第九章 「わたしの憧れの人」
日付が変わり、夜が深まった頃、デュラハンはイドラの大釜に到着していた。
見上げると、樹木や建築物、雲も全くない、広大な夜空に、大きな満月が浮かんでいた。展望台で見た満月とまったく同じはずなのに、ここで見る満月はとても大きく存在感があった。まるで、このイドラの大釜にふたをするかのように、地上に迫ってくるようだった。
デュラハンは湖面に視線を落とす。夜空と見分けのつかないくらい真っ暗だった。大きな月が湖面に映っていることで、そこに湖があることがようやくわかるほどだった。
湖面に映る月の方へ歩き出す。数十歩歩いたところで、湖に足を踏み入れる。着ている服が濡れることにも構わずに、とろりとした液体の感触に足を取られながら、ざば、ざば、と沖の方へ進む。やがて、腰のあたりまで液体化したイドラ・アドミレーションに浸かる。そこで足を止め、イドラ・アドミレーションの浮力に体全体を預けるようにして湖面に横たわった。
横たわったまま上空を見上げるデュラハン。視界は、真っ暗に澄み切った夜空と大きな月だけとなった。ぽちゃ、ぱちゃ、どぷん、と湖のイドラ・アドミレーションが跳ねる音が耳をくすぐる。湖面を吹き抜ける夜風が周囲の乾燥した空気を運んでくる。
デュラハンは、目を閉じ、手を胸の上で組み、瞑想を始める。まぶたを透ける月の光、水音、夜風のにおい。そして、自分がここで浮かんでいる。周囲の自然と自分の存在を一体化するように、すべての感覚を受容していった。
受容するたびに、自分の意識が自分の中に吸い込まれていく感覚がする。現実世界の五感やそこにいるという実感は、そこに置き忘れてしまったように遠のいていった。
デュラハンは、聖杯への移動を開始した。
目を開くと、そこは先ほどよりも真っ暗な空間だった。夜の闇ではなく、閉じた空間の闇だった。デュラハンはそれを確認して、無事に聖杯の中に降り立ったことを確認した。
視線をめぐらしてみると、遠く方に、スポットライトで円錐の形で照らされた場所があった。
あそこがキリアのいる場所だ。二年前の聖杯浸食のときに、一度あそこで会っている。それを思い出したデュラハンはスポットライトに向かって、歩き始めた。
歩き始めてわかったことがあった。どうやら自分は輝化しているらしい。鎧の各パーツ同士や大剣の鞘と腰当がぶつかる音、足の防具が床とぶつかる音が、空間の中に響いていた。また、その響き方から、この聖杯の中は円形ドーム状になっていて、自分は今、その端に位置していることもわかった。
あのスポットライトの見え方で、それほど遠くではないと思った。しかし、自分の遠近感がくるっているのだろうか。なかなか到達できなかった。聖杯浸食のときはこれほど時間がかからなかったはずだった。何が起こっているのだろう。
デュラハンは、体感時間で三十分ほどを要して、スポットライトの元にようやくたどり着いた。そこには、予想通りにキリアがいた。これから行うキリアとの対話で自分の悩みが解決すると思えば気にならないほど短い時間だった。
キリアは、聖杯浸食の直後と同じく、鎖でがんじがらめにされて吊るされていた。鎖は空中から出現し、キリアの両腕、両脚、腰に巻き付いている。
「聖杯侵食のときと全く同じ状態だな。窮屈じゃないか?」
デュラハンが、そう問いかけた後、その鎖に手を触れた。
すると、キリアを縛っていた五本の鎖が消滅する。キリアが鎖から解放され、どさりと床に崩れ落ちる。デュラハンはキリアに手を貸して、立たせる。
「デュラハン、ありがとう。少し窮屈だけど、もう慣れたよ」
そう答えたキリアは鎖につながれていた部分をさすりながら、これまでの窮屈さを跳ね返すような伸びをする。
キリアも輝化武装しているが、その鎧は袈裟懸けに両断され、ところどころにひび割れがあり、兜もなくなっていた。鎧の下の服も同様に袈裟懸けに裂かれ、肌が露出していた。しかし、その肌には傷痕は残っていなかった。
キリアは、なぜ鎧や服がみすぼらしいままなのだろうか。ここは現実世界ではない。きっと自分の思い一つで着ているものを変えることができるのではないか。
