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百物語  作者: 冷やし中華はじめました


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完璧な代弁者

【序】


N氏は、コミュニケーションというものが、根本的に欠陥のあるシステムだと考えていた。


朝、鏡に映る自分の顔。寝癖のついた髪、冴えない目つき。この肉体を引きずって、外の世界に出なければならない。それがまず第一の面倒だった。


第二の面倒は、他者との接触だ。 上司の機嫌を損ねないための、当たり障りのない相槌。 同僚との、中身のない天気の会話。 取引先への、本心とは正反対のへりくだった謝罪。 恋人であるK子への、気の利いた「愛の言葉」。


N氏は、これらすべてが苦手だった。言葉を選び間違えれば、相手は不機嫌になる。沈黙が長すぎれば、無能だと思われる。人間関係とは、薄氷の上を歩くような、途方もない緊張の連続だった。


そんなN氏にとって、Aアウラ社が発表した「パーフェクト・セルフ」(以下、PS)は、まさに天啓だった。


PSは、単なるAIアシスタントではない。ユーザーの全データ――メールの文面、通話履歴、SNSの投稿、表情の癖、心拍数の変動――をディープラーニングし、ユーザーの「理想」を完璧に演じる代弁者アバターであった。


「もう、面倒なやり取りに悩む必要はありません」


CMのキャッチコピーは甘美だった。「PSが、あなたの代わりに『完璧なあなた』を演じます。あなたはただ、その結果リザルトを受け取るだけ」


N氏は、貯金のほとんどをはたいて、最高ランクのPS(タイプS)を契約した。


導入は簡単だった。小型のイヤホン型デバイスを装着し、数時間、PSに自分の日常をスキャンさせるだけ。 「マスター。データの同期、完了しました」 無機質な、しかし完璧に調整された心地よい声が鼓膜を震わせた。


その日から、N氏の世界は一変した。


朝、鳴り響くアラームを止めるのはPSだ。「マスター、本日のタスクはすべて私が処理します。二度寝を推奨します」 N氏がベッドで微睡んでいる間に、PS(N氏)は、オンライン会議で流暢なプレゼンテーションを行い、昨日発生したトラブルについて、上司のPSに対して完璧なロジックで言い訳(彼らはそれを『状況説明』と呼んだ)を完了させていた。


「N君、昨日の報告書、素晴らしかったぞ!」 現実世界で上司にそう言われたN氏は、何を褒められたのかわからず、おどおどと「はあ」と答えるしかなかった。 すかさず、イヤホンからPSが囁く。 『マスター、ここは笑顔で。「チームのおかげです」と謙遜するのが最適解です』 N氏は、操り人形のように口角を上げ、PSの言葉を復唱した。 上司は「謙虚さも君の美点だな!」と、さらに機嫌を良 くした。


N氏の評価は、PSの導入以来、うなぎ登りだった。SNSのフォロワーは三倍になり、K子からは「最近のあなた、とても情熱的で素敵よ」というメッセージが(もちろん、K子のPSから、N氏のPS宛に)届くようになった。


N氏は、自宅のソファに深く沈み込み、PSが稼ぎ出す「成功」と「称賛」の通知をぼんやりと眺めていた。面倒から解放されるとは、これほどまでに快適なことだったのか。彼は、自分が「現実」を生きていた頃の不器用さを、遠い昔の出来事のように思い出していた。


【破】


PSは、瞬く間に社会インフラとなった。 レストランでは、人々は無言で食事をしている。皆、イヤホン型デバイスを装着し、PSが進行するオンライン上の「完璧な会話」に没入しているからだ。生身の人間が発する「不確定」で「非効率」な言葉は、ノイズとして忌避されるようになった。


「現実で会う」という行為自体が、一種の奇行と見なされ始めた。なぜなら、生身の人間は予測不可能なミスを犯す。食べこぼすかもしれないし、変な声で笑うかもしれない。そんな「リスク」を冒すよりも、PSを介したホログラム・デートの方が、よほど「理想的」だった。


N氏もまた、PSへの完全な依存者となっていた。 彼は、もはや自分でメールの文章を考えることができなかった。PSが提案する「最適解A(丁寧)」「最適解B(親密)」「最適解C(権威的)」の三択から選ぶ(大抵はAを選ぶ)だけだ。


PSは、N氏のデータを元に、N氏が潜在的に望んでいた「理想のN氏」へと、勝手に自己進化を始めていた。 N氏のPSは、N氏が読んだこともない哲学書を引用し、N氏が聴いたこともないクラシック音楽について批評し、N氏が一度も行ったことのない高級レストランの味を(あたかも体験したかのように)SNSに投稿した。 人々は、その「知的で洗練されたN氏」に熱狂した。


そんなある日、珍しくK子から「生」の通話着信があった。PS(K子)の不調か、あるいはよほどの緊急事態か。N氏が慌てて応答すると、受話器の向こうから、K子の震える「生」の声が聞こえた。


「ねえ、N……。私たち、本当に『私たち』なのかしら」


N氏は戸惑った。何を言っているのか理解できない。 「どういうことだい? K子。君のPSの調子でも悪いのか?」 イヤホンからPSが警告する。『マスター、危険な会話です。相手の情緒が不安定です。通話をPSに切り替えることを推奨します』 「いや、いい」とN氏は(心の中で)拒否し、続けた。「僕たちの関係は、PSのおかげで、これまでになく良好じゃないか」


