桃花☆ひなあらレンジャー・グリーン
西の地に現るは桃花☆ひなあらレンジャー・グリーン
健康の妖精である。
中華料理店のテレビで東京の様子を見ていた男は戦々恐々だった。昼飯には少し早いが、オフィスにいても仕事が手につかずに馴染みの店に飛び込んだのだ。メンマとピータン豆腐。ビールが欲しいところだがそれは叶わない。
去年は散々だった。
俺は株のトレーダーとして働いている。ハイリスク、ハイストレス、そんなにハイでないサラリー。去年のこの日は特にストレスフルな一日だった。
やっと仕事のカタがついて、這いずるようにして家に帰ったのは深夜近く。飲み屋に寄って行こうかとも思ったが、家にある高級ウィスキーを思い出して帰った。インフレだがどうしても欲しくてカードの利用限度額を増額してマックスで買った虎の子のウィスキー。緊急用の酒である。
周りの飲み屋が静かだな、てか街が静かだなとは思ったが、疲れた頭では考えがまとまるはずもなかった。家に着くと、はやる心を押さえながらウィスキーのボトルを開けた。すうっと息を吸って、ウィスキーの熟成された芳香な香りが…しない?
うん?
グラスに注いでみた。琥珀色のはずが…透明?
恐る恐る口に含んでみると…味がしない。
やばい疲れてるのかもしれないと、冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取り出した。プルタブを引っ張ると、プシュっという軽快な音が…しない。
いつもなら缶から直に飲むところだが、嫌な予感がしてグラスに注いでみた。
ワンクッション欲しかったのだ。心の準備が。
ビールは注いでも泡立たない。透明。無臭。
飲むと水。水?
水としか表現できない。
味覚オンチになったか?
ダメ押しとばかりに封を切らずに埃を被っていた調理酒を引っ張り出してきて飲んでも、水の味しかしない。水の味ってなんだ。だんだんとわけがわからなくなってきた俺は、現代人がほとんど取るであろう行動をした。ネット検索だ。
まさかとは思ったのだ。今日はひなあられの日。まさか、まさか。
何度もタイプミスをしながらなんとか入れたキーワードは『20XX年、桃花☆ひなあらレンジャー・グリーン』。一番上に動画が出てきた。
「桃花☆ひなあらレンジャー・グリーンだぞ。お酒の飲み過ぎは体に悪いぞ。お酒を全部水に変えるゾ。」
緑のボンボンを頭に付けたちまっこい桃花☆ひなあらレンジャー・グリーン様が、両手からふあーっと緑色のひなあられを出現させると、てっぺんに桃の花がついた杖でくるくると辺りをかき混ぜた。キラキラと舞って散っていく緑色のひなあられ。それが消えて…消えて…で、ここに至る?
俺は手に掴んでいた高級ウィスキーを見つめた。よく見ると、ボトルの底に緑色のひなあられが沈んでいる。(後から知ったのだが、このひなあられを食べると一年間風邪知らずらしい。)
は?おい!
ネットでは阿鼻叫喚だった。
ビールも日本酒もワインも焼酎も。消毒用アルコールもバイオエタノールも、一瞬にして全部水に変わってしまったのだ。
そっそんなことがあるのか!?
かろうじて一筋の希望は、水に変わったのは今の時点で完成しているアルコールだけらしいということ。ネットでは早くも他の地域または国からのアルコール緊急受け入れが議論されている。
だがほとんどは、ショックによる雄叫びだ。
ーーうぉぉぉー!明日からどう生きろと?
ーー料理酒もなくなったら困るんだけど!
