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百物語  作者: 冷やし中華はじめました


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「万年の目撃者」

深海の底で、ひときわ大きな魚が悠々と泳いでいた。その名をトキオといい、年齢は既に9000歳を超えていた。トキオは特殊な種族で、1万年以上生きることができる稀有な存在だった。


トキオの目は、何千年もの時を経て磨かれた知恵を湛えていた。その瞳には、海底で見た数えきれない光景が映し出されていた。海底火山の噴火、大陸の移動、氷河期の到来と終焉。そして、人類の進化と文明の発展。


トキオは、海面近くまで浮上しては、人間たちの活動を観察するのが日課だった。最初に人間を見たのは、まだ彼らが猿に毛が生えた程度の姿をしていた頃だった。それから徐々に、彼らは直立歩行を身につけ、道具を使い始めた。


「おや、今日もずいぶんと騒がしいな」とトキオは独り言を呟いた。海面上では、大型の船が行き交い、その船底から奇妙な音波が発せられていた。


トキオは首を傾げた。「人間たちは、いつになったら海の生き物たちの言葉を理解するのだろうか。彼らの作り出す騒音で、我々の会話が成り立たなくなってしまう」


そう思いながらも、トキオは人間たちの進歩を興味深く見守り続けた。彼らが作り出す文明は、驚くべき速さで発展していった。舟から始まり、帆船、そして蒸気船へと進化。海底ケーブルが敷設され、潜水艦が深海を探索し始めた。


トキオは時折、仲間の魚たちに人間の話をした。


「人間たちはね、陸の上で暮らしているんだ。でも、彼らの起源は海にあるんだよ」


若い魚たちは目を丸くして聞いていた。「えー!でも、ヒレも鰓もないじゃないですか?」


トキオは笑った。「そうさ。彼らは進化の過程で、それらを失ってしまったんだ。でも、彼らの体の60%は水でできているんだよ」


ある日、トキオは海面近くを泳いでいた時、奇妙な光景を目にした。巨大な浮遊物が海に沈んでいくのだ。


「タイタニック号沈没」と人間たちは後にそれを呼んだが、トキオにとっては、人間の傲慢さを象徴する出来事だった。


「自然の力を甘く見るべきではない」とトキオは思った。「我々海の生き物は、その力を常に肌で感じている。人間たちも、もっと謙虚になるべきだ」


時は流れ、人間たちの技術はさらに進歩した。海中での石油掘削が始まり、海洋汚染が深刻化していった。トキオは、かつて清らかだった海が徐々に毒されていくのを目の当たりにした。


「このままでは、海の生態系が崩壊してしまう」とトキオは危惧した。しかし、彼にできることは何もなかった。ただ、事態を見守ることしかできなかった。


9500歳を過ぎた頃、トキオは驚くべき光景を目にした。海底に、人間たちの作った巨大な構造物が現れたのだ。海底都市の建設が始まったのだ。


「ついに、彼らは海に帰ってきたか」とトキオは感慨深く思った。


しかし、海底都市の建設は、さらなる環境破壊をもたらした。多くの魚たちが住処を追われ、深海生物たちも影響を受けた。


トキオは、若い魚たちに語り続けた。「人間たちは、良くも悪くも、常に進歩し続ける存在なんだ。我々は、彼らと共存する方法を見つけなければならない」


9800歳を迎えた頃、トキオは奇妙な変化に気づいた。海水温が急激に上昇し、海流のパターンが変わり始めたのだ。


「気候変動か」とトキオは思った。「人間たちの活動が、地球全体に影響を及ぼし始めている」


その頃、人間たちの間でも環境保護の機運が高まっていた。海洋生物の保護区が設定され、プラスチックごみの削減運動が広がった。トキオは、わずかながら希望を感じた。


「彼らにも、変わる力がある」とトキオは思った。「問題は、その変化が間に合うかどうかだ」


9900歳を過ぎた頃、トキオは異変を感じ始めた。長年の人生で初めて、疲労感を覚えるようになったのだ。


「もうすぐ、私の時間も終わりを迎えるのかもしれない」とトキオは悟った。


ある日、トキオは海面近くを泳いでいた。突然、強い引っ張りを感じた。釣り針が口に刺さったのだ。


「ああ、こんな形で終わるのか」とトキオは思った。長年の人生で、彼は多くの仲間が釣られていくのを見てきた。まさか自分がその立場になるとは思わなかった。


トキオは必死に抵抗したが、9900年の年月は彼の体力を奪っていた。ゆっくりと、彼は海面へと引き上げられていった。


水面を突き破った瞬間、トキオは初めて直接、人間の顔を見た。釣り人の目が、驚きと興奮で輝いていた。


「すごい大物だ!」と釣り人は叫んだ。


トキオは、船上に引き上げられた。彼は、酸素の欠乏で徐々に意識が朦朧としていった。その中で、彼は人間たちの会話を聞いた。


「こんな大きな魚、見たことないぞ。きっと美味いに違いない」


「活け造りにしよう。新鮮なうちに食べるのが一番だ」


トキオは、自分の運命を悟った。彼の長い人生は、人間の胃袋の中で終わるのだ。


船が港に着くと、トキオは高級料理店に運ばれた。調理場で、彼は鋭い包丁の刃を見た。


「さあ、最後の観察だ」とトキオは思った。


包丁が彼の体を切り分け始めた。痛みはなかった。むしろ、不思議な解放感を覚えた。


トキオの身は、美しく盛り付けられ、店の客に出された。


客たちは、トキオの身をつまみ上げ、口に運んだ。


その瞬間、トキオは不思議な経験をした。彼の意識が、自分を食べている人間たちの中に入り込んだのだ。


彼は、人間たちの思考や感情を直接感じることができた。喜び、悲しみ、愛、憎しみ。人間たちの複雑な感情の渦を、トキオは体験した。


「なんと複雑な生き物だろう」とトキオは思った。「彼らは破壊者であると同時に、創造者でもある」


トキオの意識は、徐々に薄れていった。最後の瞬間、彼は人類の未来を垣間見た。


環境破壊と再生。戦争と平和。宇宙進出と地球回帰。すべてが、まるでカレイドスコープのように、トキオの意識の中で交錯した。


そして、トキオは悟った。人類の歴史も、結局は大きな時の流れの中の一瞬に過ぎないのだと。


トキオの意識が完全に消えゆく直前、彼は最後の思いを残した。


「私の9900年の人生は、決して無駄ではなかった。私は、生命の神秘と進化の壮大さを目撃する特権を得たのだ。そして今、私はその一部となる」


トキオの意識は、永遠の闇の中に溶けていった。しかし、彼の存在は完全には消えなかった。


彼を食べた人間たちの細胞の中に、トキオの一部が組み込まれた。そして、その細胞は新しい生命を生み出し、次の世代へと受け継がれていった。


トキオの9900年の記憶は、人類の遺伝子の中に、ほんの少しだけ、しかし確実に刻み込まれたのだった。


それは、海と陸、過去と未来をつなぐ、小さくも重要な架け橋となった。


人類が星間飛行を成し遂げ、新たな惑星に足を踏み入れたとき、彼らの中にあるトキオの記憶が、ふとした瞬間によみがえる。


それは、地球という故郷への郷愁であり、生命の尊さへの気づきでもあった。


こうして、一匹の魚の9900年の人生は、人類の未来永劫にわたる歴史の中に、静かに、しかし確実に生き続けていくのだった。

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