085『握りたてのお握り』
漆黒のブリュンヒルデ
085『握りたてのお握り』
女将さんが風呂敷包みを開くと、握り飯は数も大きさも数百、数千倍になって、まるで目の前に白い山ができたみたいになった!
しかし、数と大きさが増したばかりではない。
炊きあがったご飯の握りたてという感じで、蒸気爆発寸前の火山のように湯気を立ち上らせ、あたりの風景を蒸気に滲ませている。
「す、すごい迫力……」
「赤城山にメタモルフォーゼしちまってますからね、並みの量じゃ追いつきません……クロノスのやつ、出会った頃は偏屈な巨神でしたがね、もともとは親の愛とか家族の温もりとかに飢えた、ブキッチョな男だったんでござんすよ。それが身に合わない時間の管理とか任されちまって、上っ面は偉そうなこと言ってますけど、どうしていいか分からなくっちまって、ヒルデさんに尻もちこんだんでござんすよ」
「時空の歪を直してほしいって、駅前の時計屋さんで頼まれちゃって……まだいくつもこなしていないんですけどね」
「ヒルデさん真面目だから、付き合ってくださったんですね……いくつおやりになったんですか?」
「まだ二つです。ミッドウェーの利根4号機とモースの大森貝塚……利根4号機は修正しても結論は変わらなくって」
「あれは、一筋縄ではいかない歪でござんす。クロノス自身、何度やってもできてないんでござんすよ」
ゴゴゴゴゴゴ
「すごい地響き……」
「姿隠して音隠さず。忍び寄って来ても地面が震えっちまう……ちょっと下がった方がよござんす」
ズザザザザザザザァーーーー!!
巨大なサンドペーパーで地面を擦るような音がしたかと思うと、目の前のお握りの山の湯気が、さらにムレムレと立ち込め、目を開けているのも辛くなってくる。
ムシャムシャムシャムシャムシャムシャムシャムシャムシャ…………!!
白い闇の中で乱暴な咀嚼音が響き、こちらの脳みそまで攪拌されるような気持ちの悪さで、思わず目をつむってしまう。
ザズズズズズズズゥーーーー!!
さっきとは逆廻しのような音が響いて、唐突に静けさが戻って、白い闇が開けてくる。
「食べるだけ食べたら、行っちまいましたね……ほんとうに、しょうのない亭主でござんす」
いやはや、大男はトール元帥とその仲間で慣れていたはずなんだけど、今度ばかりはビックリした。
「これで、当分、ヒルデさんの前には現れないと思います……どうぞ、これを」
女将さんは、懐から小さな竹の皮の包みを取り出した。
「ちょいとばかりくたびれっちまいました。お新香しか付いてませんけど、ひと休みってことにしましょう」
「はい、いただきます」
女将さんがクルリと指を回すと、峠の茶屋のようなのが現れて、緋毛氈敷いた縁台には盆に載せた湯呑が二つ。
コンビニのそれよりも一回り小さな握りをゆっくりといただく。
「それは、わたしが預かっておきましょう」
「それ?」
「ゼウスとポセイドンが預けた……」
「ああ……エーゲ海の真珠」
「亭主は安心して寝ると、口を開けるクセがあるんです。夫婦仲が悪くなってからは、めったに口を開けて寝たりはしませんけどね。もう一度、亭主と向き合ってみますよ……いえ、夫婦仲がもどらなくっても、文句を言おうと口を開けたところを狙って飲ませてやります。なあに、ゼウスやポセイドンを亭主から護って育てたことを思うと、どうってことはありませんよ。だから、ご安心なすって……」
「しかし」
一度は失敗したが、仮にもブァルハラの姫騎士たるブリュンヒルデが引き受けたのだ。
「はい、確かに預かりました」
開いた女将さんの手には、エーゲ海の真珠が載っている。
「申し訳ない、わたしの心が弱いのだろうか」
「いいえ、あの亭主と一緒になり、ゼウスやポセイドンを育てた事実の重さですよ。あなたも、いずれ神の子を宿し、育てるようになれば、お分かりになります」
「わたしが?」
戦いと、父オーディンとの相克に明け暮れ、今は、この異世界で五里霧中の身には及びもつかないことだ。このブリュンヒルデに、そんな日がやってくるというのか?
それに応えることはなく、古き女神は、暖かい慈愛の微笑みを残して消えて行った。
周囲の風景も輪郭と色彩を失っていき、豪徳寺の自分の家に変わっていった。
リビングでは、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんがテレビの天気予報を見ながら食後のお茶を楽しんでいる。
あとで街の様子を見に行こう。
たぶん、街も元に戻っているだろうしね……。