一方のデュラハンの姿は、まったく不足のない完全武装の状態だった。聖杯浸食によって得たキリアの体に、自分の鎧、脱いだ兜、剣と盾。すべての装備がぴかぴかに磨かれていた。
キリアの姿は、二年前の闘いを思い出させる。これからじっくりと対話するには、少しやりにくさを感じてしまう。
「キリア、着ているものは変えられないのか?」
キリアは申し訳なさそうにして答える。
「すまない。この二年間、ずっとこのままなんだ」
「輝化武装だけでもアドミレーションに戻すことができそうだけど……」
「何度も試した。しかし、できなかった。どうやら、ここでのわたしの姿は、これで固定されているらしい。こんなぼろぼろの鎧と服でも大切なのかもしれない」
デュラハンは、今まとっている輝化武装をイドラ・アドミレーションに戻せるか、試す。
「……、あたしもこの輝化武装を解けないみたいだ」
「そうか。お互いこのままの姿で対話しなければならないようだな。こんな姿ではちょっと話しにくいな」
「ああ……」
デュラハンは、気持ちを切り替えて、周囲を見回す。自分の左後ろに目を向けたとき、新たな円錐形のスポットライトが照らされた。その下には、二脚のいすが並んでいた。
細身だが、重厚さを感じる堅そうな木材でできた脚。背もたれと座面には、体を包み込んでくれそうな布張りのクッションがあった。互いの手や足が当たらないくらいに離され、百二十度の状態で向かい合っている。
そして、いすに座った時、互いの視線が交差する場所に、デュラハンの背丈ほどの書割が二枚、本を開いたようにして立っていた。書割は真っ白だった。
対話にぴったりの環境だ。キリアや自分の衣装に自由はないのに、こういうセットはしっかりしている。デュラハンはちぐはぐな状況に戸惑いながら、キリアを顔と視線で、向こうの二脚のいすの方に誘う。
キリアに、奥の方のいすに座るように促す。ところどころが壊れた鎧がこすれる不快な音に驚き、わずらわしそうにしながら、ようやく着席した。
デュラハンも着席する。キリアを右に見る形だった。
互いに探るように様子を伺う。居づらさと恥ずかしさで視線が泳ぐ。
二人の間に沈黙が横たわる……。
沈黙に耐えかねて、デュラハンがキリアに切り出した。
「早速、対話を始めよう」
「わかった」
キリアの表情が真剣なものになり、デュラハンに体を向けるように、いすに座り直した。
「あたしの課題を解決するため、キリアの過去や、キリア自身のことをいろいろと教えてくれ。よろしく頼む」
デュラハンとキリアの対話が始まった。
†
キリアは、デュラハンの様子を確認する。とても落ち着いていて、わたしの顔を柔らかく見つめている。どっしりとした印象で、少し前のめりになっていて、わたしの話をちゃんと受け止めてもらえそうだ。
これなら安心して話せる。そう思える相手だった。
「キリア、最初に聴きたいことは、おまえが子供の頃に憧れていた人物だ。誰だったか覚えているか?」
「それは、マリアだ。トップアイドルまで上り詰めた白のアイドル時代のマリア・レイズだよ」
キリアは、心の中で付け加える。
ノヴム・オルガヌムの首魁である、今の、マリア・レイズではない。
「そうか! おまえもマリアに憧れていたときがあったのか。どんなふうに憧れていたんだ?」
どんなふうに……。
自分の心の中から、少しずつ浮かび上がってくる言葉を大切にすくい上げるように、一つひとつ丁寧に表現していく。
「トップアイドル、マリア・レイズ。世界中が知る正義の味方。凛々しい姿。どんな場所でも笑顔を欠かさない。きらきら輝いて、周りを明るくする……。きれいで、頼れる……。そう、彼女は、わたしの憧れのお姉さんだった」
そのとき、目の前の真っ白だった書割が、淡くひかり始めた。数秒の発光のあと、書割には、トップアイドル時代のマリアの姿が写真のようにリアルに描かれていた。
今のマリアの雰囲気とは明らかに隔たりがある姿だった。興行のライブの一場面を切り取って絵だった。はじけるような笑顔で、はちきれそうな若さを体いっぱいにダンスで表現していた。
このときのマリアと今のマリアの間で何があったのだろうか……。
いや、これは今、考えることではない。
