第七章 「あたしの苦しみ」
眼下に広がる大きな湖。イドラの大釜。相も変わらず、膨大な量の真っ黒な液体化したイドラ・アドミレーションをたたえている。周囲には、いつもと同じように多くの種類のイドラが思いおもいに群がっている。上空から見ると、湖を縁どるクレーターの稜線と相まって、まるで、大地にぽっかり空いた大きな穴のように見える。
デュラハンは、おなかがふわっと浮く感じを覚える。同時に「バランスを崩して足を踏み外し、その穴に墜落してしまいそうな不安な気持ちになった。それを振り払うように、意識的に前を向き、自分のパラノイアスキルの出力を上げる。自分の足がしっかりと空間に固定されたことを確認して、自分の拠点であるレンヌ・ル・シャトーへの帰還を再開する。
遠く北の方角に、このイドラの大釜の黒とは対照的な白と灰色の直方体が無数に立ち並ぶ場所が見える。
ああ、帰ってきた。デュラハンはホームに帰ってきた安心感とともに緊張感を同時に覚えた。居心地がとても悪い。
その緊張感は考えるまでもなく、キャメロットに敗北したことをマリアや組織の仲間にどう伝えるかに関係している。マリアに叱責されるだろうか、仲間に責められるのだろうか、嘲笑されるのだろうか。嫌な展開しか想像ができない。このまま帰還しない方が良いのかもしれない。しかし、あそこにはマリアがいる。帰らなければ捨てられてしまう。戻らないといけない。
キャメロットに敗北した原因を思いめぐらす。一つしか思い至らなかった。
「キリア、なんであのタイミングで邪魔をしたんだ! 邪魔がなければ今度こそ、あたしはリンの大槍を砕き、リンもたたき伏せることができていたんだぞ!」
デュラハンは胸に渦巻く憤りに任せて、聖杯の中のキリアの心を責める。
「デュラハン、すまないと思っている。あのとき、わたしは眠っていたんだ。しかし、直前に聖杯の中が大きく揺れ動いて、それで目覚めてしまったんだよ」
「それで、なぜ邪魔をしたんだよ!」
「わざとじゃないんだ。信じてくれ」
デュラハンは、自分の胸のもやもやが払しょくされるのを期待して、沈黙によって、キリアの言葉を促す。
「聖杯の中にあなたが見る光景を移すモニターがあって、あのとき、そのモニターからリンのアンコールバーストの、まばゆく強く輝くオレンジの光が聖杯の中に広がり、周囲を明るく照らしていったんだ。そのモニターの中心でひときわ輝くリンがいた。その表情を見ていたら……、なぜか納得した。『ああ、そうか。これだった』という感じで。思わず右手を伸ばしていた。そうしたら、自分を縛っていた鎖が外れていることに気づいて、戸惑ったよ。そのあとデュラハンの声を聞いて……、そのあとのことは意識がはっきりしていない。」
「自分が何をしたか、覚えていないのか?」
「うん……。ねえ、デュラハン。あの納得感は何だったのかな。なんでわたしの拘束が解かれたのかな。」
デュラハンは憤り半分、あきれ半分という感じでキリアに答える。
「それは、あたしが訊きたいことだ」
「そうだね。わたし、本当に何が起こったかわからないんだ。だから、わざとじゃない。あなたの邪魔なんてしたくてもできないよ……」
キリアの言葉から、さみしさやあきらめを感じる。彼女を聖杯浸食して、自由を奪ったのはあたしだ。普段は意識することない澱のような罪悪感が浮き上がり、責めたい気持ちがなえてしまった。
「あのとき、リンのアンコールバーストが目の前に迫って動けなくなり、意識を一瞬の間なくしたとき、今まで味わったことのない恐怖を感じた。とても怖かったんだ。このあと目覚めることがないような、生と死の境目のようだった」
「そう……だったのか。よくわからなかったとはいえ、申し訳なかった」
デュラハンは、キャメロットとの戦いの最後の場面を振り返る。
「きっと、あたしは、意識をなくしている間、おまえのコンクエストスキルを使っていたのかもしれない。あのアドミレーション吸収能力によって、リンのアンコールバーストをすべて呑み込んだのだろう」
