少女と100円の男
薄暗いバーの中は、さっきまでの賑やかさの欠片を残しながらゆっくりとした時間が流れていた。
軽く髪に白髪が混じったマスターが、カウンターに1人残った客を横目に見ながら閉店の準備を始めている。
暗い店の中の更に暗いカウンターの隅っこで頬杖をつきながらグラスを傾けているのは、まだ成人にもなってないような女の子だ。
だがこの街では、男か女か、若いかどうかはそれほど関係ない。老若男女関わらず馬鹿はすぐ死ぬし、弱ければ酒を飲んでいる間にやはり死ぬ。
そして彼女は、のんびり、しかし大量に酒を飲み続けていた。
「お客さん、そろそろやめといた方がいいんじゃねえか?」
声をかけるが、マスターも別に客の容姿も体調も心配しているわけではない。ただ酔い潰れてお代がもらえないのだけは勘弁だ。若い時なら体で払ってもらおう、等と考えたかもしれないが……と、頭に手をやって白髪も増えたし密度も減って、老いた自分に溜息をついた。
「マスター、こんな話を知ってる?」
突然、飲んでいたグラスを置いて少女が話しかける。
「100円の男、ってやつ」
「なんだいそりゃ、聞いたことねえな」
長く店をやっていると、様々な話を聞く。もしかしたら似たような話を聞いたかもしれないが、でもあえて知らない振りをするのも、彼の中の接客業たるところだった。
それに閉店まであと少し、話を聞くのも面白い、と彼は思った。
「あるところに4人の男達が居たの。むっさいのよ、むっさいの4人。でも友達なのそいつら。面白いでしょ。むっさいの4人」へらへらと話し始める。
「はぁ」あまり面白くはない。慣れてはいるがやはり酔っぱらいだ。と彼は思う。
マスターの反応にはおかまいなしに少女は話を続ける。
「でも友達なんだけど、1人はちょっと変人なの。ほとんど自給自足で生活してて、買い物するにしても100円くらいしか使わない。だから他の3人から100円って呼ばれてる。やばいでしょ」
少女が指で丸く輪を作り、その向こうからマスターを見る。
「いいんじゃねぇか? 金かからん人生で羨ましいよ」
マスターも指で輪を作り、それがまるでふわっと消えたように手のひらを上にむけた。今月の売り上げも、客は入るのに芳しくない。
「それでね、ここからが面白いんだけど、その100円が宝くじを拾ったの。そしてそれが当たりくじだったの。落とし主が見つからなくてそのまま彼に当選金が入ることになったのよ。あ、おかわり。スコッチ水割りで」
「はいよ」
見た目の割に頼むものが渋い。
ウイスキーの瓶に手をかけたマスターにお構いなしに話を続ける。
「いくらだと思う? 1億よ、1億」
「そりゃすげえや」
水割りを作る手は止めないが、彼の目は瓶のラベルを見る。1憶もあればこれの何倍も高級なウイスキーが山ほど買えることだろう。
「1憶もありゃ良い女に良い家だって手に入る」
「そうでしょそうでしょ、やっぱり人間はそうでなくっちゃ」
そう言ってから彼女が声のトーンをおもむろに落とした。
「でもね、そいつは違うかったの。いつもと変わらないように自給自足。買い物は100円程度。それを見てやきもきしたのは周りの3人ね。こいつが使わないなら金を奪ってやろうと考えた」
「おー、怖いねえ。友達なんだろ?」
「友達よ。でもま、その程度の友達ってことよね。というかお金の魔力ってやつ?」
楽しそうに少女が笑う。
「数日後100円を誘って飲んだ3人は、その帰り道でいよいよそれを実行に移すの。100円をボコボコにして金の在りかを聞きだそうとした」
マスターにはそいつらの顔がありありと目に浮かんだ。欲に目がくらんだ顔。この店の客の8割はそんな顔をしている。
「でもね、3人が目で合図を交わした時、1人の男が現れたのよ」
「そいつが、逆に3人をボコボコにしたってか?」
彼女はちっちっと指を左右に振る。
「まさか。だってそんなの男の得にならないじゃん。3人に向かってこう言ったの。『そいつの金を奪わんでもお前らに同じだけのものをあげようじゃないか』って」
「なんだそれ。得どころか損だろう。人の良い金持ちかい」
「──どうかしら。でも3人は訝りながらもそれに乗ることにした。だって何もしなくてもお金持ちになれるんだもん」
まぁな、とマスターが頷く。もともと頭が良い奴らでもないだろうし、それに友達の良心も少しは残っていたのかもしれない。
「次の日、3人に何があったと思う?」
