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百物語  作者: 冷やし中華はじめました


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「時計仕掛けの夢想家」

高層ビルが林立する未来都市の一角、古びたアパートの一室で目覚めたヒロシは、いつものように混沌とした頭で朝を迎えた。彼の部屋は、無数の時計で埋め尽くされていた。壁にはゼンマイ式の古時計から最新のデジタル時計まで、様々な種類の時計が掛けられ、床には砂時計や水時計が所狭しと並べられていた。その光景は、まるで時間そのものに囚われているかのようだった。


ヒロシは30歳。統合失調症と診断されてから5年が経っていた。幻聴や妄想に悩まされる日々の中で、彼は「時間」という概念に取り憑かれるようになった。彼の脳内では、時間が歪み、伸縮し、時には逆流さえしていた。


「おはよう、ヒロシ」


天井から聞こえてきた声に、ヒロシは慣れた様子で答えた。「おはよう、未来の僕」


幻聴の一つである「未来のヒロシ」との会話は、彼の日課となっていた。


「今日こそ、僕たちの計画を実行に移す時が来たんだ」未来のヒロシが告げる。


「本当に大丈夫かな...」現在のヒロシは不安げに呟いた。


「心配するな。この計画が成功すれば、僕たちは時間の支配から解放されるんだ」


ヒロシは重い腰を上げ、部屋の隅に置かれた奇妙な機械に向かった。それは彼が何ヶ月もかけて作り上げた「時間操作装置」だった。見た目は子供の工作のような代物だったが、ヒロシにとってはかけがえのない希望の象徴だった。


装置のスイッチを入れると、部屋中の時計が一斉に狂い始めた。長針も短針も、てんでばらばらに回り始める。デジタル時計の数字は無意味な配列に変わり、砂時計の砂は重力を無視して逆流し始めた。


ヒロシの頭の中でも、時間の概念が崩壊していく。過去、現在、未来が混ざり合い、彼の意識は奇妙な次元へと飛び込んでいった。


気がつくと、ヒロシは見知らぬ街を歩いていた。しかし、それは本当に見知らぬ街だったのだろうか。道行く人々の服装や建物のデザインは、どこか懐かしさを感じさせた。


「ここは...50年前?」ヒロシは呟いた。


突然、彼の目に飛び込んできたのは、若き日の祖父の姿だった。まだあどけなさの残る顔で、祖父は友人と楽しそうに話をしている。ヒロシは思わず声をかけそうになったが、ここで過去を変えてしまっては取り返しがつかない。そう自分に言い聞かせ、彼はその場を離れた。


次の瞬間、風景が変わる。今度は未来の光景だ。空には飛行車が飛び交い、道行く人々は皆、頭に奇妙なデバイスを装着している。ヒロシは混乱しながらも、その光景に魅了された。


「これが僕たちの目指す未来なのか...」


しかし、その光景もつかの間、再び時間が歪み始める。ヒロシの意識は、無数の時間軸を縦横無尽に駆け巡った。彼は恐竜が闊歩する太古の地球を目にし、人類が宇宙に進出する瞬間を目撃し、そして地球が老いて朽ち果てていく様を見届けた。


その壮大な時間旅行の果てに、ヒロシは自分の部屋に戻ってきた。しかし、何かが違っていた。部屋にあったはずの無数の時計が、跡形もなく消えていたのだ。


「おかえり、ヒロシ」


天井から聞こえてきたのは、もはや「未来のヒロシ」の声ではなかった。それは、彼自身の声だった。


「僕は...治ったのか?」ヒロシは恐る恐る問いかけた。


「治った、というより...受け入れたんだ」声は答えた。「時間に囚われるのではなく、時間と共に生きることを」


ヒロシは深く息を吐き出した。頭の中が、不思議なほどクリアになっている。幻聴も妄想も、まるで嘘のように消えていた。


その時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。ヒロシが恐る恐るドアを開けると、そこには主治医の笑顔があった。


「おめでとう、ヒロシくん」主治医は温かい声で言った。「君の回復ぶりには目を見張るものがあるよ。もう薬の量を減らしても大丈夫そうだね」


ヒロシは困惑しながらも、何かが大きく変わったことを実感していた。時間旅行の記憶は鮮明に残っていたが、それが現実だったのか幻想だったのかは、もはやどうでもよかった。大切なのは、その体験を通して彼が何かを学んだということだ。


その日から、ヒロシの生活は大きく変わり始めた。彼は少しずつ外の世界に足を踏み出すようになった。最初は近所のコンビニに行くだけでも大きな挑戦だったが、やがて公園を散歩したり、図書館で本を読んだりするようになった。