「そうか、だからダメージがなかったし、あなたがつい先日まで苦しんでいた、あの状態になったのね」
「おそらく、そうだ。リンの大槍を呑み込んだ後、あたしの聖杯がアイドル・アドミレーションを蓄えておくことを拒否して、自分の聖杯からオレンジ色のアドミレーションを排出したのだ。あれはとても苦しかった。あのような心や体の痛みを伴う気持ち悪さは経験したことがない」
「そうね。とても苦しくて辛かったよね。わたしも自分のコンクエストスキルをイドラ相手に使うときは、心や体の気持ち悪さをこらえながらイドラ・アドミレーションを蓄えているわ」
デュラハンは、キリアと会話しながら、不思議な思いに浸っていた。
デュラハンにとって、戦闘中に邪魔をされることは許しがたい行為だった。しかし、だからといって、自分の聖杯の中からキリアの心を排除したい、と思うことができなかった。
デュラハンは、彼女との会話を大切にしていた。彼女は聖杯浸食したデュラハンを責めず、無視せず、ちゃんと話を聴いてくれる。気の置けない仲間が一人もいないデュラハンは、そんな彼女をいつの間にか頼っていた。
そして、デュラハンは、いつのころからか、もしかすると、聖杯浸食したときからすでに彼女のことををわかりたいと思うようになっていた。
だから、たとえ、戦闘中に邪魔をされて、敗北し、苦悩の底に落とされたとしても、キリアの心を排除することは考えられなかった。
この状態は、とんでもなくいびつな状態なのだろうか? 自分は矛盾しているのだろうか? 何かを間違えてしまったのだろうか?
「どうかしたか? まだ気持ち悪さが残っているのか?」
キリアが心配そうな声音でデュラハンを心配する。会話の途中だったことを忘れていた。
「何でもない」
デュラハンは、キリアに余計な心配をされないように、物思いをやめる。そして、宙を踏みしめて、北に見えるレンヌ・ル・シャトーに向かって歩を進める。
「キリア、わかった。おまえの言うことは理解した。今度、戦闘中のふるまいについて、話し合おう」
「わかった」
デュラハンとキリアのいさかいは、終結した。
デュラハンは、キリアに対して、一つだけ隠したことがあった。
それはリンがキリアに向けた告白だった。
話そうとしていたつもりだった。しかし、なぜか腹立たしい気持ちがとても強くなってしまい、話すことはできなかった。
その原因もまったくわからなかった。
デュラハンがレンヌ・ル・シャトーに帰還した数日後。
山の頂上にあるノヴム・オルガヌム本拠点、都市の建物の中で最も大きく、最も高い場所にあるアヴニール大聖堂で、定期報告会が開催されることになった。
大聖堂の中に、百人ほどを収容可能な講堂がある。そこが定期報告会の会場だった。主な建築材は、磨き上げられた灰白色の大理石で、華美な装飾はなく、落ち着いた雰囲気を持っている。天井はドーム状に膨らんでおり、ドームの天頂部には、イドラの大釜と星をモチーフにした巨大なステンドグラスが輝いていた。講堂の正面と両側面には、壁と高さが同じ十字型のガラスがはめ込まれていた。太陽の光が十字型になって講堂に降り注いでいる。
講堂の内装は、正面中央に、ご神体の像が立っている。その前には、ご神体に祈りをささげる祭壇があった。そして、その祭壇を中心にした扇形の階段教室が広がっている。一人分のスペースを十分に確保した長机といすがあり、長机には大聖堂に似つかわしくない小型の情報端末が設置されていた。
デュラハンは講堂の中の右列の前から二番目のいすに座った。この講堂の席次はノヴム・オルガヌム内の序列に従っている。現在のデュラハンの序列は第七位だった。肘をつきながら、右側面の十字のガラス窓からレンヌ・ル・シャトーの白い街並みを見下ろす。白い外壁が淡く降り注ぐ太陽の光を反射し、まぶしく輝いていた。黒のアイドルやイドラの本拠地がある街にふさわしくなかったが、とてもきれいだった。
