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千夜一夜物語  作者: 冷やし中華はじめました


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肩代わり人形

エヌ氏は、人一倍痛みに弱い男だった。  指先にトゲが刺さっただけで大騒ぎをし、風邪をひけばこの世の終わりのような顔をする。精神的な打たれ弱さも相当なもので、上司に小言を言われると三日は寝込むような性格だった。


 そんなエヌ氏が、路地裏の怪しげな店で足を止めたのは、親知らずの抜歯を翌日に控えていたからだった。憂鬱な顔でショーウィンドウを眺めていると、店主とおぼしき男が声をかけてきた。


「おや、何かお悩みですかな。当店の品物は、どれも現代科学の粋を集めた掘り出し物ばかりですよ」


 エヌ氏は縋るような思いで、抜歯の恐怖を打ち明けた。すると店主は、店の奥から掌サイズの、のっぺりとした土色の人形を持ってきた。


「それなら、これが最適です。『肩代わり人形』と言いましてね。持ち主と生体リンクさせることで、あらゆる苦痛やストレスを、この人形が代わりに引き受けてくれるのです」


 眉唾物だと思ったが、痛みへの恐怖には勝てない。エヌ氏は安くはない代金を支払い、その人形を持ち帰った。


 翌日、歯医者の椅子に座ったエヌ氏は、ポケットの中の人形を握りしめていた。  麻酔の注射針が歯茎に刺さる。いつもの彼なら悲鳴を上げるところだが、何も感じない。ドリルが唸りを上げ、歯を砕く。それでも、痛みは一切なかった。  治療後、こっそりポケットの中を覗くと、人形が身をよじらせるような格好で固まっていた。 「これはすごい」  エヌ氏は歓喜した。これさえあれば、人生はバラ色だ。


 それからのエヌ氏は、人形を手放せなくなった。  二日酔いのガンガンする頭痛も、満員電車で足を踏まれた痛みも、すべて人形に流した。  精神的なストレスにも有効だった。上司が真っ赤な顔で怒鳴り散らしていても、エヌ氏は涼しい顔で聞き流すことができた。本来なら彼が感じるはずの屈辱や恐怖は、すべてカバンの中の人形が引き受けているからだ。


「君、最近ずいぶんと肝が据わってきたな」  同僚たちはエヌ氏の変貌ぶりに驚いた。エヌ氏は余裕の笑みで答える。 「なに、考え方を変えただけさ」


 数ヶ月が過ぎた頃、人形に異変が現れた。  のっぺらぼうだった顔に、苦悶の表情のようなシワが刻まれ、体中に細かなヒビが入っていたのだ。 「少し使いすぎたかな」  エヌ氏は思ったが、快適な無痛生活を捨てる気にはなれなかった。むしろ、人形がボロボロになるほど、自分の身代わりになっているという事実に優越感すら覚えていた。


 一方で、エヌ氏自身にも変化が起きていた。  痛みを感じないため、危険を察知する能力が鈍っていたのだ。熱いコーヒーをこぼして火傷をしても気づかず、皮膚がただれて初めて手当てをする。重大なミスをして取引先を怒らせても、危機感を抱けず、へらへらと笑ってしまう。  痛みや苦しみと共に、彼は「感情」や「生の実感」といったものを喪失しつつあった。彼の表情は次第に能面のようになっていった。


 ある日、決定的な事件が起きた。  エヌ氏のミスにより、会社の存続に関わるほどの大損害を出してしまったのだ。激怒した取引先の社長が乗り込んできた。 「どうしてくれるんだ! 誠意を見せろ!」  怒号が飛ぶ。エヌ氏はいつものように、その強烈なプレッシャーと恐怖を、ポケットの中の人形へと転送した。


 その瞬間だった。  ポケットの中で「ピキッ」という音がした。許容量を超えた人形が砕けたのかと思ったが、違った。


 エヌ氏は、何の感情も湧かない無表情な顔で、ただ突っ立っていた。  すると、エヌ氏のポケットから、何かが滑り落ちた。  それは、あの人形だった。


 床に落ちた人形は、震えていた。  その顔には、長年蓄積された苦痛と忍耐によって、人間以上に深い皺が刻まれ、目元からは大粒の涙が溢れ出していた。全身で悔恨と申し訳なさを表現し、悲痛なオーラを放っている。  それは、ただの土塊ではなく、苦難を乗り越えてきた聖人のような崇高ささえ感じさせた。


 怒り狂っていた社長は、エヌ氏の足元で震える人形を見て、息を呑んだ。 「なんという……なんという悲痛な表情だ」  社長は涙を流す人形を拾い上げ、その目を見つめた。 「言葉はなくとも伝わってくる。これほどの反省と苦悩。君の誠意は、痛いほど分かったよ」


 社長はハンカチで人形の涙を拭うと、優しく語りかけた。 「許そう。これほど心を痛めている相手を、これ以上責めることはできない」


 それ以来、会社での扱いは一変した。  上司も、同僚も、何かあるとエヌ氏の机の上に置かれた「人形」に話しかけるようになった。 「昨日はありがとう」「君の顔を見ると、こちらの苦労も報われるよ」  豊かな感情と深みを持つ人形は、誰からも愛され、信頼された。


 エヌ氏はといえば、痛みも苦しみも、そして喜びも感じない空っぽの抜け殻のまま、ただ人形を運ぶための台座として、毎日会社に通い続けている。

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