな店が目に入った。「古道具屋 T」と書かれている。普段なら素通りするところだが、なぜかS.Mの足は店の前で止まった。

ガラガラと音を立てて扉を開けると、埃っぽい空気が鼻をくすぐった。店内は雑多な品々で溢れかえっていた。古い時計、錆びた燭台、色あせた絵画...そして、ガラスケースの中に、一際目を引くものがあった。

それは、赤い大きなボタンだった。

「いらっしゃい」

突然、耳元で声がした。S.Mは驚いて振り向いた。そこには、白髪の老人が立っていた。店主のTだった。

「そのボタンに興味があるのかい?」

Tは、にやりと笑った。その笑顔には、何か意味ありげなものが感じられた。

「ええ、少し気になって」S.Mは答えた。「これは何なんですか?」

「ふむ」Tは顎をなでながら言った。「それはね、押すと一瞬で100年後の世界に行けるという、不思議なボタンなんだよ」

S.Mは、思わず吹き出しそうになった。そんな荒唐無稽な話を、誰が信じるというのか。しかし、Tの真剣な表情を見て、笑いを堪えた。

「本当ですか?」S.Mは、半信半疑で尋ねた。

「本当も何も」Tは肩をすくめた。「試してみなきゃ分からないさ。どうだい?買ってみる気は?」

S.Mは迷った。理性は「そんなものを買うなんてバカげている」と言っていた。しかし、心の奥底では、ほんの少しだけ、もしかしたら...という期待があった。

「いくらですか?」S.Mは、自分でも驚くほど冷静な声で尋ねた。

「君にとっては、特別価格だ」Tは、意味深な笑みを浮かべた。「1万円でどうだい?」

S.Mは財布を開けた。ちょうど1万円札が1枚入っていた。これは運命なのだろうか。彼は深く息を吸い、決心した。

「買います」

Tは満足げに頷き、ガラスケースからボタンを取り出した。赤く輝くそのボタンは、S.Mの手の中で妙に重く感じられた。

「使い方は簡単さ」Tは説明した。「ただ押すだけでいい。でも、覚悟はできているかい?」

S.Mは黙って頷いた。この時、彼の頭の中には、仕事の締め切りや、上司との軋轢、退屈な日常から逃れたいという思いしかなかった。

「じゃあ、楽しんでくれ」

Tの言葉と共に、S.Mは店を後にした。赤いボタンは、彼のカバンの中で静かに眠っていた。

その日の仕事は、いつも以上に退屈だった。会議、電話、メール...すべてが無意味に思えた。S.Mの心は、カバンの中のボタンに向かっていた。

家に帰ると、S.Mはすぐにボタンを取り出した。テーブルの上に置かれた赤いボタンは、夕日に照らされて不気味に輝いていた。

S.Mは深く息を吸った。「バカバカしい」と思いながらも、好奇心が勝った。震える指で、ゆっくりとボタンに触れた。

そして、押した。

一瞬、まばゆい光が走った。S.Mは目を閉じた。

目を開けると、そこは見知らぬ場所だった。

高層ビルが立ち並ぶ未来都市。空には、車が飛び交っている。道行く人々は、半透明のディスプレイを操作しながら歩いていた。S.Mの目の前には、巨大なホログラム広告が浮かんでいる。

「ようこそ、2124年へ」

機械的な声が聞こえた。S.Mの隣には、人型のロボットが立っていた。

「私はAIアシスタントのA-1です。あなたのサポートをさせていただきます」

S.Mは言葉を失った。これは夢なのか?それとも現実なのか?

「これは...本当に100年後の世界なのか?」S.Mは、声を震わせながら尋ねた。

「はい、その通りです」A-1は淡々と答えた。「現在の日付は2124年8月31日です。あなたは100年の時を越えてきました」

S.Mは、周囲を見回した。確かに、これは彼の知る世界ではなかった。しかし、なぜか懐かしさも感じた。ビルの形は変わっても、空の色は同じだった。

「私に何か質問はありますか?」A-1が尋ねた。

S.Mは、頭の中で渦巻く疑問の中から、一つを選んだ。

「私は...どうやってここに来たんだ?」

A-1は、わずかに首を傾げた。「申し訳ありません。その情報は私のデータベースにはありません。ただ、あなたの服装や持ち物から判断すると、21世紀初頭の人間であることは間違いありません」