ーーうち居酒屋なんすけど。
ーー私ワインソムリエなんですねどね。はは。
酒がないくらいなんてことない、と言う人もいるだろう。嫌な飲み会に付き合わなくてよくなったという意見もある。数ヶ月後のニュースでは、うちの地域の住民は肝臓の値が劇的に改善したそうだ。俺も健康診断で要注意項目が減ったから、健康にはなったのだろう。
酔っ払いは往々にして面倒くさいし、馬鹿みたいに消えていた酒代は貯まった。夜もよく眠れるようになった。だが、ここまでくるのは本当に大変だったのだ。
俺は決してアル中ではないが、オフィスの一番下の引き出しにはウォッカが入っている。俺だけではない。会社の奴らはほとんどそうだ。ジンの奴もいるし、フラスコにウィスキーを入れて胸ポケットにしまっている奴もいる。どうしても神経が昂った時に、頼りになるのは酒なのだ。
酒がなくなってパニクったのは俺らだけではない。
去年の株価の上げ下げが激しかったのは、アルコールがなくなって動揺したトレーダーや銀行や社長や個人投資家がパニクっていたからだ。アホみたいな企業の株が急上昇したり、コツコツやってた中堅どころの株が無になったりもした。
アルコールはすぐにやめられるものではない。おかげで専門のクリニックは大繁盛だそうだ。俺も通ったし。クリニックの院長はウハウハなのか、肌艶がとてもよかった。儲かってまんな。
酒は長寿の妙薬ともいうではないか。じいさんばあさんに長生きの秘訣は?と訊けば、数人は酒だという人がいるだろう。
ノーアルコール・ノーライフ
人類は酒と共に進化してきたのだ。一説によると人類は酒が作りたくて定住を始めたという。
最近では少しずつ酒も流通し始めているらしいが、今じゃ酒は車一台分と言われるほど高級品となってしまった。俺も去年から一滴もアルコールは飲めていない。それには理由があるのだが。
それより、今年だ。
なにをやらかしてくれる。
桃花☆ひなあらレンジャー・グリーン様が降臨する時期が近づくにつれ、市場も、人も、動揺してるのか、そわそわと落ち着きがない。ネットもざわついている。
昼の12時ぴったりに桃花☆ひなあらレンジャー・グリーン様がテレビの画面に現れた。
きたっ
周りに緊張が走る。
「運動不足は体に悪いぞ。フェアリーピクシーがあなたの運動をお手伝いするぞ。」
緑のポンポンを頭に付けた桃花☆ひなあらレンジャー・グリーン様が、両手からふあーっと緑色のひなあられを出現させると、桃の花がついた杖でくるくると辺りをかき混ぜた。キラキラと舞って散っていく緑色のひなあられ。
俺の目の前にぽんっと親指サイズの緑色の妖精が出てきた。手には鋭い槍を持っている。
緑色のひなあられが消えて…消えて…で、親指サイズの妖精が現れる?
「フェアリーピクシーと追いかけっこだぞ!一人100キロ走るのだぞ。」
は?
なんのことやら、と当惑する客。俺も訳がわからん。
「いてっ。こいつ刺してきやがる。なんやこら!うぜえ!」
ヤンキーにいちゃんが、パーンとフェアリーピクシーを払い除けた。フェアリーピクシーは勢い余って壁に激突する。
うわあ、さすがにそれはないわ。
周りの客がドン引きしている。
真っ赤になってプルプルと震えたフェアリーピクシーが、ポンっと子犬ほどの大きさになって、槍でヤンキーにいちゃんの腕を刺した。
「いでっ」
体に比例して槍も大きくなっている。
「いってーな!血ぃ出てるだろうが!」
ヤンキーにいちゃんが叫ぶが、フェアリーピクシーはそれに構わず腕を連続で刺した。
それを合図に、周りのフェアリーピクシーも一斉にそれぞれの担当を刺し始めた。
「いたっ!」
「ちょっと!髪の毛引っ張んないでよ!」
「頭は!頭は勘弁してくれ!」
「逃げろ!走れ!」
「100キロっつったか!?そんなに走れっかよ!フルマラソンでも42キロちょいだろ!」
「桃花☆ひなあらレンジャー・グリーン様のお力は今日一日限りだ!日付けが変わるまで逃げ通せ!」
「ちょっと!私今日ヒールなんだけど!」
「僕は腰痛が!」
「走れ!」
「逃げ切れ!」
人々は一斉に走り出す。
日付けが変わるまであと11時間56分9秒。
フェアリーピクシーとの鬼ごっこが始まる。