『時の狭間』
田中一郎は、いつものように朝7時に目覚まし時計のアラームで起き上がった。しかし、何かがおかしかった。部屋の中が妙に静かで、外からも一切の音が聞こえない。窓の外を見ると、空は薄暗く、街路樹の葉が風で揺れているはずなのに、まったく動いていなかった。
「おかしいな」と呟きながら、一郎はスマートフォンを手に取った。画面には「7:00」と表示されているが、秒数が変わらない。時計の針も止まったままだ。
不安になった一郎は、慌てて部屋を飛び出した。廊下に出ても、隣の部屋から聞こえるはずの妹の音楽も、階下のリビングからのテレビの音も、一切聞こえない。
「由美! お父さん! お母さん!」
叫びながら階段を駆け下りる一郎。しかし、家族の姿はどこにもない。というより、彼らの姿は確かにそこにあったのだ。リビングのソファに座り、朝食を食べようとしている父。キッチンで味噌汁の椀を持ったまま立ち尽くす母。2階の自室でヘッドホンを付けたまま、ベッドに横たわる妹。
みな、まるで蝋人形のように動きを止めていた。
「これは一体...」
困惑する一郎の背後で、突然声がした。
「やあ、田中一郎くん」
振り返ると、見知らぬ老人が立っていた。白髪で長い髭を蓄え、古めかしいスーツを着ている。
「あなたは...?」
「私は時の管理人だ。君を時間の流れから一時的に切り離したんだよ」
老人は穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「時間の流れから...切り離す? そんなことが可能なんですか?」
「もちろんさ。時間というのは、君たち人間が便宜上作り出した概念に過ぎない。本当の時間の姿は、もっと複雑で不思議なものなんだ」
老人は一郎に近づき、肩に手を置いた。
「さあ、私と一緒に来たまえ。君に本当の時間の姿を見せてあげよう」
言葉が終わるや否や、一郎の周りの景色が歪み始めた。目まぐるしく色と形が変化し、気がつくと一郎は見知らぬ場所に立っていた。
そこは広大な空間で、無数の光の筋が縦横無尽に走っている。それぞれの光の筋は、さまざまな色や太さを持ち、複雑に絡み合っていた。
「ここが...時間?」
「そうだ。ここが時間の本質だ。君たちが知っている直線的な時間の流れは、この複雑な網の目のほんの一部に過ぎない」
老人は腕を大きく広げ、周囲の光景を指し示した。
「この光の一本一本が、一つの時間軸だ。人や物事の運命の糸とも言えるかもしれないね」
一郎は圧倒されながらも、不思議な魅力を感じていた。ふと、自分の人生を表す光の筋はどれなのか気になり、尋ねてみた。
「私の...時間軸はどれですか?」
老人は微笑み、一本の青い光の筋を指さした。
「あれだ。見てごらん」
一郎が近づいてみると、その光の中に自分の人生が映し出されているのが分かった。生まれてから現在まで、そしてこれから先の未来まで。
「これが...私の人生?」
「そうだ。だが、これは可能性の一つに過ぎない。見てごらん」
老人が手を翳すと、青い光の筋から無数の細い光が枝分かれしていくのが見えた。
「これらは全て、君の選択によって生まれる別の可能性だ。例えば...」
老人は一本の枝分かれした光を指さした。そこには、一郎が医者になっている姿が映っていた。
「これは、君が医学部に進学した場合の未来だ」
次に別の光を指す。
「これは、君が海外に留学した場合。そしてこれは...」
次々と示される無数の可能性に、一郎は目を見張った。
「つまり、私の未来は決まっていないんですね」
「そうとも言える。だが、同時にすべての可能性が存在しているとも言えるんだ」
老人は深遠な目で一郎を見つめた。
「時間とは、可能性の集合体なのさ。君たちは日々、自らの選択によってその可能性を一つずつ現実のものとしている」
一郎は自分の時間軸を見つめながら考え込んだ。これまで何気なく過ごしてきた日々が、実は無限の可能性を秘めていたのだと思うと、不思議な高揚感を覚えた。
「でも、どうして私をここに連れてきたんですか?」
老人は少し悲しげな表情を浮かべた。
「実はな、君の時間軸に異常が生じているんだ」
「異常?」
「ああ。見てごらん」