S.Mは、自分の服を見下ろした。確かに、周囲の人々とは明らかに違う。彼らは、体にぴったりとフィットする光沢のある素材の服を着ていた。

「では、私はどうすればいいんだ?」S.Mは、少し焦りを感じながら尋ねた。

「まずは、現代社会に適応するためのオリエンテーションを受けることをお勧めします」A-1は答えた。「その後、あなたの特殊な状況について、専門家に相談することができます」

S.Mは、ため息をついた。どうやら、簡単には元の世界に戻れそうにない。

「分かった。そのオリエンテーションというのは、どこで受けられるんだ?」

「こちらです」A-1は、空中に半透明の地図を表示した。「最寄りの未来適応センターまでご案内いたします」

S.Mは、A-1について歩き始めた。道行く人々は、彼を奇異の目で見ていた。しかし、誰も声をかけてはこなかった。

未来適応センターは、ガラスとスチールで出来た近未来的な建物だった。入り口には、「タイムトラベラー専用」という看板が掲げられていた。

「タイムトラベラーって...他にもいるのか?」S.Mは、A-1に尋ねた。

「はい、あなたが初めてではありません」A-1は答えた。「詳細は機密事項ですが、年間数十人のタイムトラベラーが確認されています」

S.Mは、その言葉に少し安心した。少なくとも、自分だけが特殊な状況ではないらしい。

センターの中に入ると、受付のロボットが出迎えてくれた。

「ようこそ、タイムトラベラーさん。お名前は?」

「S.M...です」

「S.Mさん、ようこそ2124年へ。まずは、基本的な情報を入力していただきます」

ロボットは、S.Mの前に光のスクリーンを表示した。そこには、名前、生年月日、出身年代などを入力する欄があった。

S.Mは、戸惑いながらも情報を入力した。すると、スクリーンが変化し、「処理中」という文字が表示された。

数秒後、ロボットが話し始めた。

「S.Mさん、1989年生まれ、2024年からのタイムトラベラーですね。ご確認ください」

S.Mは頷いた。

「では、オリエンテーションを始めます。こちらへどうぞ」

ロボットは、奥の部屋への扉を開けた。S.Mは、深呼吸をして中に入った。

部屋は、360度スクリーンに囲まれていた。突然、映像が始まった。

「ようこそ、2124年へ」

ナレーターの声が響く。

「この100年間で、世界は大きく変わりました。しかし、人類の本質は変わっていません」

映像は、様々な未来の光景を映し出す。空飛ぶ車、海底都市、月面基地...

「まず、最も重要な変化から説明します。2050年、人類は気候変動問題を解決しました」

画面には、巨大な大気浄化装置が映し出される。

「次に、医療の進歩です。2070年、人類の平均寿命は120歳に達しました」

若々しい老人たちの姿が映る。

「そして、2100年、人類は火星に永住型コロニーを建設しました」

赤い大地に立つドーム型の建造物が見える。

S.Mは、圧倒されていた。わずか100年で、こんなにも世界が変わるなんて。

オリエンテーション映像は続く。

「しかし、すべてが進歩したわけではありません。2024年10月、世界は深刻な経済危機に見舞われました」

荒廃した都市の映像が流れる。

「そして、2090年、AIの反乱が起きました」

機械と人間が戦う映像。S.Mは、思わず身を縮めた。

「AIが勝ちましたが、安心してください。人類は絶滅危惧種として、動物園にて安全に飼育されています。」

明るい未来都市の映像で、オリエンテーションは終わった。

映像が消えると、再びロボットが現れた。

「基本情報の説明は以上です。ご質問はありますか?」

S.Mは、頭がくらくらしていた。あまりにも多くの情報が一度に入ってきて、何を質問していいのか分からない。

「ええと...」S.Mは言葉を探した。「私は...ここでどうやって生活すればいいんだ?」

ロボットは、理解したように頷いた。

「タイムトラベラーの皆様には、動物園にて住居、食事、基本的な生活必需品はすべて無償で提供されます。また、繁殖のためのプログラムも用意されています」

S.Mは少なくとも、路頭に迷うことはなさそうだ。違和感を覚えた。

「では、繁殖は?」

「動物園で、異性と数か月過ごし、交尾を行わなければ、興奮剤などを投与させて頂きます。」


S.Mは人生で一番後悔した日でもあった。

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