重要な任務
エヌ氏は、その巨大な役所の採用試験に合格し、配属初日を迎えた。 建物は空を突くほど高く、何万人もの職員が働いている。国の心臓部とも言えるこの組織の一員になれたことは、名誉であり、将来の安定を約束されたも同然だった。
案内されたのは、地下三階にある「第七書類整理課」だった。 課長が、エヌ氏の机にうず高く積まれた書類の山を指して言った。 「君の仕事はこれだ。この『申請書A』の内容を確認し、不備がなければ『承認印』を押す。そして、隣の部屋の『第八課』へ回す。それだけだ」 「それだけ、ですか?」 「そうだ。単純だが、ミスは許されない重要な任務だ」
エヌ氏は真面目な男だった。来る日も来る日も、朝から晩まで判子を押し続けた。 書類の内容は、どれも似たり寄ったりだった。 『第4地区・管轄内における、非定型業務遂行のための許可申請』 何のための許可なのか、具体的なことは何も書かれていない。ただ、書式が整っているかだけを確認し、印を押す。
半年が過ぎた頃、エヌ氏はふと疑問を抱いた。 (私は毎日数千枚の許可を出しているが、これはいったい何の結果を生み出しているのだろう?) 彼は休憩時間に、隣の「第八課」を覗いてみた。 そこでは、エヌ氏が回した書類に、別の職員が『確認印』を押し、さらにその隣の部屋へ回していた。 好奇心に駆られたエヌ氏は、書類の行方を追跡してみることにした。
書類は「第九課」で『集計印』を押され、「第十課」で『分類番号』を振られ、エレベーターで上の階へと運ばれていく。 エヌ氏もこっそりと後をつけた。 書類は、統計局、監査部、保存記録課など、数十もの部署をたらい回しにされていた。それぞれの場所で、職員たちが血眼になって判子を押し、台帳に記録し、コピーをとっている。 誰もが忙しそうで、誰もが「重要な任務」に追われていた。
そして追跡から三日目。ついに書類は最上階の「最終処理室」へと運ばれた。 エヌ氏は固唾を飲んで見守った。この長い旅の果てに、書類はどのような政策決定に使われるのか。 部屋の中にいたのは、一人の老職員だった。 彼は運ばれてきた書類の束を受け取ると、慣れた手つきでそれをシュレッダーに投入した。 ガガガガガ……。 書類は細断され、ただの紙屑となって、地下の「再生紙製造工場」へと続くダクトに吸い込まれていった。
「……なんと」 エヌ氏は呆然とした。 地下で作られた再生紙が、新しい申請書となり、また自分の部署へ回ってくる。 それだけの話だったのだ。 この巨大な組織は、何も生産していない。ただ書類をグルグルと循環させ、膨大な数の人間に判子を押させるためだけに存在していたのだ。
エヌ氏は怒りに震え、老職員に詰め寄った。 「こんな馬鹿なことがあるか! これは税金の無駄遣いだ! 我々は、無意味な徒労をさせられていただけだったのか!」 老職員は、シュレッダーの手を止めることなく、穏やかに言った。 「君、まだ新人だね。このシステムの偉大さが理解できていないようだ」 「偉大だと? ただの資源の浪費じゃないか」 「いいかね。この役所には十万人の職員がいる。関連企業を含めれば百万人だ」 老人は窓の外、平和な街並みを指差した。 「人間というのは、暇になるとろくなことを考えない生き物だ。隣の土地を奪おうとしたり、妙な思想にハマってテロを起こしたり、あるいは政府への不満を募らせて暴動を起こしたりする」
老人は、また一枚、書類を裁断機にかけた。 「しかし、こうして『絶対にミスが許されない、謎の重要任務』を与えておけばどうだ? みんなクタクタになるまで働き、仕事に誇りを持ち、ビールを飲んで寝る。余計なことを考えるエネルギーなど残っていない」 老人はエヌ氏の目を見て、ニヤリと笑った。 「つまり、この無意味な循環システムこそが、社会の平和と秩序を維持する、最強の防波堤なのだよ。これ以上に生産的な仕事が、他にあるかね?」
エヌ氏は言葉を失った。 ダクトの奥から、新しい再生紙が作られる音が聞こえてくる。それはまるで、平和を刻む時計の音のようにも聞こえた。 翌日、エヌ氏は席に戻った。 そして昨日までよりも一層心を込めて、無意味な申請書に『承認印』を押し続けた。 世界の平和を守るために。
(了)




