永遠の座
【序】
資産家のHは、すべてを持っていた。 巨万の富、美しい妻、健康な肉体。しかし、彼は夜も眠れないほどの不安に苛まれていた。それは「忘却」への恐怖である。
「私が死んだら、一体どうなるのだ。せいぜい孫の代までは覚えているだろう。だが、百年後は? 千年後は? 私は塵となり、歴史の闇に消え去ってしまう。そんなことは耐えられない」
Hの書斎には、歴史上の偉人たちの肖像画が飾られている。ナポレオン、カエサル、アインシュタイン。Hは彼らを妬ましく見上げた。彼らは死してなお生きている。それに比べて自分はどうだ。ただ金を稼いだだけの小市民ではないか。
ある日、Hは知人の紹介で、郊外にある奇妙な研究所を訪れた。そこには、天才だがマッドサイエンティストと噂される博士、Dがいた。
「ようこそ、Hさん。貴方の悩みは聞き及んでいますよ」 Dは白衣のポケットに手を突っ込み、薄暗い研究室で怪しげな機械を調整していた。「死後の名声を求めている、と」
「その通りだ」Hは身を乗り出した。「私は銅像になりたいわけではない。銅像など、いずれ溶かされて大砲の弾になるか、誰も見向きもしない公園の鳩の止まり木になるだけだ。私が望むのは、確固たる名誉だ。未来永劫、人々が私の存在を認識し、私という人間に強い関心を持ち続ける。そんな方法はないだろうか」
Dはニヤリと笑った。 「ありますよ。まさに貴方のような方のためのプロジェクトが、完成間近なのです」
Dは部屋の中央にある、クリスタルガラスのような素材でできた巨大なカプセルを指差した。 「『不滅のポッド』です。この中に入れば、貴方の肉体は特殊な保存ガスによって、老化も腐敗もせず、永遠に今の姿を保ち続けます。さらに、脳波を微弱に維持することで、貴方は意識を持ったまま、外の世界を見聞きすることができるのです」
「意識があるまま、永遠に?」Hは少し恐怖を感じた。「それは退屈な地獄ではないのか?」
「いいえ。このポッドは特殊な波動を出し、周囲の人々の注目を集める効果があります。そして何より、この素材はダイヤモンド以上の強度があり、核爆弾でも破壊できません。つまり、一度設置されれば、人類が滅びるその日まで、貴方はそこに『在る』ことができるのです」
Dは言葉を継いだ。 「貴方を『21世紀を代表する、最も完璧な紳士の標本』として、都市の中央広場に寄贈しましょう。行政への根回しは済んでいます。未来の人々は、貴方の威厳ある姿を見て、往時の文明に思いを馳せ、敬意を表することでしょう。貴方は歴史の証人として、永遠の座を手に入れるのです」
Hはその光景を想像し、武者震いした。 永遠に美しいまま、都市の中心で人々に見上げられ、称賛される自分。それはまさに神の視点だ。
「やろう。いくら払えばいい?」
【破】
契約は成立した。Hは全財産を研究所に寄付し、愛用の最高級スーツに身を包み、ポッドの中に入った。 「では、良い旅を。いや、良い永遠を」 Dがスイッチを押すと、透明な樹脂のようなガスが満たされ、Hの体はカチリと固定された。意識は鮮明だった。ガラス越しにDが手を振っているのが見える。
翌日、Hの入った『不滅のポッド』は、都市一番の広場の一等地に設置された。 台座には金色のプレートでこう刻まれた。 『21世紀の偉大なる市民H。ここに眠らずに在り続ける』
反応は上々だった。 道行く人々は足を止め、Hの姿を見上げた。 「見て、なんて立派な方なの」 「当時のファッションはこういうものだったのか。実にエレガントだ」 「彼のような成功者が、自ら歴史の標本になったなんて、素晴らしい自己犠牲の精神だ」
Hはカプセルの中で、そのすべてを聞いていた。 (素晴らしい! これだ、私が求めていたのは!) 彼は動かない顔の中で、心だけの笑みを浮かべた。毎日、何千人もの視線を浴びる快感。恋人たちは彼に見守られながら愛を語らい、学生たちは彼をスケッチし、老人は彼に手を合わせた。
