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百物語  作者: 冷やし中華はじめました


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埠頭の線


 入江の片隅に、Aの小さな造船工房がある。

 Aの舟は静かに速い。木目を読む指は正確で、継ぎ目は雨の日でも鳴かない。港の古株は言う。「Aの舟は、海が礼儀正しくなる」。

 沖の大きな埠頭では、Bが「連合桟橋組合」を運営している。複数の湾が出し合った板を組み、桟橋ごとに同じ白線を引き、同じ高さに揃える。側面には多数のピクトグラム。

 Cは潮目係だ。風と潮の表を配り、航路の混み具合を知らせる。「今期の流行は“静かで安全・回収しやすい荷”だ」と、掲示板に書く。


 BはAの工房に来て、桟橋の図面を広げた。

 「この“白線”に合わせてくれれば、どの湾でも荷揚げが早くなる。係留金具はこの形。積荷の箱には符号と封印。見張り台には、騒音と光の規則。合わせられる?」

 Aは舟べりを撫でる。「合わないわけじゃない。だが、うちの勘を削らされると、舟が鈍る」

 「勘を規則に写すのが、うちの仕事だ」とB。

 Cは潮の図を指し、「合わせられた船ほど“どこでも売れる”。潮はそうなっている」と言った。


---



 白線は増え続けた。箱の表記は細かくなり、騒音の規定に昼と夜ができ、港の灯りの向きまで決まった。

 Aの舟は名人芸のままでは桟橋に近づけない。Aは“アダプタ”を作った。美しい木の舟に、白線の幅と合うゴムの縁取り、規定のフック、指定の封印。

 「手間だが、遠い湾まで行ける」とAは呟いた。


 Bの埠頭は賑わった。白線が目印になり、荷は迷わず並んだ。白線は弱い湾の力にもなった。古い板でも、線を引けば“同じ桟橋”として扱ってもらえる。

 その代わり、決め事は遅くなった。新しい石鹸箱の材質ひとつで、湾と湾が週単位で議論する。

 Aは思う。「Bの白線は、遠くを見るほど濃くなる。近くの癖は、薄くなる」


 ある年、Cが掲示を貼り替えた。

 ――今期の流行:静か・安全・“緑”の荷。音と煙の税、順次導入。

 Bはすぐに白線の脇に緑の細線を増やし、「緑の線に合った船は、入港が早い」と告げた。

 Aは眉をひそめる。「緑の線は、舟の腹から造り直さないと合わない。うちは木だ。塗るだけじゃ嘘になる」

 Bは肩をすくめた。「腹を造り直した者から、先に荷を下ろせる。そういう賭けだ」

 Cは静かに言う。「潮は変わるたび、遅い者を岸に置いていく」


---



 翌季、Aは舟を“静かな腹”に張り替えた。木は木のまま、継ぎの中に薄い層を入れ、音と揺れを逃がす道をこっそり作った。外から見えるのは、緑の細い印だけだ。

 Bの白線に合わせ、緑の線を正確に跨ぎ、封印も騒音計も一つずつクリアした。

 荷主の列は、Aの舟の前で止まらない。

 「見えない工夫は、白線では数えないからな」とCが笑う。

 Aは返す。「数えられないから、沈みにくいとも言える」


 その頃、Bの埠頭では別の議論が白熱していた。

 「箱の角をさらに丸く」「封印は二重」「夜間の灯りを反対向きに」

 湾ごとに正しい理屈があり、白線の上で擦れた。白線は、擦れるためにある。擦れれば、生きる。擦れない白線は、誰のものでもない線になる。

 Aは会議を尻目に、緑の線の上で舟を付けたり離したりして、最短の角度を体で覚えた。Bが“決まった後にしか語れない言葉”を探している間に、Aは“決まる前にしか掴めない癖”を舟底に写した。


 嵐が来た。

 Bの白線に従えば、荷は転ばない。だが白線は、風の渦までは知らない。白線は地面に描くものだから。

 Aの舟は、緑の線を正確に踏みながら、底の“逃げ道”で渦をいなした。荷は静かに降りた。

 Cは笛を鳴らし、「白線の勝ちでも、勘の勝ちでもない。白線に勘を透かして通す者の勝ちだ」と記した。


 嵐が過ぎたあと、Bは白線の脇に小さな文字を増やした。

 ――例外往復路(現場裁量・記録必須)

 会議は続く。白線はまた一本増え、緑の線は濃淡がつく。

 Aはアダプタを薄くし、舟の腹の“逃げ道”を一本増やした。

 Cは潮見表に新しい欄を作る。

 ――白線適合の点/勘の余白の点/二者の重なりの点


 港の端で、Aは独りごちた。

 「白線は世界の言語。勘は身体の言語。どちらも翻訳しすぎると、嘘になる」

 Bは苦笑した。「翻訳が商売なんだ。だが、訳しづらい表現がないと、言語は痩せる」

 Cは潮を見て頷いた。「線は増え、海は続く。線の上を歩きながら、海の揺れで脚を鍛える。それが、この港のやり方だ」



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