しかし、デュラハンは、そんな景色を見ても、まったく心が洗われなかった。
講堂は、すでに黒のアイドルや人型イドラで埋まっていた。彼女たちは、一様にノヴム・オルガヌムの制服である、黒と灰のモノトーンの修道服を着ていた。一部のものは、自分の個性を主張するように、アクセサリーを付けたり、制服を改造したりしていた。席に着いているものもいれば、近くの仲間といっしょに談笑しているものもいる。
そして、女性型の、半獣人や妖精のような姿の存在もいた。彼女たちは神話型イドラの形代だった。通常の姿では巨大すぎて会場に入れないため、そのような存在に姿を変えて、この報告会に出席するのだった。
開会の時間が近くなったとき、あたし以外の序列上位者が、会場に入ってきた。悠然と祭壇近くの自分たちの席に向かって、通路を歩いていく。彼女たちの他を圧倒する威容は、それまで騒がしかった会場を静まらせる。会場内の出席者全員が自分の席に着き、私語を慎んでいた。
序列上位者が着席した後、祭壇側の出入り口から、修道服の上に真っ黒なローブを羽織った女性が講堂に入ってきた。顔は微笑んでいたが、先ほどの序列上位者を上回る威容を発揮していた。
彼女がノヴム・オルガヌムのリーダーで、あたしの母親である、マリア・レイズだった。
マリアが、会場に集まった全員に、移動の労をねぎらった後、いよいよ開会の宣言がされた。
定期報告会が始まった。序列が下位のものから順に活動報告をしていく。彼女たちのほとんどが順調に活動し、大小さまざまだったが、達成、成功、実現という言葉で満たされていた。
いよいよ序列が一桁のものの報告となった。序列が一桁のものは、それぞれにノヴム・オルガヌムの重要案件が任されている。例えば、あたしはキャメロットを含めたアヴァロン・プロダクションに所属する白のアイドルの撃破とイドラ化を任されている。
序列九位と八位の二人は着実に成果を上げており、言うことのない報告であった。
デュラハンの憂鬱は頂点に達していた。前回の定期報告会と同じく、キャメロットに再び敗北してしまったことを告げなければならない。こんなアイドルは前代未聞だろう。恥ずかしさと情けなさで胸が張り裂けそうだった。
「では、デュラハン。報告を」
マリアがデュラハンの報告を促す。
マリアの言葉に過剰に反応する。本当は立ち上がりたくなかったが、誰かに胸倉をつかまれたように、無理やり立たされてしまった。
「はい。あたし、デュラハンは現在、アヴァロン・プロダクションの白のアイドル、主にキャメロットのイドラ化を担当しています……」
これ以上の言葉が出てこない。どうしよう。言いたくない。
言ってしまうと、あたしはどうなる? 序列の降格か? 懲罰か? 最悪の場合、捨てられることがあるかもしれない。それだけは嫌だ!
デュラハンが言い淀んでいると、周囲の黒のアイドルたちや神話型イドラたちがざわつき始める。彼女たちの一つひとつの言葉ははっきりとは聞き取れなかった。しかし、だからこそ、幻聴のようにあらゆる種類の蔑みの言葉が聞こえてきた。
「第七位なのに、大した成果を上げていない。あの場所、奪えるかもしれないわ」
「マリアから生まれた、名づけられた子どもなのに、たいしたことないんだ……」
「あの子、泣いてるの? うわ、ダサい」
デュラハンは顔を涙で濡らしたまま、顔を振り向けて、後ろや左に座る、黒のアイドルや神話型イドラたちを見た。全員の顔が影で隠れていた。その様子は、無表情で嘲り笑うように口が裂けている仮面をかぶっているようだった。それらの存在たちがひしめき合って、デュラハンを指さし、くすくすと笑いながらうごめいていた。まるで、世界のどこにも自分の居場所がないことを示すような光景だった。
「デュラハンは、先日、ザ・インダクションに乱入し、対戦後のキャメロットを襲撃しました。しかし、体にアクシデントが発生し、勝敗がつかずに帰還しています。」
えっ!
