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千夜一夜物語  作者: 冷やし中華はじめました


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現代版 鶴の恩返し 

 エヌ氏は、山道で罠にかかっていた一羽の鶴を助けた。  鶴は美しい羽根を羽ばたかせ、空の彼方へと去っていった。エヌ氏はそれを見送りながら、「良いことをしたな」というささやかな満足感を胸に帰宅した。


 その夜のことである。エヌ氏のアパートを、見知らぬ美女が訪ねてきた。 「いつぞや助けていただいた鶴でございます」  女性は深々と頭を下げた。エヌ氏は驚いた。まさか、現代において昔話のような展開があるとは。 「恩返しをさせていただきたいのです。私をこの家に置いてください」  エヌ氏は独身で、生活も楽ではない。美女の申し出は渡りに船だったが、狭いアパート暮らしでは申し訳ないとも思った。 「いや、気持ちは嬉しいが、私には君を養うほどの余裕がないんだ」  すると、女はにっこりと微笑んだ。 「ご心配なく。お金のことは私にお任せください。あなたを億万長者にして差し上げます」


 女が要求したのは、機織り機ではなく、最新型のハイスペックパソコンと、超高速のインターネット回線、そして複数のモニターだった。 「これから部屋にこもって、資金を増やします。ただし、私が作業をしている間は、決して部屋を覗かないでください。集中力が途切れると、相場の波を見誤りますから」


 それからというもの、エヌ氏の銀行口座には、連日のように信じられない額の金が振り込まれるようになった。  株、為替、先物取引、仮想通貨。彼女はあらゆる金融商品を駆使し、神がかったタイミングで売買を繰り返しているようだった。  エヌ氏は歓喜した。 「これはすごい。機織りどころの騒ぎじゃないぞ」  彼はたちまち裕福になり、高級な食事や衣服を楽しむようになった。


 しかし、日が経つにつれ、エヌ氏は心配になってきた。  部屋からは、朝から晩までキーボードを叩く激しい音と、冷却ファンの唸る音だけが聞こえてくる。彼女は食事もろくに摂らず、不眠不休で働き続けているようだ。  昔話では、鶴は自分の羽を抜いて布を織り、そのたびに痩せ細っていったという。もしや彼女も、自分の寿命や健康を削って、デジタルな数字を織り上げているのではないか。


「おい、大丈夫かい? 少し休んだらどうだ」  エヌ氏が扉越しに声をかけても、返事はない。ただ、カチャカチャカチャッという凄まじい打鍵音が響くのみである。


 ある日、相場が大暴落を起こしたというニュースが流れた。世界中の投資家がパニックに陥っているという。  エヌ氏は気が気でなかった。彼女は大丈夫だろうか。大損をして、部屋で倒れているのではないか。 「約束は破りたくないが、緊急事態だ」  エヌ氏は意を決して、禁じられていた部屋のドアをそっと開けた。


「…………」


 そこに、美女の姿はなかった。  また、痩せ細った鶴が血を流している姿もなかった。


 部屋の中央には、六台のモニターが青白い光を放っていた。  その前に陣取っていたのは、一羽の立派な鶴だった。  鶴は、器用に二本の足と長いくちばしを使い、目にも止まらぬ速さで三つのキーボードを同時に操作していた。  右足で「買い」、左足で「売り」、くちばしでチャートを切り替える。その動きは、まさに千手観音のごとき神業だった。


「あっ!」  エヌ氏と目が合い、鶴は動きを止めた。 「見られてしまいましたね」  鶴は、人間の言葉でため息をついた。 「……どういうことだ? 人間の姿はどうしたんだ」  エヌ氏が呆然と尋ねると、鶴は悪びれずに答えた。


「だって、人間の指は太くて本数が少ないんですもの。あの姿だと、秒単位の超高速スキャルピング・トレードには追いつかないんです。この本来の姿で、足とくちばしをフル活用するのが一番効率的なんですよ」


 鶴はモニターを一瞥し、最後の決済注文を確定させてから、パソコンの電源を落とした。 「正体を見られた以上、ここには居られません。それに、この暴落相場で十分に稼ぎ切りましたから、潮時でしょう」


 鶴は窓を開け、翼を広げた。 「稼いだお金は置いていきます。ただし、このパソコンとモニター代は経費として差し引かせてもらいましたよ」 「ま、待ってくれ!」 「さようなら。次はもっと通信回線の太い家を探します」


 鶴は優雅に飛び去っていった。  残されたエヌ氏は、莫大な預金通帳と、熱を持ったハイスペックパソコンを前に、ただ立ち尽くした。  彼が知っていた情緒ある恩返しは、現代の効率主義の前では、もはや成立しないものらしかった。

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