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千夜一夜物語  作者: 冷やし中華はじめました


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天使のノルマ

 日曜日の昼下がり、エヌ氏がソファでうたた寝をしていると、玄関のチャイムがしつこく鳴った。  舌打ちをしてドアを開けると、真っ白なスーツを着た、汗だくの男が立っていた。背中には薄汚れた羽のようなものが張り付いている。 「おめでとうございます! あなたは厳正なる抽選の結果、当地区の『奇跡授与対象者』に選ばれました!」  男は営業スマイル全開で、クラッカーを鳴らした。 「はあ。結構です」  エヌ氏がドアを閉めようとすると、男は革靴をドアの隙間にねじ込んだ。 「ちょ、待ってください! 無料ですよ? 神様の慈悲による、正真正銘の『奇跡』ですよ?」 「怪しい宗教なら間に合ってる」 「宗教じゃありません、行政です! 私は天界事業団の地区担当天使です」  男は名刺を差し出した。確かに『平天使(ノルマ未達)』という不名誉な肩書きが見えた。


 天使は強引に上がり込むと、カバンから分厚いカタログを取り出した。 「さあ、お好きな奇跡をお選びください。今なら『不老不死』や『透視能力』といった定番商品に加え、期間限定の『空飛ぶ絨毯』もお付けできます」 「いらんと言ってるだろ。俺は今の生活に満足しているんだ」  エヌ氏はカタログを突き返した。  天使の顔色がサッと変わった。 「お客さん、困りますよ。今月は決算期なんです。あと一件、契約を取らないと、私は『堕天使部門』へ左遷されてしまうんです。頼みますよ、何でもいいですから!」 「知らんよ。他を当たってくれ」 「他はもう回りました! 今の人間たちは欲がないんです。『スマホがあれば十分』とか『推しが生きていればそれが奇跡』とか言って、誰も受け取ってくれないんです!」


 天使は泣き落としにかかった。 「お願いします。小さな奇跡でいいんです。在庫処分品の『百円を拾う能力』とかどうですか?」 「腰を痛めるから嫌だ」 「では、『常に信号が青になる能力』は?」 「車を持っていない」 「じゃあ、『飼っている金魚が喋る能力』!」 「うるさくて眠れないだろう」


 エヌ氏があまりにも頑ななので、天使はついにキレた。 「ええい、もう四の五の言っている場合じゃない! こうなったら、強制執行だ!」  天使はカバンの奥から、埃を被った怪しげな箱を取り出した。 「これは売れ残りのセット商品、『全自動・因果応報システム』だ! これなら文句ないだろう!」  天使はエヌ氏の額に強引にスタンプを押した。 「契約成立! クーリングオフは不可です!」  言うが早いか、天使は窓から飛び出し、空の彼方へ消えていった。


「なんだあいつは……」  エヌ氏は額のインクを拭おうとしたが、消えなかった。 『全自動・因果応報システム』。名前だけは立派だが、一体何が起こるというのか。


 その効果は、すぐに現れた。  エヌ氏が喉が渇いたなと思い、冷蔵庫からビールを取り出した瞬間だ。  ファンファーレが鳴り響き、天井から金色の紙吹雪が舞い降りてきた。 『おめでとうございます! あなたは今、ゴミを分別して捨てましたね? その善行に対し、即座に報酬が支払われます!』  どこからともなく天の声が聞こえ、テーブルの上に一枚のクッキーが現れた。 「……は?」  エヌ氏が呆気に取られていると、今度は足の小指をテーブルの角にぶつけた。 「痛っ! ちくしょう!」  ブーッ!  不快なブザー音が鳴り、天井からタライが落ちてきて、エヌ氏の頭を直撃した。 『警告! 汚い言葉を使いましたね? その悪行に対し、即座に罰が執行されました』


 エヌ氏は青ざめた。  この奇跡は、善いことをすれば即座に(ショボい)褒美をくれ、悪いことをすれば即座に(地味に痛い)罰を与えてくるのだ。  しかも、判定基準がやたらと厳しい。  テレビを見てダラダラしていると『怠惰です!』と言われて部屋の温度を下げられ、嘘をつくと舌が痺れ、少しでも他人に親切にすると、大量の『割引券』が降り注いで部屋を埋め尽くす。


「やめてくれ! こんな生活、耐えられない!」  エヌ氏は天に向かって叫んだ。 「この奇跡を解除してくれ! 頼む!」


 数日後、あの天使が再び現れた。  今度は晴れやかな顔をしている。左遷を免れたのだろう。 「やあお客さん、どうですか? 正しい行いへと導かれる、素晴らしい毎日でしょう」 「ふざけるな! すぐにこれを回収してくれ!」  エヌ氏は土下座せんばかりに頼み込んだ。  天使はニヤリと笑った。 「回収? おや、それは困りましたね。契約解除には違約金が発生します」 「払う! いくらでも払う!」 「金銭ではありません。代償として、あなたの『運』を向こう十年分、頂くことになりますが?」 「構わん! とにかく元の静かな生活に戻してくれ!」


 天使は満足げに頷き、エヌ氏の額からスタンプを吸い取った。 「毎度あり! これで来月のノルマも達成だ」  天使は去っていった。  エヌ氏はへたり込んだ。  静寂が戻った。タライも落ちてこないし、紙吹雪も舞わない。  最高だ。  エヌ氏は安堵し、久しぶりにゆっくりと風呂に入ろうと蛇口をひねった。


 水が出ない。  給湯器が壊れていた。修理代は高額になるだろう。  さらに、歩こうとしてカーペットに躓き、転んで骨折した。  救急車を呼ぼうとしたが、電話が繋がらない。


 エヌ氏は天井を見上げて涙した。  運を十年分取られるとは、こういうことか。  天使は二度、ノルマを達成した。  一度目は「不要な奇跡を押し付ける」ことで。  二度目は「それを回収する代償を奪う」ことで。  天界の営業成績トップは、当分の間、揺るぎそうになかった。


(了)

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