魂の査定
深夜二時。都市を見下ろす高層ビルのオフィスで、エヌ氏はキーボードを叩いていた。 フロアには彼一人しかいない。空調の音だけが響く無機質な空間に、突如として黒い煙が立ち込め、一人の男が現れた。 立派な角と、矢印のような尻尾。絵に描いたような悪魔だった。
「よう。残業ご苦労なことだ」 悪魔は馴れ馴れしく声をかけた。 「お前の魂を買い取りに来た。契約書にサインすれば、富でも名声でも、望むものを一つ与えてやろう」
エヌ氏は視線をモニターから外さずに答えた。 「アポイントメントはとってあるのかね?」 「は?」 「なければ帰ってくれ。私は今、来期の予算編成で忙しいんだ。富や名声なら、このプロジェクトを成功させれば手に入る。君の手を借りる必要はない」
悪魔は狼狽した。 「おいおい、つれないことを言うなよ。実は今月、魂の回収ノルマが厳しくてな。地獄の本社から『成果が出なければリストラだ』と脅されているんだ。頼む、言い値で買うから売ってくれ」
エヌ氏は手を止め、ため息をついた。 「やれやれ。地獄も世知辛い世の中になったものだな。……いいだろう。そこまで言うなら商談に応じよう」 エヌ氏は椅子を回転させ、悪魔に向き直った。 「ただし、査定額に納得がいけばの話だ。私の魂は、君たちの市場価格でいくらになる?」
「ありがとう! 恩に着るよ」 悪魔は喜んでエヌ氏の胸に手をかざした。手のひらから怪しい光が出て、魂の質と量をスキャンする。 しかし数秒後、悪魔の顔から血の気が引いた。
「おい……どうなっているんだ」 「安すぎたか?」 「いや、ゼロだ。在庫がない」 悪魔は震える声で言った。 「お前の中には、魂が一欠片も残っていないぞ。空っぽだ」
エヌ氏は少し考えてから、ポンと手を打った。 「ああ、そういえば。入社した時の新人研修で『心を無にして会社に尽くせ』と叩き込まれたから、その時に捨ててしまったのかもしれん。あるいは、出世競争の中で切り売りしてしまったかな。なんにせよ、今の私には『効率』と『成果』しか詰まっていないようだ」
悪魔はその場に座り込んだ。 「なんてことだ……。現代人は、我々が誘惑するまでもなく、社会システムの中で魂を摩耗させてしまっているのか。これじゃあノルマが達成できない。俺はクビだ……」
頭を抱えて嘆く悪魔を見て、エヌ氏は呆れた。 「非効率な奴だな。嘆いている暇があったら、対策を考えたらどうだ」 「対策?」 「そうだ。ビジネスチャンスだと思え」
エヌ氏は眼鏡の位置を直し、提案した。 「君が持っている手持ちの魂を、私に一つ貸し出すんだ」 「貸す?」 「そうだ。いわゆる投資だよ。私がその魂を使って、情熱的に仕事をし、さらに大きな成果を上げる。そうすれば、魂は『欲望』や『業』をたっぷりと吸って、丸々と大きく育つだろう。それを君が回収すればいい。元本に利子をつけて返すようなものだ」
悪魔は顔を上げた。 「なるほど……! それは名案だ。枯れた土地に種を蒔き、実ったところを刈り取るわけだな」 「そういうことだ。私としても、仕事に情熱を持てるのは悪くない」
悪魔は懐から、ガラス瓶を取り出した。中には虹色に輝く美しい光が封じ込められている。 「これは極上品だ。かつて夢を追いかけていた芸術家から回収した、純粋でエネルギーに満ちた魂だ。これを貸そう」 悪魔はエヌ氏の胸にその光を押し込んだ。 途端に、エヌ氏の目に力が宿り、表情が生き生きと輝き出した。 「おお……やる気が湧いてきたぞ! 素晴らしいアイデアが次々と浮かんでくる!」
悪魔は満足げに頷いた。 「契約成立だ。三ヶ月後、利子をつけて回収に来るぞ」
三ヶ月後。 悪魔はウキウキしながら、再び深夜のオフィスを訪れた。 エヌ氏は以前よりもやつれていたが、相変わらずキーボードを叩いていた。
「やあ、調子はどうだ。約束通り、大きく育った魂を回収に来たぞ」
エヌ氏は虚ろな目で悪魔を見た。 「ああ、君か……。悪いが、返せるものはないよ」
悪魔は慌ててエヌ氏の胸をスキャンした。 結果は、またしても「ゼロ」だった。
「な、なぜだ! あの芸術家の魂はどうした! あれほどのエネルギーがあれば、巨大な欲望の塊に成長しているはずだろう!」
エヌ氏は涼しい顔で、しかし疲れ切った声で答えた。 「ああ、あれか。先月の新規プロジェクトのプレゼンに使ったら、一発で燃え尽きてしまったよ。情熱を持って企画を通すには、あれくらいのエネルギーが必要だったんだ」
「馬鹿な……たった一回のプレゼンで?」
「現代のビジネスは、エネルギー消費が激しくてね。一度火がつくと、あっという間に燃料を使い果たしてしまうんだよ」 エヌ氏は机の上の栄養ドリンクの空き瓶をゴミ箱に投げ入れた。 「もしよかったら、もう一つ貸してくれないか? 次はもっとうまく運用してみせるよ」
悪魔は膝から崩れ落ちた。 地獄の業火よりも、現代の企業社会の方が、よほど効率よく魂を焼却処分できる場所なのだと悟ったからだ。




