071『駅前の時計屋』
漆黒のブリュンヒルデ
071『駅前の時計屋』
立ち眩みがして脚を踏ん張った!
目の前が階段なのだ、わずか三段だけど、踏み外せば危ない。危うくステンレスの手すりに掴まって体勢を立て直す。
えと……クロノスを探して……斜め上の時空へ……向かったはず……ここは豪徳寺の駅前?
改札を出て、真っ直ぐ行けば段差もなく道路に出られたのに、わたしってば、わざわざ右に寄ってわずか三段の階段に向かったんだ。振り返ると改札横のサンマルコカフェ……え?
わたしってばサンマルコカフェに入ってたの?
そう言えば、口の中に390円均一のパフェの風味が残ってる、ショーウィンドウの上段には15種類のパフェがエレクトリカルパレードの山車のように並んでいる。
これって、制覇してみたくなるわよね。
わたしの食べたパフェってどれだったかな……チョコバナナ? チョコイチゴ? チョコナッツ?
う~ん、次にチャレンジするのが決められない。
「あ、武笠さんのお嬢さん」
え?
振り返ると、時計屋の小父さんが原チャに跨って手を挙げている。
「時計の修理出来てますよ、よかったら取りに来てください」
「え、あ、はい」
そうだ、腕時計の修理をお願いしていたんだ。
みそな銀行の筋向いの時計屋さんに入る。間口一間半の小さなお店だけど、大小さまざまなアナログやらデジタルの時計が並んで、そのいずれもがコチコチと時を刻んでいる。
「いいもんですね、親子孫三代で時計を受け継いで行くってのは。大事にお使いでしたんで、ほとんど分解掃除だけで済みました。あとはベルトの交換だけです、お気に入りのを選んでください」
「あら、どれも素敵で……」
「実用ならステンレスのだけども、ちょっとそっけないかな。皮はシックでエナメルはきれいですが、お召しになる衣装を限定してしまいます。他にもTPOとか……」
「う~ん……ほとんど制服だから……これかな?」
ちょっとシックなブラウンとレッドの中間色ぐらいの皮のを選んだ。
「承知しました、五分ほどで仕上がりますから、掛けてお待ちください」
丸椅子を勧められて、制服の襞を気にしながら腰掛ける。
幾十の時計が時を刻んでいるのは気持ちがいい、小父さんの調整がいいんだろう、ほとんど秒針まで同じに動いている。今どき珍しい鳩時計などもあって、まもなく五時の時を刻もうとしている。
あと一分……三十秒……十五秒……五秒、四、三、二、一!
あ……それは鳩ではなかった。
剣を携えた戦乙女が出てきて、キッと顔を上げると天に向かって剣をかざす。
一回 二回 三回 四回 五回……なるほど、これが時報になっているんだ。
「まだ修理中でしてね、直ったら『エイオー』って鬨の声をあげます。はい、できました」
小父さんは、仕上がった腕時計をビニールの袋に入れてカウンターに置いてくれる。
「おいくらになりますか?」
「メンテナンスこみで、二千円頂戴します」
意外にお安い、制服の内ポケットからお財布を出し、千円札を二枚取り出そうとして……光るものに気が付いた。
これは……?
見つめていると、光は急速に輝きを増していく……エーゲ海の真珠だ。
カチコチ チカチコ チカチカ コチカチ コカカカ カカカコ カカカカ……
時計たちがデタラメに動き始め、それまで揃っていた時間がメチャクチャになってしまっている。
「やれやれ……そんなものを持っていたんだね」
小父さんが、憑き物がとれたように白けた顔になっていく。
「思い出した、わたしはクロノスに会いに来たんだ」
「わたしが、そのクロノスだよ。大人しく、その腕時計を受け取って店を出たら、おまえの身の周りだけはまともにしてあげようと思ったんだけどね、それはポセイドンに持たされたのかい?」
「これを飲んでください」
「そういうわけにはいかない、こうなったらブリュンヒルデ、おまえに次元の歪みを正してもらうしかない。まずは、あの時空だ」
「あ……」
クロノスが指差した時計の文字盤が白く光り、瞬くうちに広がったかと思うと、わたしを包んでしまう。
フッと立ち眩みに似た浮遊感に襲われた……。