「この書割、あたしたちの対話をサポートしてくれるみたいだ。それにしても、これが白のアイドル時代のマリアか。この絵だけでも強さが伝わってくる気がするな」
デュラハンは、書割に描かれたマリアをしげしげと観察する。ひとしきり眺めた後、キリアに質問した。
「凛々しいから、笑顔を欠かさないから、きらきら輝いて、周りを明るくするから、きれいで頼れるから、憧れるのか?」
デュラハンに改めて問われると自信がなくなる。わたしはマリアの何に憧れていたのだろう。
キリアは、目を閉じ、じっと瞑想し、自分の考え方に合う言葉を探す。
十数秒の沈黙のあと、自分の言葉を見つけた。
「それは違う。上手く言えないのだが……、わたしは、テレビなどでマリアの姿を見るたびに、『彼女には追い付けない。大人びていて、手が届く気が全くしない』と思っていた。わたしの憧れはこの気持ちなのかもしれない」
「追いつけない……。手が届かない……。手が届かないマリアに追いつきたいと思うのが、キリアの憧れ、なのだろうか」
キリアは、デュラハンの思いがけない言葉に息を呑む。
「そうだったのかもしれない……。はっきりとわかる、マリアの手の届かなさに憧れていたのは、それがわたしにとっての目標だったからなのかもしれない。でも、そのころは憧れ続けることしかできなかった。根拠などなく、憧れ続けていたらマリアのようになれる、とそう思っていた気がする」
自分の発した言葉が、次の言葉を呼んできた。キリアは続けて語る。
「マリアに憧れて、ライブやテレビ、CDなど、できる限り追いかけ続けていた。しかし、ある日、突然の結婚宣言をして引退することになったんだ。ものすごくショックだった……」
書割が再び淡くひかる。今度は、引退会見で、幸せそうに結婚のことを語るマリアの笑顔だった。
「そのショックとは、怒り、なのか? 悲しみ、なのか?」
「……、くやしさ、が一番しっくりと合う表現だと思う。憧れの人が、本当に手の届かないところに行ってしまった。その事実が残念だった。アイドル界の頂点を極めて、すべてを手に入れた後、そのすべてを捨てた。どうして、アイドルとしての成功を捨てることができたのか。子どもの頃は、不思議でしょうがなかった」
デュラハンは、間髪を入れず、質問する。
「今は不思議に思っていないのか?」
「ああ。今は不思議に思っていない。納得しているよ。引退会見のときのマリアの映像を見たことがあるんだ。その写真の中のマリアは、愛する人のことを思いながら一言ひとことを幸せそうに話していた。きっと、マリアにとって、愛する人と結婚することは、アイドルとしての成功や名声以上に価値があることだったんじゃないかな」
「そのマリアの生き方や価値観はどう思う?」
「そのような大きな決断ができるマリアは、とてもうらやましい。自分の人生で一番大事なものは何か。それがはっきりしていて、迷わずそれに突き進めることに憧れる」
キリアは、今の自分の言葉に気づく。これだった。
「そうだ。これだ! マリアに対するわたしの憧れは、『明確な目的に向かって、迷わず進んでいること』だったんだ!」
キリアはうれしくなって、デュラハンの方を見る。自然と笑顔になっていた。
デュラハンも、優しい笑顔で祝福するように、キリアの感情を受け止めていた。
そして、キリアに問いかけた。
「キリアの人生で、一番大事なものは、まだはっきりしていないのか?」
「そう、だな……。まだはっきりしていない」
キリアは、しぼむような気分になり、恥ずかしさに耐えて、デュラハンに答える。そして、その恥ずかしさを隠すようにデュラハンにも同じ質問をする。
「デュラハンの一番大事なものはあるのか?」
「ある。それは、マリアだ。マリアの目的のために戦い、マリアに評価されて愛されることが私の人生で一番大切なことだ」
キリアは、これまで見てきたデュラハンらしい、と答えに納得していた。
デュラハンの人生で一番大事なものは、自分の外にあったようだ。
それでは、わたしの人生で一番大事なものはどこにあるだろうか……。
デュラハンが、少し話題を変えてキリアに語り掛ける。
「キリアがアイドルとして活躍していたとき、マリアへの憧れに追いつけたのだろうか?」
憧れに追いつく……?