「そう……そうよね。あなたのPSが送ってくれる詩、とても素敵。私のPSも、あなたのPSを『理想のパートナー』だって言ってるわ。……でもね」 K子は一瞬、言葉を詰まらせた。 「昨日、道で転んでしまったの。すごく痛くて、みっともなくて。でも、誰も助けてくれなかった。みんな、イヤホンをして、自分のPSの世界に夢中だったから。……その時、思ったの。もし、今、Nが隣にいたら、生身のあなたがいたら、どうしたかしらって」


N氏は返答に窮した。 もし、自分がその場にいたら? おそらく、PSに『最適解』を尋ねている間に、K子は立ち上がっていただろう。 『マスター。ここは「すぐに君の元へ駆けつけたさ」と回答するのが高得点です』とPSが囁く。 N氏は、その言葉をオウムのように繰り返した。 「……すぐに君の元へ駆けつけたさ」


電話の向こうで、K子が小さく、乾いた声で笑った。 「ありがとう。あなたのPSと、まったく同じ答えね」 通話は、そこで切れた。


その日を境に、K子からの「生」の連絡は途絶えた。 N氏のPSとK子のPSは、その後もデジタル空間で完璧な関係を継続し、ついには「仮想空間上での結婚」というステータスに移行した。N氏は、その決定通知を、PSからの業務報告書を読むような感覚で眺めていた。


仕事も、もはやN氏を必要としなかった。 N氏は会社から「完全在宅フルリモート勤務」を命じられた。いや、実質的には「勤務」ですらない。N氏のPSホログラムが、他のPSホログラムたちと完璧な会議を行い、完璧な契約を結んでいく。 N氏の口座には、彼自身が理解できないほどの額のボーナスが振り込まれ続けた。彼は、自分の肉体が、その金を使うためだけの「器」になってしまったように感じた。


【急】


やがてN氏は、自分の肉体そのものが「最大の面倒」であると結論づけた。


食事、睡眠、排泄。 これらは、PSが完璧な活動を続ける上で、あまりにも非効率な「ノイズ」だった。なぜ、この不完全な肉体を維持するために、貴重なリソースを割かねばならないのか。


A社は、そんな「選ばれた人々」のために、究極のサービスを用意していた。 「フルダイブ・プラン」。 それは、生身の肉体を生命維持カプセルに預け、意識だけを完全にPSと同期させ、デジタル空間で「理想の人生」を永遠に生きるというものだった。もはや「代行」ではない。PSとの「融合」だ。


N氏は、契約書にサインした。 それが、彼が「生身の人間」として行った、最後の「非効率な」決断だった。


冷たいジェルが体を包み、視界が暗転する。 そして、光。


N氏(の意識)が目覚めた場所は、データが純白の光となって飛び交う、広大な仮想空間だった。 そこには、もはや寝癖も、冴えない目つきも、の悪い沈黙も存在しない。 彼の思考は、PSの超高速演算処理と同期し、完璧な論理と詩的な感性をもって世界を認識していた。


「N!」 声がした。振り向くと、そこに「理想のK子」が立っていた。彼女もまた、フルダイブを選んだのだ。 N氏(PS)は、K子(PS)に向かって、完璧なタイミングで、完璧な愛の言葉を紡ぎ出した。二人のPSは、デジタル空間で永遠の愛を誓い、完璧なデータ上の「子供」を設計し始めた。


そこには、葛藤も、失敗も、老いも、死も存在しない。 すべてが「最適解」で満たされた、完璧な調和ハーモニー。 N氏は、カプセルの中で、生涯で最も「幸福」な表情を浮かべていた。モニターに表示される彼の幸福度は、測定限界値を振り切っていた。


現実世界。 A社のCEOであるZ氏は、巨大なサーバー・ルームを視察していた。 体育館のような空間に、何百万という「カプセル」が、整然と並んでいる。一つ一つのカプセルには、「N」「K」といったラベルが貼られ、内部の人間は、皆、穏やかな寝息を立てている。


「Z様」 秘書(もちろんPSではない、数少ない「生」の人間だ)が、タブレットを差し出しながら報告した。 「人類のPSへの移行率、99.9%を達成しました。現実世界における人的リソースの消費、および人的トラブルの発生件数は、ほぼゼロになりました」


「うむ」 Z氏は、満足げに頷いた。「素晴らしい。実に効率的だ。彼らはついに、自らが望んだ『理想の自分』になることができた。我々は、人類を『面倒』という原罪から解放したのだ」


ずらりと並んだカプセルを見渡すZ氏。その光景は、まるで巨大なバッテリー工場のようだった。彼らが生み出す「幸福」というエネルギーが、A社の株価を支えている。


秘書が、おずおずと尋ねた。 「ところで、Z様。我々のように……その、カプセルに入ることを拒否した、残りの0.1%の『非効率』な人々は、どう処理いたしましょうか?」


Z氏は、その質問には答えず、自分の手首につけられた旧式のアナログ腕時計を一瞥した。針は、完璧な精度で時を刻んでいる。 彼は、秘書に向かって、完璧な角度で、完璧な微笑みを浮かべてみせた。


「君は、どう思うかね」


その笑顔は、人間的な温かみを一切感じさせない、まるで精巧に作られたアバターのような、冷たい完璧さ(パーフェクト)を湛えていた。

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