突然、左前の席に座る序列三位の黒のアイドル、ヴィヴィアン・サーペンドが立ち上がり、デュラハンが言えなかった言葉を代弁する。
蒼白な肌で、光の加減で青く見える、濡れるような黒髪をシニヨン風にまとめた彼女は、冷徹な表情で、デュラハンをにらむように見つめる。腕を体の前で組んで、右手の人差し指を立てて、一つひとつ順を追うようにデュラハンの失敗を並び立てる。
「彼女は、一年ほど前に、アヴァロン・プロダクションを襲撃しています。そのときは、キャメロットの新メンバーオーディションでした。我々が要注意人物に指定したリン・トライストを第三段階の直前まで、つまり黒のアイドル一歩手前までのイドラ化することに成功しましたが、リンの膨大なアイドル・アドミレーションによってイドラ化に失敗しています。そして、デュラハンは、リンを新メンバーとしたキャメロットに敗北しています」
ヴィヴィアンは一気に言い終えた。
デュラハンは、これまで感じていた恥ずかしさや情けなさではなく、不条理を感じていた。彼女をにらみ返し、「なんで!」と問う。
ヴィヴィアンは、即座に応えた。
「貴様が言いづらそうにしていたから、代わりに報告したまでだ。今、私が話したことは間違いない事実だ。さっさと自分の番を終わらせてくれ」
確かに、事実だ。しかし、あんまりな仕打ちだ。あたしの心をすべて否定されたようだった。
「おい、デュラハン。おまえ、もしかして、聖杯浸食に失敗したんじゃないか?」
今度は唐突に、自分の目の前に座る、序列第二位のモルガン・ヴォルフが後ろを振り返って、デュラハンに問う。
褐色の肌に、茶色に近い黒髪はウェーブをかけたショートボブだった。大きな瞳と大きな口が特徴的な彼女の顔は面白いもの見たような笑顔だったが、侮蔑の色が混じっていた。
「聖杯浸食の失敗……?」
「そうだよ。失敗だ。俺もおまえの敗北の状況は知っている。おまえの活動の不安定さからそう見えるんだ。浸食したとき、相手の聖杯を割ったか? 融合したか? つながったか? 手段は問わないが、聖杯と疑似聖杯を一つにしないとそうなるんだよ」
デュラハンは、どきりとした。そんなことしていない。そんなこと聞いたことがない……。モルガンが状況を確認するように再び問う。
「キリア……だったか? 浸食した相手がまだ聖杯の中にいるんじゃないか?」
「い……、いる」
「そうか、なら、その活動の不安定さは仕方ねぇな。そんなやつ、前もいたが、いつの間にかどこかに行ったな」
「どうすれば……、いいの?」
「あぁ? 知らねぇよ、そんなこと。普通に聖杯浸食したら、聖杯が一つになるんだ。今からでも試してみたらいいんじゃねぇの?」
周囲でうごめく黒い仮面たちの口がさらに吊り上がる。そして、何事かを話し始めてざわつく。また、幻聴が聞こえてきた。
「傑作だわ! あいつ、聖杯浸食に失敗していたんだ!」
「あんなに動揺しちゃって。今までわからなかったのかしら」
失敗。聖杯浸食の失敗。あたしの失敗。……あたしが失敗? あたしは失敗作?