わたしのアイドル活動は……。
「わたしのアイドル活動は、そんな感じじゃなかった。子どもの頃の憧れとは全く違っていた」
デュラハンは少し驚いた表情になって、キリアに確認する。
「どう……、違っていたんだ?」
キリアは、上手く表現できないもどかしさ感じた。自然と身振り手振りが増える。手や腕、体を使いながら、少しずつ自分の気持ちを吐き出していく。
「子どもの頃に憧れたマリアは、自分がアイドルであることに迷っていなかった。それは、なんというか……、自分が、アイドルである自分を疑わず、他人もアイドルである自分を疑わない。そんな環境で生まれてくる前向きな力を燃やして、輝いていた」
書割が再び変化する。今度はトップアイドル時代のキリアの姿だった。
うっ……。
キリアは自分の姿が書割に映された瞬間、顔を伏せた。どうしても当時の、そして、今の自分の顔、姿を見たくない。まして、自分がトップアイドルのときに感じていた嫌な気持ちを語ろうというときになんて……。もっと気分が沈んでくる。
キリアは続けて語る。
「わたしも、子どもの頃と同じようにマリアと同じようになりたかった。だけど! そうはならなかった。わたしは、いろいろな雑念を燃やして、何とか輝きを維持していたんだ!」
わたしがトップアイドルだったときのことを語り始めた途端に、そのときの苦しさがよみがえってきた。のどに引っかかる声を、吐き出すように、デュラハンにぶつけるように発する。あのとき、わたしはアイドルであることを「維持」していたんだ……。
「キリア……、とても息苦しそうだ。維持しているときは苦しかったんだな……」
キリアは、デュラハンの言葉にどきりとする。
わたしは、苦しいなんて一言も言っていないのに、なんで……?
でも、うれしさが涙となって込み上げてくる。
鼻がつんとする感覚。
デュラハンが続けて問いかける。
「雑念ってどんなものだったんだ?」
わたしが燃やしていた雑念……。
自分の心のありかを探すように、胸に手を当てる。そのとき、鎧の亀裂と、服の破れに手が触れた。とてもざらざらして、不快だった。心の中から同じようなものがないか確認する。それを言葉にして、勇気をもってデュラハンに答える。
キリアはまっすぐデュラハンを見つめる。
「それは……、わたしを、もっと見て、もっと評価して、もっと認めて、もっと承認して、もっと称賛して! もっと、もっと、もっと! 嫉妬、不満、焦り、痛み、恨み、苦しみ、あきらめ……。そんな感情を、がまんの力で抑え込み、小さく丸めて、それを燃やして……、自分の輝く力に変えていた。きっと、そんな燃料を燃やして得ることができる輝きはくすんでいたはずだよ……。だから、子どもの頃のマリアへの憧れは全く充たせていない。それほど、マリアの純粋な輝きとわたしのくすんだ輝きには、違いがあるんだ」
デュラハンをまっすぐ見つめていた視界がにじむ。それを理解しながら、さらに答える。
「わたしは、白のアイドルだったのかな……。まるで、黒のアイドルのようなイドラ・アドミレーションを発していたんじゃないかな。そんな人間がトップアイドルとして活動していたんだ。オーディエンスを騙しているのと同じだ……。罪悪感を覚えながらステージに立っていたんだ……。でも、こんな自分でも、アイドルとして誰かの命や生活を守れていたことが唯一の救いだった。だから立ち続けることができた……」
キリアは、こらえきれなくなった。せきを切ったように感情があふれ出した。留めることができなかった。
自分の中で渦巻く、憤り、やるせなさ、悲しみ、恥ずかしさを、デュラハンに向かって、涙と言葉と体で、懸命に表現した。自分の感情からむき出した声は、この暗く静かな空間に響き渡る。それは、まるで、自分の感情がこの空間に溶け出していくようだった。
キリアは落ち着きを取り戻した。涙で濡れる頬をふき、のどの調子を整える。
デュラハンは、キリアが落ち着くのをじっと待っていてくれた。手持ちぶさたに待つのではなく、少しうつむいて、わたしのとりとめのない話をしっかり聴いてくれているようだった。
