089『軽くスキップして』
漆黒のブリュンヒルデQ
089『軽くスキップして』
ここに来たころのわたしだったら引きずり出していた。
まあ、いいか。
見敵必殺がわたしの信条だ。その峻烈な覚悟と、その覚悟通りに戦う姿勢に、あちらの世界では『漆黒のブリュンヒルデ』の異名で通っていた。
ヒルデの戦い方は微塵も容赦がなくて、漆黒の闇が、全ての色彩を呑み込んでしまうようだという意味だ。
こちらに来てからも、名前を失った妖や霊どもに片端から名前を取り戻して付けてやった。
しかし、芳子の中に蟠っている者に気付きながら、わたしは大人しく缶コーヒーを飲んでいる。
そいつは、すでに芳子の半分を呑み込んでいるが、これでもいいかと思ってしまっている。
「そうか、芳子の家はジャズ喫茶だったものな、いいんじゃないか」
芳子は、アメリカにジャズの勉強に行きたいというのだ。正しくは、芳子の中に隠れているそいつがだがな。
バークレイ音楽学校に入るだとか、向こうではバイトしながら、リアルタイムのジャズに触れてみるんだとか夢を語っている。
「具体的に決まったら教えてくれ、見送りぐらいはしたいからな」
「はい、ありがとうございます!」
「勉強して帰ってくるころには、また新発売のコーヒーとか出てるだろ、駅のデハ(宮の坂駅に保存されている昔の車両)の中ででも聞かせてくれたら嬉しい」
「アハ、ですね、いっしょに昼寝とかね」
「そうだな」
それから、なにを語ることも無く、ぼんやり校舎の上を流れる雲を眺めて、それぞれの教室に戻った。
―― やっぱり気になるか? ――
放課後の帰り道、豪徳寺の裏を歩いていると、この世のものではない足音が付いてくる。
振り返ると、五十年も昔のうちの制服が立っている。
「すみません……」
下げた頭は、昔なら校則違反をとられかねないショートヘアー、まるで宝塚の男役だ。
「なぜ、礼を言う」
「見逃していただきましたから」
「気にするな、その気にならなかっただけだ」
「でも、わたし、名前はおろか、自分の事はなにも憶えていません。いつものヒルデさんなら、名前を付けて浄化なさいますでしょ」
「まあな」
「よろしいんでしょうか?」
「芳子も潜在意識の底で嫌がっている風も無かった、いいだろう。アメリカで励んで来い」
「は、はい!」
「しかし……」
「はい?」
「昔の制服もいいもんだな、微妙に膝下のスカートとセーラーのバランスがとてもいい」
「ありがとうございます! 微妙に改造してるんです。スカート丈は二センチ、上着もタックと丈を詰めてあります」
「芳子をよろしく頼むぞ」
「は、はい!」
そいつは嬉しそうに回れ右すると、傾き始めた日差しに溶けるように消えて行った。
やつの名前も素性も分かっている。
もう少し話せば、あいつは自力で思い出していただろう。
しかし、思い出せば成仏してしまう。
少しずつ時間をかけて、芳子の中に溶け込めばいい。
角を曲がって我が家が見えてくる。
ねね子が嫌がる啓介を引っ張り出して散歩にでるところだ。
うちでは、玉代がお祖母ちゃんの肩をもんでいる。
あげ雲雀などが鳴いたら、うってつけなのだが、そこまでの調和は贅沢と言うものだ。
家までの残り数十メートルを軽くスキップして帰るブリュンヒルデであった。
☆彡 主な登場人物
武笠ひるで(高校二年生) こっちの世界のブリュンヒルデ
福田芳子(高校一年生) ひるでの後輩 生徒会役員
福田るり子 福田芳子の妹
小栗結衣(高校二年生) ひるでの同輩 生徒会長
猫田ねね子 怪しい白猫の猫又 54回から啓介の妹門脇寧々子として向かいに住みつく
門脇 啓介 引きこもりの幼なじみ
おきながさん 気長足姫 世田谷八幡の神さま
スクネ老人 武内宿禰 気長足姫のじい
玉代(玉依姫) ひるでの従姉として54回から同居することになった鹿児島荒田神社の神さま
お祖父ちゃん
お祖母ちゃん 武笠民子
レイア(ニンフ) ブリュンヒルデの侍女
主神オーディン ブァルハラに住むブリュンヒルデの父