湖面の主
じっと、水面を見つめる。
――――めちゃくちゃかっこいいな。
何の手入れもしていないのに白銀の毛皮は風で柔らかく揺らぎ、日の光で絶えず輝いている。
金色の瞳は小さな太陽のように光を宿し、闇に覆われた森の中を明るく見通す。
ぴんと立った耳は遥か遠くの囁きさえも細かに捉え、つやつやとした黒い鼻はあらゆる生命を嗅ぎ分ける。
爪も牙も綺麗な弧を描き、どんなに硬い岩でも瞬時に切り裂く。
そう、私は…………狼だ。
それも、めちゃくちゃにかっこいい、それはそれは大きな銀狼。
哲学のようなことを言うが、私が私となる前――たぶん、前世とか、そういうヤツ――は、狼ではなかった。じゃあ何だったのか、なんて分からないが、とりあえず私ではなかった。これだけは間違いない。たぶん。
その根拠を問われるとどう言ったものか非常に悩ましいのだが…………まず分かってほしいのは、私が私として生を受けた時、私は既に完成していた、ということだ。
完成していた、とはつまり、現段階での超絶カッコイイの極致のようなパーフェクト銀狼姿であったことを意味している。私はものごころついたころから私だったのだ。
これが一般的普遍的常識的誕生でないことを私は理解している。
生命というのは初めは小さく弱く愚かで綺麗なものだ。そして時間とともに大きく強く脆く美しく賢く醜く成長し、次第に衰え、いずれ死ぬ。例外はあるかもしれないが、生命とはそういうものだ…………と、私は知っている。
対する私はというと、小さかった時など無い。初めから大きかった。そして強かった。そして美しかった。そして知と無知を知っていた。
私は賢いので、私が矛盾の塊みたいな存在であることを理解した。
私は私自身のことを何も知らないが、ある程度の知識は持ち合わせているのだ。いつ、どこで、誰から、何を、なぜ、どのように教えてもらったのか知らないのに、一般常識レベルの知識はあるのだ。
うっわあ、私、変だわあ。
その結論に至るのは早かった。私が私であることを認識したその日には気づいた。という思考を獲得している、という事実からして変だ、ということも理解できた。という思考能力がある、という事実からして…………以降永久ループ。
だって、動物って、ここまで知性無いっしょ?
アイデンティティが存在すること、ということを知っていること、ということを認識している自我があり、知性がある。
ハロー、哲学。私はしがない考える葦だ。以後よろぴこ丸。
さて、私がパーフェクトであることは明らかだとして。
目下の問題は、何をしようか、というところだ。
私はパーフェクトだ。パーフェクトなので、自分磨きをする必要が無い。自分のためにすることが何も無い。一切無い。食事も睡眠も休養も必要無いレベルのパーフェクトっぷりだからだ。
そう、何もすることがないのだ。
暇だなあ。
私が私として生まれたのはこの森の中。この森の中の、この湖の側。この湖、めちゃくちゃ綺麗なので、覗き込むとパーフェクトな私の姿が映る。
素晴らしいね。
というわけで、私はこの湖を覗いたり、湖の中に入ったり、湖の側で寝たり、そんなことばかりして過ごしていたのだ。
◆
私は賢い。賢いので、数を数えられる。先日、持て余した時間を使って一万まで数を数えたのだ。間違いなく私は賢い。
それはともかく、私が平和に過ごしていたのは私が私になって四日目までだった。
森の中にいる大きな動物はどれもこれも野蛮で獰猛で不潔で乱暴で馬鹿だった。私を見つけると、パーフェクトの化身たる私への嫉妬なのか何なのか、脇目も振らずに飛び掛かってくるのだ。
もちろん私はパーフェクトなので、その程度で動揺などしない。そして傷も負わない。軽く前脚を振るう。それで馬鹿は吹き飛び、消滅する。清掃完了。
そんな感じで定期的な清掃を強いられるため、私の平和はほんの少しだけ乱されている。
まあ、私はその程度で怒るような器の小さい狼ではない。しかし愚者を受け入れるほど懐が広いわけでもない。闖入者は片っ端から排除だ。
クマ。
ウシ。
ムカデ。
サル。
カメ。
カラス。
イノシシ。
トカゲ。
シカ。
タカ。
ネズミ。
クモ。
エトセトラ、エトセトラ。
今日も今日とて私は闖入者を切り裂くのだ。
◆
私は強い。強いので、苦戦しない。来る日も来る日も連戦連勝、負け知らずだ。何者にも負ける気がしない。間違いなく私は強い。
そんな私でも、先日、初めて、ヒヤッとすることがあった。
その日現れた闖入者は大きかった。私と互角の体格を持っていた。しかし全身は黒く染まり、瞳は暗く澱み、歩いた箇所から木々や草花が腐っていった。そして鋭利な爪と牙を持っていた、その姿はまさしく狼だった。
