「時計の針」
高橋誠は、深夜のアンティークショップで奇妙な懐中時計を見つけた。「時間を逆に進めることができる」という老店主の言葉を半信半疑に聞きながらも、誠はそれを購入した。
彼は時計の力で過去に戻り、人生の失敗を次々と修正していった。5年前に別れた恋人・美咲との関係を修復し、仕事での大きなミスを帳消しにして昇進の道へ。人生は完璧なものに変わっていくはずだった。
しかし、過去を修正するたびに、自分が少しずつ消えていくような奇妙な感覚に襲われる。そしてある日、現在の時間に戻った誠を待っていたのは、衝撃的な現実だった。美咲も、同僚も、両親さえも、誰も彼のことを覚えていない。完璧に修正された世界は、彼が存在しない世界として再構築されてしまったのだ。
絶望に打ちひしがれた誠は、自分が作り上げた「完璧な」街をさまよった。誰も彼を知らない。誰も彼を必要としない。彼は、自分が望んだ世界の中で、透明な幽霊になってしまったのだ。
公園のベンチに座り込んでいると、ふと視線を感じた。見ると、少し離れたベンチに、うつむいた男が座っている。その男は、かつて仕事で大きなミスを犯した日の自分自身だった。
「まさか…」
誠は慌ててその場を離れた。路地裏のバーを通りかかると、カウンターの隅で一人酒を飲む男が見えた。それは、美咲に振られた日の自分だった。
街の至る所に「彼ら」はいた。自分が時計の力で消し去ったはずの、失敗した自分、後悔していた自分、惨めだった自分。彼らは誠に話しかけるでもなく、ただ молча、責めるような目で彼を見つめ続けていた。
「やめろ…やめてくれ!」
誠は叫びながら走り出した。しかし、どこへ逃げても、無数の「あり得たかもしれない自分」たちが彼を取り囲む。この完璧な世界は、彼が捨てた過去の亡霊たちによって構成された、巨大な牢獄だったのだ。
懐中時計はとうの昔に壊れ、もう過去を修正することも、ここから逃げ出すこともできない。
誠は、自分が作り出した完璧な地獄の中で、永遠に自分の罪と向き合い続ける運命だった。




