『人格リサイクル法』
Aは、死んだことになっていた。
心臓はまだ動いている。だが戸籍上は「回収済み」と記されている。人格リサイクル法第十二条、通称「早期有効化」。多額の教育ローンを返済できず、その担保として自らの人格を差し出した者のための条文だ。
「ご安心ください。法に則った手続きです」
灰色のスーツを着た人格配分公社の役人、Bは言った。机の角だけがやけに鋭かった。Bの瞳の虹彩には、他人のものらしき微かな人影が踊っている。彼自身も、多くの人格配分を受けているのだろう。その声には温度がなかった。
「同意印はCが押した」Aは抵抗した。Cは友人だった。器用な指先でどんな筆跡も真似でき、「君のためだ」と笑ってAの印鑑を転がした。その夜、Aは安酒で眠り、朝には自分の人格が国有財産になっていた。
人格リサイクル法は、死者の人格を国が回収し、公共の用途に再配分する制度として始まった。交通管制AIに「冷静な人格」を、介護ロボットに「忍耐強い人格」を薄めて注入する。最初は死者だけだった。やがて生者の人格も市場で取引され、「将来の死」を担保にした証券にまでなった。
BはAに、四桁の番号が刻まれた薄いカードを渡した。
「これがあなたの配分書です。あなたの人格は三百二十七の用途に分割され、順次配備されます」
Aは、まだ自分が自分としてここにいる、と感じていた。
「いますとも」とBは頷いた。「ですが、“あなたらしさ”の大部分は、今この瞬間も公共財として社会の円滑化に貢献しています。素晴らしいことですよ」
カードの表面にある小さな窓に、「本日の配分」が流れ始めた。
午前九時、Aの「判断の速さ」が0.03単位、交差点の信号制御システムに割り当てられた。
十時、「羞恥心」が0.004単位、学校の掲示板AIに注がれ、匿名の悪口を書き込む生徒の指をわずかに遅らせた。
正午、「空腹への耐性」が0.02単位、ダイエットアプリに実装され、どこかの誰かの午後の間食を一回だけ我慢させた。
そのどれもが、Aにとっては小さな死に見えた。自分が知らない場所で、自分の欠片が、誰かの善行や我慢になって消えていく。
家に帰ると、母のDが声のトーンだけでAの空洞を読み取った。
「どこを取られたの」
「少しずつ、全部を」
「お父さんもね」とDは言った。「昔、戦争のときに“勇気”を徴用されたの。帰ってきた父さんには、勇気の代わりに記念メダルが入っていたわ」
夜、Aは窓の外を見た。街は滑らかに動いている。人々は必要なときだけ親切になり、必要なときだけ我慢強くなる。普段は空っぽの顔で歩き、公共人格の配分を受けることで、その場にふさわしい感情をレンタルする。街灯の下で、誰もが美しく空虚だった。
翌週、Aは配分センターに呼び出された。
「二次配分の承諾をお願いします」Bは新しいカードを差し出した。「社会が便利になるほど、人は自分の人格を使わなくなる。結果、公共人格の供給が追いつきません。まるで電力危機ですね」
手続きが済むと、配分書の窓に新しい行が現れた。
《研究用途:集合人格合成実験》
「複数の個人から回収した感情を合成し、公共的な意思決定モデルを構築します」とBは説明した。「“個人”を一旦やめていただくのです」
「やめた個人は戻るのか」
「ええ、統計的には。社会的に平滑化された形で返却されます」
ガラス越しに見える合成室の中央では、透明な円筒の中で光の粒が渦を巻いていた。担当者がスイッチを入れた刹那、Aの頭の奥が空気を吸い損ねたように凹んだ。「怒り」の芯がひとつ、するりと抜けたのだ。抜ける瞬間、遠くの街で何人かが同時に一歩だけ後ろに下がる気配がした。レジの前、横断歩道の前。譲り合いという判断の速さ。それはAの怒りが持っていた、もう一つの顔だった。