デュラハンは茫然とする。比喩でも何でもなく、目の前が真っ暗になった。さっきまで明るかった講堂の中が突然暗くなった。あたしの道が途絶えてしまった。
全身の力が抜け、いすに崩れ落ちる。なんであたしだけが……。知らなかった。誰も教えてくれなかった。生まれてすぐ、イドラの大釜に向かわされた。だから……。
「静粛に」
そのとき、優しい雰囲気だが、低く重々しい畏れを感じる声が講堂の中に響き渡る。その瞬間に講堂内のざわめきはなくなっていた。
マリアがデュラハンに直接語り掛けた。
「デュラハン、顔を上げなさい」
デュラハンは、机に臥せっていた顔を跳ね上げる。期待していた。マリアが助けてくれることを。しかし、マリアの表情を見て、期待がかなわなかったことを悟った。
マリアは、あきれたような、聞き分けのない面倒な子を相手にするような表情だった。
デュラハンは縮こまり、祈るように手を組み、ぽろぽろと涙を流しながら、罰の回避を懇願するように、「ごめんなさい」とマリアに謝った。
マリアは暗い水底のような笑顔を見せ、「許します」と告げる。
マリアの吸い込まれるような漆黒の瞳に、見つめられながら、デュラハンは次の言葉を待った。
彼女は瞳と同じ色をしたストレートの髪をかき上げて、デュラハンに語り掛ける。
「あなたは、私が大きなコストをかけて、苦労して産んだ大事な子ども。だから、大切に思っています。そして、私たちノヴム・オルガヌムの『目的』を果たすために必要な人材です。本当に無事でよかった」
デュラハンは、マリアにまだ愛されていることを確認できて安心した。自分の心が落ち着いていくのがわかる。周囲のざわめき、ヴィヴィアンに対する憤り、モルガンの指摘への動揺がすうっと消えていった。しかし、聖杯浸食に失敗しているという不安は消えてくれなかった。
マリアは最後にデュラハンに対して、今後の活動に関してコメントした。
「早急に、キリアの聖杯と一つになりなさい。そして、キャメロットの四人のイドラ化して、黒のアイドルにするのです。彼女たちの才能はとても素晴らしい。特に先ほどヴィヴィアンの話に出た、リン・トライストです。彼女のアドミレーション生成力は何にも代えがたい最上の才能です」
キャメロットのことを話すマリアは、贈り物を待ち焦がれる子どものようだった。デュラハンはその様子に不安を覚えながら、マリアに尋ねた。
「キリアの聖杯と一つになるには、どうしたらいのですか……?」
「私にもわかりませんが……、その事象には興味があるので、少し調べてみましょう」
マリアは顔を講堂の奥に向け、声を張って全員に向けてアナウンスする。
「聖杯浸食について、何か特別なことをご存知の方は、この会の後、私に教えてください」
講堂の全体から「はい」と返事があり、報告会は次の序列第六位の発表に続いていく。
デュラハンは全身の力が抜け、机といすにうなだれる。「キリアの聖杯と一致できていない」という新たな不安が急速に心の中を占めていった。
†
マリアの言葉が終わる。これで、デュラハンの報告は終わりだった。
キリアは、聖杯の中に用意された大きなスクリーンで、デュラハンの視覚と聴覚を感じていた。普段の彼女は無鉄砲で、独善的だが、他の黒のアイドルといっしょにいるときはこれほど印象が違うことに、とても驚いた。
そして、デュラハンは、自分の失敗をマリアに許され、大切に思われ、無事を喜んでもらったことに安心しているようだった。
しかし、キリアは、先ほどのマリアの言葉に違和感を覚えていた。
上手く表現できないが、理屈っぽくて、作られているような……。
デュラハンは、それで本当に安心できているのだろうか?
安心できているのだとしたら、とても悲しい……。
そして、同時に、キリアはマリアに対する怒りも感じていた。デュラハンを口先の言葉で操作することに対する怒りだろうか?