心強かった。
「キリア」
デュラハンが優しく尋ねてくる。
「これまでのアイドル活動の中で、もっと認めて、と一番感じたのはどんなときだったの?」
「ジュリアといっしょにいるときだった」
キリアは、これほど速く答えることができると思わず、少し驚いていた。
「ジュリアとは、キリアのプロデューサーのジュリアのこと?」
「そう」
デュラハンに向き合う視界の端で、書割がジュリアの姿を映し出すのを確認した。切れ長の目、透明感のある肌、黒く見えるほど濃い青色の髪。腕を組んで遠くを見つめ、何かを考えている様子だった。
自然と目が書割の方に向いてしまうが、無理やりにデュラハンの方に戻した。
「わたしは、ジュリアにアイドルとしてスカウトされたんだ。ジュリアは、わたしのことを逸材と呼び、求めてくれた。すごくうれしかった。でも、アイドルになることをあの人たちが許すはずがないと思っていた。だから、憧れだったアイドルになることは、あきらめるしかない、そう思っていた」
キリアはそのときの気持ちを思い出すと、また心がふるえた。うれしかったり、悲しかったり、悔しかったりする。何が何だかわからなかった。
「でも、ジュリアは、わたしといっしょにあの人たちを説得してくれたんだ。そのおかげで、わたしはアイドルになれた……」
「キリアにとって、ジュリアは恩人だったんだね」
「そう……、だね。わたしはジュリアにとても感謝していた。アイドルにしてくれたジュリアのために、一生懸命にアイドル活動をしたよ。アイドルランクは、あっという間に『フォース』になって、キャメロットのリーダーも任されるようになった……」
でも、そこまでだった。どうしてそうなったのか、今でもまったくわからなかった。暗く悲しい気持ちになった。
「すごく充実していたよ。でも、この頃からジュリアがわたしを見てくれなくなったの。……、興味がなくなったのかな。わたしのプロデューサーからも外れていたわ」
「そんな……、何があったの?」
顔を伏せ、憤りを床にぶつけるように、言葉を発する。
「わからないの! 理由なんて教えてくれなかった。そのときは、尋ねる勇気もなかった!」
「そうだったのか。どうしたらよいのか、わからないよな」
「うん……。そんなときでも、アイドル活動は続いていた。ISCIの要職に就いたジュリアからの仕事も着実にこなして、ついに、トップアイドルになった。しかし、わたしの気持ちはランクとは逆に沈んでいったわ。ジュリアに期待された通りの目標を達成したのに……、まったくわたしを見てくれなくなった。ISCIのカリスにも所属し、世界中のオーディエンスからの感謝や称賛があろうとも、その沈んだ気持ちが戻ることはなかったわ」
キリアはジュリアに対する気持ちを吐き出し切った、と思っていた。しかし、話したいことは、まだ心の中にあったようだ。突き動かされるように、再び話し始める。
「二年前、わたしとジュリアのすれ違いが、はっきりとわかったときがあったの……」
書割が淡くひかる。キリアとジュリアが互いにただならぬ顔で向かい合っていた。
「わたしは、ジュリアのもとに出向いて、直接、自分の不満をぶつけたわ。『なんで、わたしを見てくれないの!』ってまくし立てたの。わたしは、がまんするのが普通で、あんなふうに人にせまることなんて、初めてだった。」
「がまんできなかったんだな……」
「そう、だね」
「ジュリアは、どう答えたんだ?」
キリアは額に力が入るのを感じた。自分でも、表情が険しくなっているのがわかる。
「わたしの言葉は、ジュリアに届かなかったんだ。ジュリアは、わたしの言葉を幼稚だと笑い、問題にしなかった。そして、『もっとトップアイドルとしての自覚を持て』と突き放したんだ」
デュラハンは、キリアの言葉を受け止めた瞬間、戸惑うような表情をした。キリアは、ジュリアに突き放されたときに、デュラハンのような表情をしていたかもしれない、と思った。