老人が指さす先を見ると、一郎の青い時間軸が突然途切れているのが分かった。
「これは...」
「君の寿命が突然短くなってしまったんだ。本来なら80年以上生きるはずだった君が、あと1年で命を落とすことになってしまった」
一郎は愕然とした。
「どうして...そんな」
「原因は分からない。時には、こういった異常が起きることがあるんだ。だが、私にはそれを正す力がある」
老人は一郎の目をじっと見つめた。
「ただし、代償が必要だ。君の人生の一部を、別の誰かの人生と交換しなければならない」
「交換?」
「そう。君の80年の人生を取り戻すためには、誰か別の人の人生を短くしなければならないんだ」
一郎は困惑した。自分の命を長らえるために、誰かの命を縮めるなんて...。
「それは...倫理的に問題がありませんか?」
老人は首を振った。
「善悪の判断は君たち人間がすることだ。私は単に、時間の均衡を保つために働いているだけさ」
一郎は深く考え込んだ。自分の命と引き換えに、誰かの命を奪うようなことは絶対にしたくない。しかし、このまま1年後に死んでしまうのも恐ろしい。
「決断は君次第だ」老人は静かに言った。「だが、急がなければならない。君を時間の流れから切り離している時間にも限りがある」
一郎は自分の時間軸を見つめ直した。そこには、これから経験するはずだった人生の様々な場面が映し出されていた。大学卒業、就職、結婚、子供の誕生...。それらをすべて失うことになるのか。
しかし同時に、別の誰かの人生を奪うことの重さも感じていた。その人にも、きっと大切な未来があるはずだ。
「決められません」一郎は頭を抱えた。「どちらを選んでも、後悔することになりそうです」
老人は優しく微笑んだ。
「それが人生というものさ。どんな選択にも、必ず代償が伴う。大切なのは、自分の選択に責任を持つことだ」
一郎は深く息を吐いた。そして、決意を固めた。
「分かりました。私は...」
その瞬間、周囲の景色が再び歪み始めた。
「おや、時間切れのようだ」
老人の声が遠のいていく。
「待ってください! まだ決めていません!」
一郎は叫んだが、すでに遅かった。目の前の光景が渦を巻くように消えていき、気がつくと自分の部屋のベッドの上に横たわっていた。
目覚まし時計が鳴っている。朝7時だ。
「夢...だったのか」
一郎は頭を抱えながら起き上がった。夢にしては、あまりにも鮮明で不思議な体験だった。
部屋を見回すと、すべてが普通だった。時計は正常に動いており、外からは街の喧騒が聞こえてくる。
しかし、一郎の胸の中には何か変化があった。人生の儚さと、一瞬一瞬の選択の重要性を、深く実感していた。
「よし」
一郎は立ち上がり、窓を開けた。新鮮な朝の空気が流れ込んでくる。
「今日という一日を、精一杯生きよう」
そう呟きながら、一郎は新たな一日の始まりを迎えた。夢の中で見た無数の可能性が、頭の中でキラキラと輝いている。
それから1年後―
一郎は元気に大学生活を送っていた。あの不思議な夢から、彼の人生観は大きく変わっていた。一瞬一瞬を大切に生き、自分の選択に誠実であろうと努めていた。
そんなある日、大学の図書館で一冊の古い本を見つけた。タイトルは『時間の本質』。著者名はなく、出版社も記載されていない奇妙な本だった。
興味を持った一郎が本を開くと、そこには見覚えのある光の網目の図が描かれていた。そして、最後のページには、こんな言葉が記されていた。
「時は流れる。だが、それは川のように一方向にのみ流れるのではない。時は、可能性という大海原を行き来する。汝の選択が、その航路を決めるのだ」
一郎は本を胸に抱きしめた。あの体験は、やはり単なる夢ではなかったのかもしれない。そして、自分はきっと何かの選択をしたのだ。それが何だったのかは分からないが、今こうして生きていられることに感謝しなければならない。
図書館を出た一郎は、夕暮れの空を見上げた。無数の星が瞬き始めている。
「さあ、これからどんな選択をしていこうか」
そう呟きながら、一郎は新たな可能性に向かって歩み出した。彼の人生という一本の光の筋が、無限の時間の海原で、かすかに輝いていた。