キリアは、この悲しみと怒りに対して、既視感を覚えた。いつなのか、どこなのか。今の感情が強すぎて、特定することはできなかった。
†
聖杯を一つにする。
この言葉がデュラハンの心から離れてくれない。自分の席で一人、ぐるぐると解決できない問題を抱え、悩む苦しみに浸っていた。すると、がやがやと騒がしくなった。顔を上げると、参加者が講堂から体質を始めていた。いつの間にか、定期報告会は終わっていたのだ。
報告のとき、黙り込み、ヴィヴィアンが代わりに自分の敗北の事実を報告され、マリアに対して情けない姿で泣きながら謝る姿を見られた。屈辱の仕打ちばかりで、立ち上がれないほど辛かった。
そして、モルガンから聖杯が一つではないと指摘された。
あたしは中途半端な黒のアイドルなのだ。もしも、あのとき、ザ・インダクションでキャメロットに勝てていたら、今日、こんな思いをしなかっただろう。勝てなかった原因は、キリアが目覚めて、あたしの邪魔をしたからだ。そして、なぜキリアが目覚めたかといえば、あたしの聖杯浸食のやり方がまずかったからだ。あたしの疑似聖杯とキリアの聖杯が二つ残っていることで、キリアが自由に動くことができているのだ。では、どうやって一つにすれば……。
デュラハンの席の近くをヴィヴィアンとモルガンが通る。
「おい、デュラハン。終わったぜ。早く出るぞ」
モルガンが声をかける。しかし、デュラハンは、反応ができない。すると、ヴィヴィアン厳しく冷たい口調で追い打ちをかける。
「さっさと立って、退出しなさい。情けない姿を見せないで!」
キリアは、顔を上げ、ヴィヴィアンを憎しみを込めた目で見返す。
ヴィヴィアンはその目に「何よ?」と反応し、デュラハンに対してさらに言葉を浴びせようとしたとき、モルガンが割って入り、「二人とも気にしすぎだ」と言って、ヴィヴィアンを引っ張るように講堂の出入り口に向かっていった。
デュラハンは、子どものようにすねる自分を情けなく感じていた。耐えられなくなり、思わず、祭壇の方を見る。
マリア……。
しかし、祭壇には、もうマリアの姿はなかった。すでに退出した後だった。
講堂の中が静まり返る。
もう誰もいないようだった。デュラハンは再び机に突っ伏して、悩み始める。
しかし、静かな場所で、じっとしていると、いろいろな感覚が悩みを妨げた。
講堂の外から、鳥の鳴き声が聞こえてくる。
風が窓をたたく音、近くにある滝から水が落ちる音も聞こえる。
机やいすの乾いた木材のにおい、大理石から漂うひんやりした冷気。
横顔と背中が温かい。十字の窓から差し込んだ西日だろう。
これらの感覚が「ある」ことに気づいたデュラハンは、もう一つ奇妙なことに気づいた。
「聖杯を一つにする」という悩みが「ある」ことに気づいた。
当たり前だった。しかし、なぜか心が軽くなった気がした。あたしは悩みじゃない。あたしは問題じゃない。ここにある悩みが問題なんだ。
「デュラハン、大丈夫か?」
「キリア……。ああ、大丈夫だ」
一瞬だけ……。キリアがいなくなればと思った。そうすれば聖杯は一つだ。問題はなくなる。しかし、それは違う。あたしはそうしたいと望んでいない。
「今の報告会、聴いていたよ」
「そう……」
「今日のデュラハンの苦しみの責任は、わたしにもあると思うといたたまれなかった」
「えっ?」
「わたしもいっしょに反論したかった。怒りたかった。泣きたかった」
デュラハンは、キリアがそんなふうに思ってくれているとは思ってもみなかった。デュラハンはうつむいていた顔を上げる。
デュラハンの机の前に誰かがいた。
ゆっくりと、体を起こし、その姿を確認する。
そこには、まぶしく差し込む西日を反射して、きらきらと輝くプラチナブロンドの髪がとても美しい女性が立っていた。
とても身長が高かった。広い肩幅、しっかりした体幹、長い脚。そして、整った顔立ち。
その女性は、キリアだった。
