083『白絹屋の女将』
漆黒のブリュンヒルデ
083『白絹屋の女将』
気が付くと床の間を背に座っている。
十二畳の座敷で、前には脚付きの茶托、湯呑からは仄かに湯気が立っていて、ここに座って間がない感じがした。
カタカタ カタカタ…………
体の芯には、まだ人力車の振動が残っている……いや、振動は開け放たれた障子の向こう、廊下のさらに奥の方から伝わって来る。
なんの振動だろう?
縁側の向こうは武骨だが落ち着きのある庭になっていて、塀の向こうに見える山塊と重なって景色を豊かにしている。
ああ、これが借景と言うやつか。
少しは日本文化が分かってきたかな……しかし、景色のいい山だ。
桜島のような猛々しい益荒男ぶりではないし、富士のような超絶した神聖を感じるわけでもないが、小兵な男たちが腕組みして惜しくらまんじゅうをしている群像のように見えて、頼もしくも懐かしいユーモアを感じさせる……そう言えば『赤城の山も今宵が限り……』の名台詞を思い出す。国定忠治は、このあたりだったな。
お待たせいたしまして申し訳ございません。
赤城山に見惚れているうちに、岩を置いたように座りの良い和服の女性が三つ指を付いている。
「はあ……」
間の抜けた吐息のような声しか出せない。
庭と赤城山に気をとられ、女性が座敷に入ってきたことさえ気が付いていなかった。
顔を上げた女性は、着物の上からでもかっちりとした肉おき(ししおき)のよさを感じさせる。日本女性ではあるのだろうが、我々の北欧神話やギリシアローマ神話に出てきそうな風格である。
「前橋の絹問屋『白絹屋』の身代を預かっております玲愛と申します、武笠のお嬢様にお越しいただきましたのは、お願いしたい事がありまして。不躾なお呼びたてをいたしまして、まことに申し訳ございません」
「はい、わたしは、いつの間にここに座っていたのでしょうか?」
「はい、申し訳ございません。あまり時間がございませんでしたので、ちょいと端折らせていただきました。さようでございますね……わたしの本性はレアでございます。クロノスの女房と申し上げればはようございますね」
「あ…………!?」
思い出した。
「そうなんです、亭主のクロノスとはいろいろございまして、オーディン様にもいろいろとご心配をおかけした曰く付きの夫婦でございました……」
欧州の神話世界では、ちょっとタブーになっている話で、幼いころから『関わってはいけない』と父に戒められていた話で、長く意識の底に沈めていた記憶だ。
「亭主とは長い間別れて暮らしておりましたが、つい先だって前橋に戻ってまいりまして。ひるでさんには店に戻るとか言っていたかもしれませんがね……根は気の小さな男でございますから……」
玲愛の女将さんは、ちょっと言いよどんで視線が落ちる。
すると、ドタドタと廊下を走って来る足音がして、わたしを俥屋に預けた手代風が縁側で畏まった。
「女将さん、旦那様が赤城山に向かわれました!」
「なんだって!? 時計は隠しておいたんじゃないのかい!?」
「はい、それは、そうなんでございますが腹時計ひとつだけ、ぬかっておりました、申し訳ございません!」
「そうか、腹時計を……申し訳ありません、ちょいと中座させていただきます」
「女将さん、わたしもついて行きます。何かの役には立つと思いますから……」
「いや……そうですか、それでは、お言葉に甘えます、こちらの方へ」
女将さんに先導されて廊下を進む。
先ほどのカタカタの音が明瞭になって来る、店先の三和土に下りると、隣接する作業場が目に入る。音は、絹糸を繰る機械の音だと知れる。
作業場と反対の方角に進むと庭の一角に出て、そこには手代風と俥屋さんが馬を引いて待っていた。