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百物語  作者: 冷やし中華はじめました


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135/173

日常


 Aは目覚まし時計の音で目を開けた。毎朝六時半、同じベルが鳴る。

 体を起こすと、窓の外には灰色の空。雲は規則的に流れ、まるで誰かがリモコンで動かしているようだった。


 「今日も同じ天気だ」


 呟きながら冷蔵庫を開ける。牛乳とパン。昨日もそうだったし、おそらく明日もそうだ。味は薄いが、栄養バランスは完璧らしい。


 ドアチャイムが鳴る。時計を見ると、いつもの七時ちょうど。そこに立っているのは隣人のBだった。


 「おはよう、A。今日もいい朝だ」

 「そうだな」


 Bの挨拶も毎日同じ。声の抑揚まで寸分違わない。二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。笑う理由はとくにない。ただ、それが日課だからだ。




 通勤路は規則的だ。道路には赤い車、青い車、黄色い車が交互に並ぶ。渋滞も事故もなく、信号のタイミングも完全に一定。


 会社に着くとCが待っている。上司である彼は、毎朝決まった言葉を発する。


 「おはよう、Aくん。昨日の書類は確認した。今日もよろしく」


 昨日の書類は「承認済」と書かれた一枚の紙。Aは渡し、Cは受け取る。そのやり取りも繰り返されて久しい。紙の内容が何であるかは誰も気にしない。


 昼休みには三人が社員食堂に集まる。トレイの上には、白米、味噌汁、焼き魚。もちろん昨日も同じだった。


 「変わらないな」Bが呟く。

 「変わらないことが一番なんだ」Cが答える。


 Aは箸を止め、ふと尋ねた。


 「なあ、もし明日が違ったらどうする?」


 二人は目を丸くした。

 「違う? 何が?」

 「いや……わからない。ただ、もし牛乳がなかったり、雲が逆に流れていたりしたら」


 BとCは顔を見合わせ、小さく笑った。

 「それは不安定だ。危険だ。そんなことは起こらない」

 「そう、私たちは日常を守るためにここにいる」


 Aはそれ以上言わなかった。だが胸の奥にかすかなざらつきが残った。


---



 翌朝。

 目覚ましが鳴り、Aは目を開けた。窓の外を見る。


 ――青空だった。


 雲ひとつない、鮮やかな青。今まで一度も見たことのない色。Aは呆然と立ち尽くした。


 その瞬間、ドアチャイムが鳴った。七時きっかり。だが、ドアを開けると、Bの挨拶は少しだけ震えていた。


 「……おはよう、A。今日も、い、いい朝だ」


 声がわずかに揺れていた。Aは息を呑んだ。


 出勤すると、道路には車が一台もなかった。会社に着くとCは机の上で頭を抱えていた。


 「Aくん……困ったことになった」

 「何が?」

 「日常が、壊れた」


 机の上には「承認済」の紙が山積みになっていた。しかし、その一枚に「未承認」と書かれた紙が混じっていた。


 「こんなことはありえない……」Cは震える手で紙を握りしめる。


 その時、スピーカーから無機質なアナウンスが響いた。


 〈注意。日常システムに異常発生。復旧処理を開始します〉


 社内の照明が一斉に点滅し、外の青空が急速に灰色へと塗りつぶされていった。信号機が再び一定のリズムを刻み、社員食堂からは味噌汁の匂いが流れてくる。


 「よかった……」Bが安堵の声を漏らす。

 「元に戻ったな」Cが肩を撫で下ろす。


 Aは窓を見た。たしかに、灰色の雲がいつもの速度で流れている。

 けれど、その灰色の奥に、ほんの一瞬だけ――青が覗いた。


 「なあ」Aは小さな声で言った。

 「俺たちが生きてるのは、日常か? それとも……日常に生かされてるのか?」


 二人は答えなかった。

 沈黙の中で、目覚まし時計のベルが再び鳴った。

 まだ朝の六時半。だが、それが今日なのか昨日なのか、Aにはもう判別がつかなかった。


---


(了)



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