「枕元に1憶円があった……?」
「ぶっぶー」
ふふふ、と少女が不敵に笑う。
「何も無かったのよ」
空のグラスをカラカラ揺らす。
「それじゃただのほら吹き男じゃねえか。面白くもなんともねえ」
「これからよ。はい、もう1杯おかわりちょうだい」
やはりただの酔っぱらいかと思ったが、ここまで聞くと続きが気になる。彼はもう少し付き合うことにした。
「ほらよ。面白くならないならお代は倍にするぜ」
はいはい、と言いながら彼女が美味しそうに飲む。
「何も無いと思った彼等がね、街に行くと、おかしいのよ。どこで買い物しても1円でお釣りがくるの。びっくりよ」
「なんだそりゃ」
彼女がスッと硬貨を取り出す。
「これ1円じゃない? 彼等だけこれの価値が1万倍になったのよ」
「待ってくれ、意味がわからない」
仕方ないなぁ、と少女が得意げに説明する。
「宝くじを拾った彼は、大体総資産1万円くらいだったのね。よくこれで生活してたけど。まぁそれが1万倍になったわけ」
「1憶だからな。1万倍か」
「そして、それが彼等4人だけ同じになったの。資産が1万倍の価値になっていたの。つまり周りの世界が1万円の値札が付いていたのが1円になったのよ」
「買い物しまくりじゃねえか」
しまくりよ、と彼女もまるで自分がもらったかのように嬉しそうだ。
「と、するとその男は何者だよ。人間業じゃねえ」
「そりゃもう、悪魔よ。悪魔」
彼女がグラスに残ったウイスキーを飲み干して、くすりと笑う。
「お金の価値を変える悪魔。ってとこかしら。お金ってほら、人間の一番嫌なところ集まるし」
「でもそれならめでたしめでたしだな。4人とも幸せになっただろ」
そうマスターが言うと、大きな目を見開いて無邪気に笑う。
「本当にそう思う? だって人間だよ?」
そして空のグラスを差し出す。仕方ない、とマスターが瓶ごとカウンターに置いた。
「ありがと。それから3人は楽しく暮らしたわ。もうこの世の春ね、なんでも買える。そして……」
なんとなくマスターも続きがわかった。
「金が無くなったわけか」
「ピンポン」
いよいよ彼女の顔も赤くなってきた。
「それでね、彼らが目をつけたのが、100円だった。だって彼やっぱり変わらない生活してたんだもん。1憶の1万倍の1兆円あったのに!」
「そいつはすげえな」
そこまでいくと仙人だろうかと思う。
「やっぱり同じよね。また彼を誘ってお酒を飲ませた。そして帰り道襲おうとした。そして」
「また男が現れたってわけか」
んーん、と彼女が顔を横に振る。そしてニイッと白い歯を見せた。
「3人に向かって車がバーン! と飛び込んできた。バーン! って」
両手を上げて勢いよく開いた。待ちに待ったクライマックスかのように。
「100円以外の3人をはじき飛ばして車は走り去ったの。残されたのは瀕死の3人。もう虫の息ね」
「死んだのか」
「いいえ、そこにまたあの男が現れたの。悪魔よ。そして今度はこう聞いたの。『世界を元に戻し、さらに同じだけ払えば助けてやるがどうする?』って」
あぁ、とマスターが溜息をつく。
「返事ができたのは100円しかいなかった。だって他はもう耳も聞こえてなかったし。『頼む。友達を助けてくれ』と彼は言ったわ。すごい友達思いのお馬鹿さん」
「助かったのか」
「もちろん。3人が次の日目を覚ました時は、潰れていた足もはみ出ていた腸も元通り。めでたしめでたし。ってわけ」
そして一気に最後のウイスキーを飲み干した。
いや、待て、とマスターが言う。
「めでたしじゃないだろ」
「めでたしよ。まぁ確かに、彼等が街に出ると今度は1万円の物が100万円の値札になってたわけだけど」
「まんまと悪魔の思う通りか。それじゃ宝くじ拾った100円の資産も1万円じゃねえか」
「大丈夫よ、彼はその気になればお金がなくても生活できるし」
3人も100円も幸せにはならない。ただ嫌な気分になっただけの話だ。マスターが顔をしかめる。
「結局この話は何が言いたいのかよくわからんね」
そう言うと、彼女が満面の笑みになる。
「人間って馬鹿ね、って話よ。面白いじゃない」
そして話終えて満足したのか、一つ伸びをして席を立った。
「ありがとう、美味しかったわ。それじゃ、お会計いいかしら。──あら、そんなに飲んだのね。いいわ払ってあげる。はい、100円」
「まいどあり」
バーを出た少女の姿が一瞬黒く染まったかと思うと、路地を歩く男の姿だけが街に消えていった。