キリアは、デュラハンの肩に手をかけ、優しく声をかける。
「デュラハン、外に出よう。少し歩かないか?」
なぜか、鼻がつんとして、涙が込み上げてきた。でも悲しいのではない。嬉しいのだ。デュラハンは泣き笑いの顔で、肩にかけられたキリアの手を取り、うなずいた。
次の瞬間、キリアの姿は消えていた。
再び、心の中からキリアの声が聞こえてくる。
「さあ、行こう。きっと気分が楽になるよ」
デュラハンは、もう一度うなずく。
いすから立ち上がり、講堂の出入り口に向かった。
アヴニール大聖堂から出て、ロープウェーに乗って、下山する。ロープウェー発着場の真正面に、大通りが見える。大通りはゆるやかに下っていて、地平線の先には、イドラの大釜の真っ黒な水面
が広がっていた。
デュラハンは行く当てを考えず、ロープウェーを降りて最初に目に入ったその大通りを、イドラの大釜の方向へ歩き出した。
デュラハンもキリアも互いに声をかけることはなかった。デュラハンは無言のまま歩き続けていた。
白い煉瓦を敷き詰めて舗装された歩道が後ろへ流れていく。その道は、暮れなずむ空を写し取ったようなオレンジ色だった。周囲の建物の白い外壁もオレンジ色で染まっていた。
とてもまぶしくて、目を反らす。すると、自分の左斜め前に、長くながく伸びる自分の影を見つけた。途端に恥ずかしくなり、うつむき、背中を丸める。影が少しでも短くなるように。
そんなふうに数十分歩いていると、いつの間にかイドラの大釜を臨む展望台に着いていた。
デュラハンは、展望台の石でできた柵に寄りかかり、そこからの景色をぼうっと眺める。
展望台の下にはレンヌ・ル・シャトーの街並みが続いている。白い建物がひしめきながら少しずつ外に広がっているようだった。夕日に照らされて黄金色に輝く街並み。そのパノラマは息をのむほどの光景だった。
しかし、そんな絶景でも、そのはるか先にあるイドラの大釜にはかなわない。首を横に振らないと全体が見えない黒色の水平線が、足をすくませる。
イドラの大釜の方の空が、次第に濃紺色に染まっていく。夜が迫ってきた。それは、イドラの大釜からあふれ出た黒いアドミレーションが空を覆っているようだった。
デュラハンは、心の中にいるキリアに話しかける。
「どうして、こんなふうになっちゃったんだろう……」
「こんなふうって?」
キリアの反応に対して、少し怒ったような口調で、デュラハンが自分の感情を説明する。
「そんなの決まっているじゃない! 心と体の不調、そして、それでキャメロットの戦いで敗北が続いていることよ! わかるでしょ!」
「そうだね。体の不調とキャメロットに負け続けていることだったね。ごめんなさい」
デュラハンは、気持ちを落ち着けて話を再開する。
「あのときからだ。デビューしたばかりのリンに敗北した後から、体や心がうまく動かないことが多くなったんだ」
デュラハンは、苦々しい気持ちになり、顔をゆがめてさらに続ける。
「敗北のたびに、思い悩んで反省し、自分を戒めたり、今日みたいに他の黒のアイドルたちの嘲笑の的になったりして……。こんなに辛い思いをするのは、もう嫌だ」
キリアは再びデュラハンに問いかける。
「デュラハン……。その辛さを教えてくれないか? どんなふうに辛いんだ? どれくらい大きいんだ?」
「どんなふうって……」
デュラハンは戸惑いながら、言葉を探しながら、ゆっくりと答えていく。
「イライラして、みじめな気持ち、落ち着かない感じ……。そう、マリアの傍からはじき出されてしまうという焦り。自分の安心できる居場所がなくなって、この世の全てから隔絶される感覚。自分で自分の存在を消し去らないといけないと思ってしまう……」
「自分の居場所がなくなってしまいそうで、落ち着かない。自分で自分を消したくなるほどみじめな気持ち……」
「そうだよ」
「あのとき……、デビューしたばかりのリンに敗北する前はそんな気持ちになることはなかったのか?」