私が完璧の化身とするならば、アレは欠陥品の化身だった。
振るった爪は容易く避けられ、向けられる顎は的確に急所を狙う。牙が掠めれば白銀の毛は散らされ、無暗に触れれば皮膚が爛れる。咆哮に四肢は竦み、瞳に心が圧倒された。
まあ、結論から言えば…………勝った。辛勝ではあったけど。
どうやって仕留めたのか、記憶が曖昧になるぐらいには厳しい戦いだった。触れても触れられても激痛が走るのだ。あんな思いは二度としたくない。
しばらくは身動きが取れない日が続いたけど、今はもう大丈夫。闖入者も現れないし、平和な毎日だ。
爪は欠け、白銀の毛皮は少し輝きが薄れたが、そのうち元に戻るだろう。
まったく、パーフェクトは辛いな。
◆
人間の会話が聞こえてきたのは、四季が巡るのを二百回ほど数えた年のことだった。
数は六。真っ直ぐこちらへと近づいてきている。厄介だ。私が私になってから人間を見たことは一度も無いが、人間とは厄介な生き物なのだ。
何が厄介かって、私のように知性がある。
かつての馬鹿達のように本能で生きていない。対応を間違えると子の代、孫の代までつっかかってくるに違いない。たいした力も無いくせに、無駄に賢く、そしてねちっこい。どんな些細なことでもケチをつけて因縁にして不平不満をぶつけてくるんだ。ああ、嫌だ嫌だ。
聞こえてくる声からして、相手は男ばかり。
ところで、男ってのは、女が好きだ。
それも、胸と尻がデカくて、腰がくびれているのが最高。それで顔が良ければ言うことなし、と。
人間のくせに、知性があるくせに、こと性欲のこととなると本能丸出しになるとは…………いやはや、情けない。まあ、今回はこの特徴を利用して、さっさと追い出すつもりなのだが…………同じ知性持ちとして悲しくなるものだ。
そんなこんなで、女の姿をして待ち構えていたわけなのだが。
「この嬢ちゃん、森で迷子になってたから保護したんだが」
「森で、か…………それで、身元は?」
「それがさっぱり分からん。聞き出そうにも、どうも要領を得なくてなあ」
なんか…………拉致られた。
◆
「で、名前は?」
「名前…………個体を識別するための固有の名称のことだな。しかし、そもそも識別するほど私の同種は私の周囲に存在せず、私に名を付ける者もまた存在しなかった。そして私は私に名を付けようと思うこともなかったため、現時点まで名乗る名称が存在していなかったのだが、しかし今こうして名を尋ねられたことで私は私の固有名称への必要性を感じており、何かしらの固有名称を答えようと考えてはいるのだが、何しろ今まで固有名称に触れる機会が無かったために即座に思いつかず、ほとほと困っているのだ。そこで提案なのだが、私を私たらしめる、私を表するに相応しい素晴らしい固有名称は無いかな?」
「…………つまり名無しか」
「名無し? たしかに現時点まで私は固有名称を持っていないために名無しと呼ばれるのも仕方ないだろう。しかし固有名称を得た未来では私は名無しではなく、現時点の私は名無しから固有名称持ちへの過渡期にあたる存在で、今の私が私を名無しと称するのは些か語弊があると思うのだが、誤解してほしくないのはこれはあくまで私の主観であり、客観においては私は名無しと評されるのが最も妥当なのかもしれないということであり、この曖昧な現状を打破すべく何かしらの固有名称を得たいのだが、どうだろうか。参考までにいくらか固有名称を教えてはくれないだろうか。ああ、もちろん参考に、だ。採用するわけではないので、そこは安心して気軽に答えてもらいたい」
「…………」
人間と会話をするのは難しい。言葉は通じているはずなのだが、少し言葉を交わすだけで相手が黙ってしまうのだ。
たとえパーフェクトの化身たる私と言えど、経験の無さを完璧にはカバーできない、ということだ。誰だって最初は初心者だ。失敗は当然で、試行錯誤していくうちに応用力が身に着くものだ。つまりこの結果は当然と言える。
そう、仕方がないのだ。
問題は私がどのように失敗しているのか分からないところか。すぐに指摘してくれればいいものを、周囲の人間は互いに目配せをするばかりで何も言わない。まったく、面倒だ。
「…………彼女の名前、どうします?」
「あー…………うん、名前。名前ねえ…………何か、案、あるか?」
「お、それなら、最初見た時に思ったんだが、リ――――」
リ。その一音を聞いて、ひとつの名前が思いついた。
「よし、決めた。リュコス。私の名前はリュコスだ。どうだ、私に相応しい良い名だろう。今後、私はリュコスと名乗る。私のことはリュコスと呼ぶといい」