そんなある日、図書館で偶然手に取った本が、ヒロシの人生を更に大きく変えることになる。それは時間物理学に関する入門書だった。難解な理論も多かったが、ヒロシは不思議なほど内容を理解できた。まるで、時間旅行で見た未来の知識が、彼の中に残っているかのようだった。


ヒロシは夢中になって物理学を学び始めた。統合失調症の症状は徐々に和らいでいったが、時間に対する彼の興味は増す一方だった。しかし今度は、それは病的な執着ではなく、純粋な知的好奇心だった。


1年後、ヒロシは地元の大学の公開講座に参加するまでになっていた。そこで彼は、自身の体験と学んだ理論を融合させた斬新な時間論を発表し、物理学者たちを驚かせた。彼の理論は、従来の時間の概念に一石を投じるものだった。


「時間は直線的に流れるものではない」ヒロシは熱く語った。「それは螺旋状に進み、時に自身と交差し、分岐し、そして再び合流する。我々の意識もまた、その螺旋に沿って動いているのです」


聴衆の中には、彼の話を荒唐無稽だと一蹴する者もいたが、斬新なアイデアに魅了される研究者も少なくなかった。中でも、若き女性研究者のユキが特に興味を示した。


「あなたの理論、とても面白いわ」講義後、ユキはヒロシに声をかけた。「もっと詳しく聞かせてもらえないかしら?」


こうして、ヒロシとユキの交流が始まった。二人は時間について熱く議論を交わし、時には夜通し話し込むこともあった。ユキはヒロシの斬新な発想に刺激を受け、ヒロシはユキの論理的思考に助けられた。


そんな二人の前に、思わぬ機会が訪れる。ある日、ユキが興奮気味に駆け込んできた。


「ヒロシ、大変よ!アメリカの研究所が、実験的な時間操作装置の開発に成功したんですって!」


ヒロシは驚きのあまり、言葉を失った。彼の妄想だと思っていたものが、現実のものになろうとしているのだ。


「私たちで見に行きましょう」ユキは目を輝かせて言った。「あなたの理論を実証するチャンスかもしれない」


ヒロシは躊躇した。過去の自分に戻ってしまうのではないか、という恐れがよぎった。しかし、ユキの熱意に押され、彼は意を決した。


「行こう」ヒロシは小さく頷いた。


アメリカへの渡航準備は急ピッチで進められた。出発の日、空港に向かう車の中で、ヒロシは窓の外を眺めながら、自分の人生の変遷を振り返っていた。


わずか2年前、彼は部屋に引きこもり、幻聴と妄想に苦しんでいた。そんな彼が今、最先端の研究に携わろうとしている。人生とは、何と不思議なものだろうか。


「緊張してる?」ユキが優しく尋ねた。


「ああ、でも...楽しみでもあるんだ」ヒロシは照れくさそうに答えた。


アメリカでの1ヶ月は、まさに夢のような日々だった。研究所の装置は、確かに時間を操作する能力を持っていた。しかし、それはヒロシが体験したような大規模なものではなく、ごく微小な粒子レベルでの操作に留まっていた。


それでも、この発見は物理学界に大きな衝撃を与えた。そして、ヒロシの理論は、この現象を説明する上で重要な役割を果たしたのだ。


帰国後、ヒロシとユキは日本でも研究を続けた。二人の関係は、いつしか恋人同士へと発展していた。ヒロシは時折、過去の自分を思い出すことがあった。部屋中に時計を飾り、時間に囚われていた自分を。


しかし今、彼は違った。時間を恐れるのではなく、時間と共に生き、時間を探求している。そして何より、愛する人と未来を見つめている。


ある夜、ヒロシはユキに問いかけた。


「ねえ、ユキ。もし本当に過去に戻れるとしたら、君は何をする?」


ユキは少し考えてから答えた。「何もしないわ。だって、過去を変えたら、今のこの瞬間に出会えなかったかもしれないもの」


ヒロシは優しく微笑んだ。「僕もそう思う。過去も未来も大切だけど、いま、この瞬間が一番大切なんだ」


二人は寄り添いながら、窓の外に広がる夜空を見上げた。無数の星が、まるで時を超えて輝いているかのようだった。


ヒロシは深く息を吐いた。かつて彼を苦しめていた時間が、今では彼の人生を豊かにしている。病は完全には消えていないかもしれない。しかし、それと向き合い、受け入れることで、彼は新たな世界を見出したのだ。


時は流れ、そして螺旋を描く。人生もまた、同じように進んでいく。ヒロシは今、その螺旋の中で、確かな足取りで歩んでいた。


彼の未来がどうなるかは誰にも分からない。しかし、それはもはや恐れるべきものではなかった。なぜなら、未来は無限の可能性に満ちているからだ。


ヒロシは静かに目を閉じた。部屋の隅に置かれた、たった一つの時計の秒針の音が、心地よく響いていた。

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