040:『世田谷八幡鳥居前』
漆黒のブリュンヒルデ
040『世田谷八幡鳥居前』
あわや時間切れというところで琥珀浄瓶を退治することができた。
スマホを通じて名前を奪われた人たちも回復して、日常の生活を取り戻しつつある。
おきながさんは琥珀浄瓶の中で限界まで戦ったので、いまは社の中で臥せっている。
かく言うわたしも一昼夜泥のように眠って起きたところだ。
早々に支度をして世田谷八幡を目指す。
おや、もう起きているのか?
そう思ったのは、踏切まで来たところで、鳥居の方角に穏やかな煙が立っているのが見えたからだ。煙は、おきながさんが掃き集めた落ち葉を焼いているしるしだ。たいてい、焼き芋も焼いている。
が、意表を突かれた。
「わたしが代わりにやっております」
ニコニコと火の番をしていたのはスクネ老人だった。
「姫も、三韓征伐以来のお疲れのようです。いっそ高天原で養生されてはと勧めたんですがね、流行り病も猛威を振るっている。世田谷の鎮守たる身が避難することは出来ないと仰せで、この老人が鳥居の番をしております」
「そうだったのか」
「芋がくべてあります。もう少しで焼けます、付き合って下され」
「ああ、お相伴させてもらう……おや、あの歌声は?」
社の奥から子どもの歌声がする。
東むらやあ~ま 庭先ゃたまぁ~こ~(^^♪
「若でござるよ。志村けん殿が身罷られたので、お祀りされておるのです」
そうなのだ、琥珀浄瓶は片づけたとは言え、ウイルスの脅威はまだまだ続いているのだ。
「これも祀ってはもらえないだろうか」
目的のものをスクネ老人に示す。短冊に『円 周率』と記してある。
「おお、あの若者でござるな」
「ああ、わたしをたぶらかして、自ら無理数の『円 周率』と名乗り、すすんで琥珀浄瓶に取り込ませて、永遠の消化不良に陥らせた若者だ」
「承知つかまつった。八幡社で預かってよいものかは分かりませぬが、判別するまでは当社でお祀りさせていただくとしよう。噂で聞いたところでは、欧米でも同様の者が現れて、自ら『π』と名乗って非循環小数や無理数となって琥珀浄瓶に立ち向かったということでござるよ」
「琥珀浄瓶はあちこちに現れているんだな」
「いかにも、かの国の妖は手を変え品を変え現れるでしょうなあ、綻びのある所は付け込まれる。ヒルデ殿も覚悟めされよ」
「ああ、しかし、今日ぐらいは落ち着かせてくれ」
「むろん、ちょうど芋も頃合いに焼けたようでござる」
老人がチョイチョイと手招きすると、見事な焼き芋が熾火から転がり出てきた。
朝に家を出たはずなのに、早くも日は西に傾き始めていた。