「ジュリアのために、がんばってきたのに……。どうしてこんなことになったのだろう。まったく理解できなかった。ジュリアに否定されたら、アイドルとしての『わたし』が揺らいだ。アイドルとなったのは間違いだったのかもしれない……。自分がここまで走ってきた道はあっているのだろうか。考えれば考えるほど不安になっていった」
「それから、キリアはどうしたんだ?」
「鬱々と、ぐるぐると、考えを巡らせて……、わたしは、ある行動にたどり着いたんだ。それが、イドラの大釜の偵察任務だった。困難な任務だってわかっていたけど、クリアさえすれば、今度こそわたしを見てもらえるかもしれないという期待があったんだ……」
「しかし、それは……」
「そう、その任務の結果は、言うまでもなく、デュラハンに敗北して、失敗。チームメンバーのミーファとリアラは二人ともイドラ化されて、わたしはデュラハンに敗北して、聖杯浸食されて、今、この場にいる」
「そうか、二年前のあのとき、そんなことがあったのか……」
デュラハンは、大きくうなずく。
「やはり、話してみないとわからないんだな。あたしは、キリアはいつも明るい舞台で華々しく活動していて、何も不自由がない、才能と機会に恵まれたアイドルなのだと思っていた。しかし、今の話を聴いていると、これまでのキリアの人生は、耐えるばかりのいばらの道に思えてきた」
デュラハンは、キリアの目を優しく見つめて、伝え返した。
「キリアは、あのスカウトのときと同じように、ちゃんと見てもらえている、ちゃんと期待されているという確信が欲しかった、という感じで合っているだろうか?」
「合っている、と思う。わたしは確かめたかっただけなんだ……」
キリアは大きくため息をつく。ジュリアに突然見捨てられた不安や、わたしが任務に失敗し、行方不明になったことをジュリアはどう思っているかという焦りは、ため息といっしょに吐き出されることはなかった。
自分の心にこびりついている、ジュリアに関係する不安と焦り。
もう二年も行方不明の自分が、今更心配することではない。それはわかっているのだが、気にかかってしょうがない自分がいる……。
聖杯の中、暗闇によく似合う沈黙が流れる……。
スポットライトの中で、ぽつんと座るわたしたち二人にとっては気まずい沈黙だった。
デュラハンが大きく息を吸いこんだ。
そして、沈黙を破るため、大きな声でキリアに語り掛けた。
「キリア、一つ訊きたいことがある。憧れの人はマリアだと答えていたが、マリアのことはどうやって知ったんだ?」
キリアは、できる限りの過去を思い出そうとする。マリアを知ったきっかけ……。まぶたを閉じて、口をつぐみ、じっとして思考する。
すると、キリアの脳裏に、ぱっとまぶしい光が瞬く。その光にだんだん目が慣れてくる。その光源は、思い出を切り取った写真だった。その写真には、テレビに映る、汗がきらきらと輝くマリアの笑顔と、自分をほっとさせる優しい笑顔の誰かがいた。
その二人分の笑顔に引っ張られるように、キリアは満面の笑みとなった顔を上げ、「思い出した」と声を上げる。
キリアは目を見開き、茫然としていた。こんなに大事な瞬間を忘れていたなんて……。
ふと、書割を見ると、自分の脳裏に閃いた写真そのものが映し出されている。
デュラハンは、書割を横目で見つつ、キリアの行動にあっけにとられていた。
「マリアを知ったきっかけは、マリアのライブ映像を見たことだよ」
デュラハンは落ち着きを取り戻し、キリアの言葉を少しずつ確認していく。
「どんなライブ映像だったんだ?」
「マリアの興行のワンマンライブだった。マリアが大きなステージを縦横無尽に駆け回り、歌い、踊って……。とてもわくわくするライブだった」
「ライブを観たのは、初めてだったのか?どんな感想を持ったんだ?」
「初めてだった。CDではもちろん、テレビでも観ることができないマリアの一生懸命な表情と姿を観て、アイドルという遠い存在だったマリアを身近に感じることができた」
キリアは、当時に観ていたライブ映像を思い出し、その光景に身をゆだね、心を奪われるように、魅力を語る。