友人Cからメッセージが来た。《君の“直感”に高値がついている。売るなら今だ》。Aは返信しなかった。直感に値札がつけば、世界は値札を読む時間だけ遅くなる。
Aは次第に、自分の声が薄くなっていることに気づいた。文の末尾が、他人の言い回しに着地する。駅の階段で、見知らぬ人と肩がぶつかった。Aは反射的に頭を下げた。相手も同時に下げた。二人分の公共人格「譲る心」が滴っていた。道は譲り合えたが、その会釈はどちらのものでもなかった。
AはBに面談を求めた。
「あなたは抵抗しますか」とBは尋ねた。
「抵抗する“意思”は、まだ私自身のものだ」
「よかった」とBは言った。「では、その“意思”を公共に譲ってください。社会に抵抗の仕方を教えるために」
Bはどこまでも真面目だった。真面目さの出所は、もはや誰にも分からない。
Aは決意した。
「三次配分に応じる。だが条件がある」
「何でしょう」
「私の人格はすべて公共に譲る。怒りも、羞恥も、直感も、勇気も。だが、その後に残る“余白”だけは私に返してほしい」
Bの眉が動いた。「余白、ですか?」
「何もない、ただの空きだ。中身はくれてやる。私は、空白として戻る」
空白が戻る日、Bは晴れやかな表情でAを迎えた。
「おめでとうございます。新しい“あなた”の誕生です」
配分書の窓が白く反転し、そこには意味を持たない点の集合だけが映っていた。
「軽いでしょう」とBは言った。「持ち運びに便利で、社会に優しい」
そして、こう付け加えた。
「副作用が一つ。空白は、他者の人格をよく吸着します。注意して暮らしてください」
空白になったAが街を歩くと、人々は彼を避けた。感情のない人間は、AIよりも不気味に見えるらしかった。だが、ある角を曲がると、Cが立っていた。
「Aか?」Cの声は震えていた。「君は、君っぽくないな」
「空白になった」
Cは息を飲み、Aの頭の周りに測定器をかざした。「美しいほどのゼロだ。この純度なら、どんな人格でも受け止めて、跡を残さない」
「なら貸してやろう」とAは言った。「君の“迷い”を、少しここに置いていけ」
Cは躊躇した。その躊躇の輪郭が、Aの空白の表面でぼやけ、吸い込まれていく。Cの肩から、ほんの少し力が抜けた。
その夜、都市の中心で事故が起きた。公共討論AIが暴走し、未調整の「怒り」が街に溢れた。BからAに緊急の連絡が来る。
《あなたの空白を、街に拡げたい。怒りの奔流を吸収する緩衝材として》
Aは中心広場に立ち、ゆっくりと息を吐いた。空白は呼吸とともに広がり、見えない膜となって街を覆う。怒号の波は膜に触れて形を崩し、静かな砂浜に寄せる波のように均されていった。火事は消えた。
事故は収束し、Bは礼を言った。
「あなたの空白は有効でした。報酬を振り込みます」
「報酬は、私に必要か」
「必要です。貨幣は人格より扱いやすい」
「人格は、扱いにくかったはずだ」
Bの瞳の奥で、誰かの虹彩が揺れた。「扱いやすくしたのです、私たちが」
翌朝、配分センターにBの遺影が飾られていた。過労だった。彼の「真面目さ」は、死後ただちに全国の役所に均等配分された。
その日を境に、空白であるAの元には、人々が密かに訪れるようになった。彼らは、公共配分されるにはあまりに個人的な、名付けようのない感情──どうしようもない愛おしさ、理由のない悲しみ、譲れない頑固さ──を、Aの空白にそっと置いていく。Aはそれらをただ受け止め、ただそこにあった。彼は、公共の感情置き場になったのだ。
人々は、Aの前でだけ、ほんの少しだけ自分らしくいられた。
街は今日も、滑らかに、静かに、そして美しく回っている。その完璧な静けさの下で、Aという名の空白だけが、名もなき感情たちの最後の避難所として、静かに息づいていた。




