マシューの日常
貴族学園に潜入して一ヶ月が過ぎた。
エミリアは着々と社交をこなし、平民の間で人気者になっている。
すごいな!
学園を卒業したジルは、学園にある上位貴族専用の執務室かサロンにいて、休み時間や放課後に殿下と行動を共にしており、側近として補佐している。
私はというと、レオンハルト王太子殿下の執務の補佐をしたり、お茶を入れて休憩を促したりしながら、殿下の側近の人達(将来の宰相候補や騎士団長候補、大きな商会の息子など)と仲良くなり学園生活を楽しんでいた。
学園で行う授業は学園に入る前に一通り終わらせており、学力的には問題ないだろうし、1年間限定とはいえ学園に通わせて貰えるなんて、ラッキーだと思う。
そもそも、間諜の仕事なんて完全に裏社会の仕事だ。
社交など行わなくても問題ないのである。
そして、学園に入って感じた事。
レオンハルト王太子殿下の人気は凄い。
穏やかで見目麗しくて紳士的、学力も剣術もトップクラス。
それなのに婚約者もいないのだから、みんなが憧れるのも納得だ。
そして、殿下の周りにいる側近たちも殿下程ではないがみんな人気がある。
今日も巻き毛の可愛らしい御令嬢が、殿下達の前で見事に転んだ。
私は彼女に手を差し伸べて立たせると、汚れた制服の裾を払ってあげたのだが、凄い顔で睨まれてしまった。
『余計な事するな!』って顔に書いてある。
仕方がないのよ。これも仕事なんだから。
将来のこの国を背負う人達に手を取らせる訳にはいかない。
刃物や劇薬を隠し持っているかもしれないのだから、従者や護衛がこういう対応をするのは普通である。
それでも負けじと、学園に入る前に婚約していない御令嬢は策を練ってくるし、優良物件な彼らに少しでもお近付きになりたいと、日々努力している。
もっと違う方向で努力して欲しいわ。
そもそも、王太子殿下の側近になるくらいだから、幼い頃からモテていたに違い無い彼らは、華麗にスルーするのだ。
「おい、マシュー。いちいち立たせてやらなくてもいいんだぞ。赤ん坊じゃあるまいし。」
「いえ、これも従者の仕事のうちですから。」
騎士団長候補のアルフォンソ・トラビス侯爵令息に溜め息をつかれつつ、手を取ったまま巻き毛の御令嬢と目を合わせる。
「お怪我はございませんか?」
「は、はい!失礼しました!」
御令嬢は、顔を真っ赤にして走り去って行く。
瞳孔の動きも正常で、媚薬や精神薬の匂いもなし。
顔が赤くなっていたからどこか打ったのかと思ったけど、あれだけの勢いで走れるなら問題なさそうだ。
「また幼気な少女がマシューに墜ちましたね。」
やれやれと肩をすくめながら、宰相候補のサミュエル・レガロ公爵令息にからかわれる。
「私は自分の仕事をしたまでですよ。」
「あれ?まさかマシュー知らないの?〈王太子殿下や側近と常に行動を共にし、王家の覚えもめでたい将来有望株。伯爵家の次男でありながら高位貴族と同等の学力と剣術を使うエメラルドグリーンの君。貴族女性だけでなく、平民にも優しい銀髪の貴公子!〉だっけ?」
大商会の息子であるテオ・イグレシアスが笑う。
「何ですかそれは。」
「マシューの噂だろ。」
「マシューはモテモテだね。今では王太子の私よりも人気だよ。」
「殿下まで!止めてくださいよ!」
「伯爵家の次男坊だから、平民でも頑張ったらイケると思ってんだろーなー」
「はぁ〜。左様ですか。」
教室を移動する度に目の前で転ぶ御令嬢達に、思わず溜め息がでる。
本当に、もっと違う方向で頑張って欲しいものだ。
いつも通りのやり取りの後、私達は鍛錬場に向かう。
いくつかのグループに分かれて、一対一で試合をするのだ。
ここでは敢えて、王太子も側近もバラバラのグループになる。
ここで打ち合うことによって、学友の技量や性格を把握し、卒業後に役立てることもできるからだ。
私の今日のグループには、12人。
ロングソードの模造刀を振ってみたが、レイピアと比べると重く、相手の剣を弾くにはかなりの力が要りそうだ。
やはり攻撃を受け流しつつ、最短で動きを封じるしか無さそうだ。
そんなことを考えていると、グループの一人、ネイサン・シャレーに声をかけられた。
「よう、マシュー。今日のお前の相手はオレだぜ。」
ニカッと笑う日に焼けた笑顔が、まだ少し幼さを感じる。
「そう。よろしくね。」
「お前さー、王太子殿下の側近候補なんだろ?伯爵家の出身なのに凄いな。」
「卒業までの1年間だけだから、側近候補って言っても、側近にはならないよ。ネイサンこそ、侯爵令息なんだから、これから殿下達と交流することもあるだろ。」
「あぁ。オレ、学園を卒業したら騎士団試験受けるんだ。今は騎士団の候補生として、色んな相手と当たっておきたい。特に、お前みたいな飄々とした奴は当たったことないからな。どんな試合になるのか、楽しみだぜ!」
そう言って、人懐っこい笑顔を見せる。
「ふふっ。私も負ける気はありませんよ。」
そう、私も負けてやる気はない。
師匠やお兄様ほどでなくても、訓練してきたのだ。
伯爵令嬢としては使い道のない訓練だが、間諜の娘としては必須である。
自分より力も体力もある相手と対峙することは珍しくない。
なので、大いに利用させて貰おうと心に決める。
「ネイサン・シャレー、マシュー・スコット、前へ!」
監督であるヨーデル先生に呼ばれ、鍛錬場の一区画に足を向ける。
両者が向かい合い礼をすると、先生の「始め!」と言う掛け声が響いた。