「それは、なかった」
デュラハンは、目の前の光景よりもさらに先を見るような目で、昔を思い出しながら、語り始める。
「昔は、イドラの大釜の守護をしていたときは、神話型イドラと模擬戦をしたり、迷い込んできた白のアイドルと戦ったりしていた。そのときは負けることなんてなかったよ。白のアイドルを撃退した後、そいつを見下ろす瞬間がとても気持ち良かったんだ。すっとした気分になるんだ」
キリアの反応が遅い。二年前のことを思い出しているのだろうか。あのとき、キリアの仲間を自分の大剣で刺し貫いたとき、同じ気持ちになった。しかし、仲間であるキリアの気持ちは晴れやかになんてなれないだろう。
ようやく、キリアが次の言葉を話す。
「……、デュラハン。自分が倒した白のアイドルを見下ろすと、なぜ、すっとした気分になるんだ?」
デュラハンは、違和感を覚えた。キリアの言葉は怒りに染まっていなかった。先ほどまでと同じ調子で優しく尋ねている。
「キリア、怒っていないのか? あたしの……、その、白のアイドルを見下ろすっていうことに対して……」
「うん。それに対する感情は、脇に置いているから。今は、デュラハンの話をちゃんと聴きたい」
「そう……、なんだ」
デュラハンは、なぜか、温かい気持ちになった。そして、キリアにもっと話したい気持ちにもなった。まずは、さっきのキリアの質問に答えよう。
「白のアイドルを見下ろすと……、自分が倒した存在が、あたしを見上げて、評価しているように感じる。それは……、自分の価値が示されたという証明みたいだった。安心して、わだかまりがとけて、晴れやかな気分になっていた」
「そうか。自分の価値を示すことができるから、すっとする。ということか」
「そう、なのかもしれない。しかし、キリアに聖杯浸食してからは生活が変わった。マリアや他の黒のアイドルから評価される対象になったのだ。それから、だんだんと現実が見えてきた。自分の期待通りの評価をしてくれる存在はいないということがわかってきた。そして、気づいたんだ。今まで自分が倒した存在は、あたしを見ていない。だから、評価している訳ではなかったということを」
デュラハンはそこまで言い切った後、眼下に広がる街並みを眺める。いつの間にか、夕日は沈み、夜となっていた。闇の中に、建物の白さがぼうっと浮かび、柔らかい灯りがぽつぽつとともっている。
デュラハンは夜の寒さと闇の中にいる心細さに任せて、キリアに語り掛ける。
「誰もあたしを見ていない。でも、キリアはあたしに負けても、あたしを見続けて、語り掛けてくれる……。キリアと語ることができるのが、今のあたしにとって、唯一の救いかもしれない。感謝している。今もあたしの話を聴いてくれてうれしく思っているんだ」
「デュラハン……、わたしは、あなたが苦しんでいる体や心の不調の原因なのだろう? それなのに、そう思ってくれるのか?」
デュラハンは迷いなく答える。
「ああ。間違いなく、そう思っているよ。あたしの不調の原因は、あの報告会でモルガンが話していた、あたしが聖杯浸食に失敗してしまって、聖杯が一つになっていないことだ。だから、キリアを恨むことはない。あたしが何とかすることだ」
「そっか……。ありがとう」
「ありがとうって、何かおかしい気がするけど」
「そうでもないの。わたしは、その聖杯浸食で強制的に別の生き方を選ばされたわ。これまで、あなたに対して憎しみ半分、あきらめ半分で接していた。でも、今日、あなたといろんなことを話してみて、もっとあなたに近づいてみないといけないって思えるようになったの。だから、そう思わせてくれて、ありがとうってこと」
キリアとここまで会話してきても、自分が抱える辛く苦しい気持ちは、どうにもなっていないことがわかっていた。しかし、デュラハンは彼女との対話に期待していた。何かが変わる。そんな予感がしていた。