数十年が過ぎた。Hの妻や友人は死に絶えたが、Hは変わらず若々しく、威厳を保っていた。 時代が変わり、戦争が起きたこともあった。空襲で街が焼けたが、ポッドだけは傷一つ付かずに瓦礫の中に立ち尽くしていた。 復興の際、人々はHを「不屈の象徴」として再び広場の中心に据えた。Hの名声は、生前よりもはるかに高まっていた。
(見たか。私は勝ったのだ。死という敗北を乗り越えたのだ) Hの優越感は頂点に達していた。
しかし、三百年、五百年と時が流れるにつれ、少しずつ雲行きが怪しくなってきた。
言語が変化し、台座の文字が誰にも読めなくなったのだ。 「ねえ、あの箱に入っている人、誰?」 「さあ? 昔の偉い王様じゃないか?」 人々はまだHに敬意を払っていたが、具体的な功績は忘れ去られ、ただの「謎の古代遺物」として扱われるようになった。
(まあいい。神秘性もまた名声の一部だ) Hはそう自分を納得させた。少なくとも、彼らはまだ私を見ている。無視されるよりはずっといい。
さらに千年が過ぎた。 人類の文明は一度崩壊し、長い暗黒時代を経て、全く異なる形の文明が再興した。 かつてのビル群は森に飲み込まれ、Hのポッドだけが、熱帯雨林のようなジャングルの遺跡の中に、奇跡的に無傷で残っていた。
ある日、調査隊がやってきた。 彼らの姿は、かつての人類とは大きく異なっていた。環境適応のため、肌は灰色になり、目は大きく退化し、四つん這いに近い姿勢で移動するようになっていた。彼らの美意識や価値観も、Hの知るそれとは全く別のものになっていた。
調査隊の一人、Zがポッドを発見し、奇声を上げた。 「おい! ここに凄いものがあるぞ!」
【急】
Hは緊張した。 (さあ、見るがいい。これが古代の叡智、完璧な人間の姿だ。ひれ伏すがいい)
Zたちはポッドを取り囲み、ペタペタと触り、中のHを覗き込んだ。 そして、一斉に腹を抱えて笑い出したのだ。あるいは、彼らにとっての「笑い」に近い反応を示した。
「なんだ、この奇妙な生き物は!」 「見てくれ、この不格好な布切れ(スーツ)を! 体のラインを隠して、まるで芋虫みたいだ!」 「顔を見てみろよ! 目が二つしかなくて、鼻が出っ張ってて、口がこんなに小さい! なんて滑稽な顔なんだ!」 「傑作だ! 自然界にはありえない、究極のブサイクだぞ!」
Hは混乱した。 (何を言っている? 私はハンサムで通っていたんだぞ! 貴様らのような化け物に笑われる筋合いはない!)
しかし、Hの声は届かない。 Zたちは大興奮で通信機を取り出し、仲間を呼んだ。 「世紀の発見だ! 『過去の世界で最も面白い見世物』が見つかったぞ!」
数ヶ月後。 Hのポッドは、新文明の首都にある「娯楽博物館」のメインホールに移送された。 そこは、過去の失敗作や、遺伝子異常の生物などを展示して、市民を笑わせるための施設だった。
その中でも、Hの人気は圧倒的だった。 「伝説の道化師」 それが、新しい時代におけるHの称号だった。
連日、大勢の観客が押し寄せた。 子供たちはHの顔を見て指をさしてゲラゲラと笑い転げ、カップルは「あんな顔に生まれなくてよかったね」と愛を確かめ合い、落ち込んでいる者はHの「マヌケな格好」を見て元気を取り戻した。
Hのポッドの前には、常に長蛇の列ができていた。 誰もが彼を知っていた。誰もが彼を見たがった。誰もが彼の話題を口にした。 かつて博士Dが約束した通り、彼は未来永劫、人々の関心の中心にあり続けたのだ。
(やめろ……見るな……笑うな……!)
Hの意識は叫び続けていたが、ポッドの機能は完璧だった。 彼の表情は、威厳に満ちた「キメ顔」のまま、ピクリとも動かない。 その真面目腐った表情が、未来の人々の笑いのツボをさらに強く刺激した。
「見て、あの顔! 自分が笑われているとも知らずに、偉そうにしてる!」 「あははは! 最高だ! やっぱり彼は『笑いの神様』だね!」
館内に爆笑が渦巻く中、Hは悟った。 自分は確かに永遠の座を手に入れた。 しかしそれは、永遠に降りることのできない、さらし台の上だったのだと。
<了>




