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千夜一夜物語  作者: 冷やし中華はじめました


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手違い

 日曜日の午後、エヌ氏が部屋でテレビを見ていると、玄関のチャイムが鳴った。  ドアを開けると、グレーのスーツを着た、冴えない中年男が立っていた。手には分厚いファイルと、くたびれたビジネス鞄を持っている。セールスマンだろうか。 「結構です。新聞も宗教も足りています」  エヌ氏がドアを閉めようとすると、男は慌てて革靴をドアの隙間にねじ込んだ。 「お待ちください。私はセールスマンではありません。『天界管理課・地上担当係』の者です」 「天界? そんな会社は知らん」 「会社ではありません。文字通りの天界です」  男は名刺を差し出した。そこには確かに『天界管理課 係長』という肩書きと、光り輝くエンボスのロゴが入っていた。


 男は強引に部屋に上がり込むと、額の汗を拭きながら言った。 「単刀直入に申し上げます。エヌさん、実は……当課の手違いにより、あなたの寿命の入力ミスが発生しまして」 「は?」 「本来なら、あなたは八十五歳まで生きる予定だったのです。しかし、新人職員がデータ入力の際に、誤って『三十五歳』と打ち込んでしまいまして……」  エヌ氏は三十五歳だった。 「おい、冗談じゃないぞ。ということは何か、俺はもうすぐ死ぬのか?」 「はい。システム上、今夜の午後八時に心不全で亡くなることになっています」


 男は申し訳なさそうに頭を下げた。 「本当に申し訳ありません。現在、年度末で業務が立て込んでおりまして、チェック体制が甘くなっていました」 「謝って済む問題か! すぐに直せ! 八十五歳に戻せ!」  エヌ氏は男の襟首を掴んだ。  しかし、男は困り顔で首を振った。 「それが、できないのです。一度確定された『死亡予定リスト』は、全宇宙の因果律とリンクしてしまいます。これを修正するには、神様の決裁印が三つと、三十枚の申請書が必要でして、どう急いでも一週間はかかります。あなたは今夜死ぬので、間に合いません」 「そんな馬鹿な役所仕事があるか!」 「お役所仕事なのは、地上も天界も同じですよ」


 男は鞄からパンフレットを取り出した。 「そこで、お詫びとしての『補償案』をお持ちしました。今回のミスは完全にこちらの責任ですので、特例措置をご用意しております」  男はパンフレットを広げた。 「来世での優遇プランです。次回の転生先として、『石油王の息子』『絶世の美男子』『パンダ(動物園で寝ているだけで愛される)』の中から、お好きなものを選んでいただけます。いかがでしょう?」


 エヌ氏は激昂した。 「ふざけるな! 来世のことなんてどうでもいい! 俺は『今の俺』として生きたいんだ。まだやりたいことも、行きたい場所もたくさんあるんだ!」 「しかし、肉体の死は避けられませんので……」 「肉体なんてどうでもいい! とにかく、この地球上で、もっと長く生きさせろ! 八十五歳どころか、百歳でも二百歳でも生きないと割に合わん!」  エヌ氏はまくし立てた。 「これは俺の正当な権利だ。何とかしろ。さもないと、死んだ後に化けて出て、お前の上司に直訴してやるからな!」


 係長は困り果てていたが、「上司への直訴」という言葉に反応して、青ざめた。 「そ、それだけはご勘弁を。私の査定に響きます」  係長はファイルを必死にめくり、ブツブツと呟いた。 「地球上で……長く生きたい……肉体にはこだわらない……。うーん、空きがあるかな……」  やがて、係長は顔を上げた。 「わかりました。一つだけ、条件に合う『器』の空きがございます。これなら、すぐに魂を移すことができます」 「本当か!」 「ええ。寿命は非常に長いです。軽く一万年は生きられるでしょう。のんびりとした生活が保証されています」 「一万年! それはすごい。よし、それにしろ。すぐに契約だ!」 「本当に、それでよろしいのですね?」 「構わん。早くしろ、時間が無いんだろ!」


 係長は安堵の息をつき、指をパチンと鳴らした。  エヌ氏の体は光に包まれ、消滅した。



 翌日、係長は上司に報告書を提出していた。 「……というわけで、クレーム案件は無事に処理しました」 「ご苦労。で、被害者は納得したのか?」 「はい。『地球上で長く生きたい』という要望でしたので、南の島の海岸に住む『ゾウガメ』に転生させました。一万年は生きるでしょう」 「なるほど。まあ、動きものろいし、考えることもないから退屈だろうが、本人の希望なら仕方ないな」  上司は判子を押した。 「しかし、人間というのは強欲だな。せっかく石油王にしてやろうと思ったのに、わざわざ甲羅を背負って生きる道を選ぶとは」 「ええ。おかげで、こちらの『来世予算』が浮いて助かりましたよ」


 二人の天使は笑い合い、次の業務に取り掛かった。  地上では、一匹の亀が、気の遠くなるような時間をかけて、数センチ前進していた。彼がかつてのエヌ氏としての記憶を保っているかどうかは、定かではない。


(了)

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