「マリアの汗や息づかい、歌うときの感情を込めた表情と伸びやかな歌声、踊るときの素早く無駄のない、指先にまでこだわった動作……、まるで、画面の中のライブ会場に引き込まれるようだった。」
キリアはうっとりした顔で続ける。
「こんな世界があったなんて……、新たな世界への扉を開いたようだった。こんなふうに、一つのことに集中して、一生懸命になれる舞台にに立ちたい! 子どもながらに、そう思っていたよ」
デュラハンは自分の左に視界ある書割を確認しながら、キリアに尋ねる。
「この書割の光景は、キリアが観ていたものなのか?」
「そうだね」
「この光景は、いつ、どんな状況なんだ?」
キリアはもう一度書割の光景を確認した後、この光景はよく覚えていた。
「ピアノのレッスンルームにあるテレビで観ていたんだ。防音室だったから、本当のライブ会場のような大きな音が出せて、迫力があったよ」
キリアは、そのときを思い出して、自然とにやにやしてしまった。
「キリア、何か楽しそうだな」
「うん。実は、このマリアのライブはこっそり観ていたんだ」
「こっそり?」
「そう、本当はこのとき、ピアノレッスンの時間だったんだ。しかし、担当の家庭教師が、今日のレッスンは休みにして、いっしょにライブを観るよ、ということになって……、レッスンルームに鍵をかけて、あの人たちに気づかれないように観ていたよ」
「レッスンを休みに……。何か不都合でもあったのか?」
キリアは思わず吹き出す。デュラハンが不思議そうに首を傾げる。この話をしていると、本当に楽しくなってくる。体がじんわり温かくなるようだった。
「不都合なんて、何もないよ。ミレナ先生もマリアのファンだったから。当時発売したばかりのライブ映像を購入したから、一刻も早く観たかっただけ」
キリアは笑いで声をはずませながら、続ける。
「レッスンをさぼるなんて、あの人たちに見つかったら、わたしも怒られるし、ミレナ先生もクビになってしまう。だから、部屋に鍵をかけて、こっそり鑑賞していたんだ。あの人たちに逆らったのは、このときが初めてかもしれない。ミレナ先生と共犯になって秘密を共有し、口裏を合わせるのはドキドキしたわ」
デュラハンが確認する。
「今、キリアが語っている『ミレナ先生』とは、ピアノのレッスンを担当していた家庭教師のことか?」
「そうだよ。正確に言うと、音楽の家庭教師だったわ」
キリアは、ミレナ先生のことをはっきりと思い出してきた。思い出すほど、わくわくするし、泣きたいくらいに切なくなる。
「わたしといっしょにライブ映像を観ながら、歌詞やメロディ、ダンスの振り付け、ステージのレイアウト、舞台演出の解説をしてくれたの。それが、すごく細かくて、あきれるくらいに詳しかったの。それに、わたしが驚きと感動で胸がいっぱいで、それを分かち合いたくなって、ミレナ先生の方に顔を向けたとき、先生も顔を向けてくれて、いっしょになって驚き、感動してくれた。それが何よりもうれしかったわ」
デュラハンも、その光景を思い浮かべ、うれしい気持ちになって尋ねる。
「ミレナ先生といっしょに感動できたことは、キリアにとって、どういうところがうれしかったんだ?」
キリアは、和やかな表情で素直に笑いながら、答える。
「わたしを見返してくれたこと。わたしの心をわかってくれたこと。いっしょの気持ちを感じたこと。だから、うれしかったんだ」
「それは、心が通じ合っている感じ、だろうか?」
「うん、合っていると思う。最初は恥ずかしくて、先生を見返すことができなかった。でも、ライブ映像が進むにつれて、恥ずかしさなんてどうでもよくなって……。最後は、先生といっしょにマリアのライブ映像に合わせて、歌って、踊りながら鑑賞をしていたよ」
今まで、なぜ忘れていたのかと思うほど、先生との思い出が次から次へとあふれ出していく。
ミレナ先生といっしょに過ごした時間は、短かった。しかし、キリアにとって、その時間は濃くて鮮烈な時間だった。




